016 2028年7月22日 片桐隆臣

 午後1時24分。探偵の片桐隆臣たかおみは、足立区の雑居ビルにある自宅兼事務所でパソコンのディスプレイを眺めていた。

 それは探偵になるよりも前に秋葉原のヨドバシで買った、日に焼けたデスクトップだったが、今はこれを使わなければインターネットに繋がらないのだ。部屋の隅から引っ張り出してきて、ホコリをはらって電源を入れると、激しく振動しながらも、どうにか起動してくれた。


 今朝方から、ユニリングを介してアプリケーションが起動しなくなっていた。どうやら、それらの実処理を行うクラウドサーバーに大規模な障害が発生したことが、その原因らしい。だが、全世界規模にユーザーがいるようなシロモノが、ちょっとやそっとの障害で全員使えなくなるというのは、少し考えづらいことだった。二度とサービスが復旧できないレベルの、いまはユーザーに明かせないような、とんでもない事が起こっているのではないかと片桐は想像していた。

 しかし、そもそも昨日から、世界中で普通ではないことが起き過ぎていて、こんな端末がひとつ使えなくなった程度のことは、大したことではなくなってしまっていた。


 ・各地で同時刻に頭を破裂させられた死体。

 ・うつされたら数時間で死ぬ病気。

 ・空を飛ぶ人影。


 たった一日で、人々の話題はこれらに集約され、それ以外について話している人間はほとんどいない状況である。盛大に催されたオリンピックの開会式も、それについて話している人間はわずかだ。

 ユニリングが使えなくなっているにも関らずネット上の盛り上がり方はそれほど衰えない。みんな古いスマートフォンやタブレット、パソコンを引っ張りだしてきて、インターネットをせずには居られない程に、何かを発信したり、見たりせずにはいられないのだ。


 片桐のディスプレイには、日本各地で撮影された空を飛ぶ人影の写真が表示されている。それらは西洋の甲冑のようなものや、豪奢な服を着た人のシルエットをしたもの、ウェットスーツを着たようなもので、何れも1体で現れて、地上を観察するように眺めたあと、どこかへ飛び去ってしまったという。


 片桐は、その空を飛ぶ人影に、見覚えがあった。

 写真に写されているのとまったく同じものではないが、似たようなものだ。

 たった数時間しかプレイしなかったが、アニマ・ムンディでプレイヤーが操作することになるプレイヤーキャラクターが、まさにこの空を飛ぶ人影と同じ姿をしているのだ。


【不老の異邦人】


 それが、ゲームの中でプレイヤーキャラクターたちに与えられる総称だった。チュートリアルしかプレイしていなかった片桐も、ゲームの中で賢人と呼ばれる人物から再三、

「蘇った不老の異邦人よ、自分の名前が思い出せるか」

 だとか、

「不老の異邦人としての資質を確かめる」

 だとかいって、基本操作を説明されていた。


 目撃された人影が、普通に地に足をついて現れたのなら、ファン同士が示し合わせてコスプレ大会でもしているのだろうと思うところだが、空を飛んでいるとなると話が変わってくる。

 SNS上でも、これが不老の異邦人に酷似していることに気がついたユーザーらが、

「これアニマ・ムンディのPCプレイヤーキャラクターじゃねえの?」

「写ってる不老の異邦人、どいつもこいつも廃人じゃねえか! 装備がとんでもないことになってるぞ」

「この黒い不老の異邦人、リディルにブラフマーストラ装備してんぞ! 廃人じゃねえ、神廃人だやべぇええ」

 といった具合で、大騒ぎになっている。片桐にはそれらのカタカナで書かれた専門用語が具体的にどの程度凄いのかはよく分からないが、しかし書き込んでいる人々が一様に畏敬のコメントを残しているあたり、どうやらそれらは相当に普通ではないらしい。

 さらには、

「こいつら、全部死んだナムイ・ラーの奴らなんじゃないの?」

 という書き込みによって、この空を飛ぶ人影イコール不老の異邦人という流れは、いっそう熱を帯びることになった。


 アニマ・ムンディの公式SNS上には、そのユーザーアカウントに紐付いた不老の異邦人の全身の姿が表示される仕組みがある。

 ナムイ・ラーの面々も例に漏れずそこに姿が表示されているのだが、確かに、現在各地で目撃されている空を飛ぶ人影のすべてが、ナムイ・ラーのメンバーの姿と一致するのである。

 そこには、昨日片桐が西荻窪で会うはずだった篠崎陸の不老の異邦人『タローマティ』の姿もあった。首から足元まで全身をすっぽり覆う鋼鉄の鎧を纏った、黒髪の美女という、このゲームに明るくない、片桐のような人間には奇妙としかいえない容姿をしていた。


 冷静になって考えれば、ゲームの中のキャラクターが現実に現れるなんてことは考えられないことなのだ。こんなことが現実に起こっていると考えるくらいなら、写真が合成であるほうが十分に有り得る話である。だが、この騒ぎの発端になった写真をアップロードした人物はパソコンなどの使い方もろくすっぽ分からず、ただ日々の写真を投稿することが趣味の老人であり、そのほかの多くも、ごく基本的な画像加工アプリケーションの使い方すらわからないようなユーザーがアップロードしたものだった。

 それで、結局のところこの写真が指し示すものがなんなのかは、誰にも、片桐にも分かっていなかった。ただ、何かとてつもなく異常なことが起こっているのだ、ということだけは、確かだった。


 画面をスクロールしていた片桐の手が止まった。

 それは神奈川県の秦野市で数時間前に撮影された写真だった。

 住宅街の屋根の上に大きな銃と一緒に浮かぶ、黒いウェットスーツを着た不老の異邦人が写されている。

 先日、片桐が行方をくらましているから探して欲しいと頼まれた、鈴木裕明の不老の異邦人『アカ・マナフ』の姿だった。

 このアカ・マナフは特に目撃情報が多く、遠くはニューヨークやパリ、果てはマチュピチュまで様々な場所の上空に浮いている写真が投稿されていた。

 鈴木裕明は昨日の昼に、自身のSNS上の日記に大きい赤文字の、

「笑」

 という一文字を書き残して以降、沈黙を続けている。

 その日記のコメント欄には、多くのユーザーからの言葉で埋め尽くされていた。


 他のメンバーが死んだのなら彼も例外なく死んだのだろうから、これはアカウントハックか家族が書いたものなのだろう。

 といった趣旨コメントや、


 お前が他のメンバーを全員殺したのか!

 といった趣旨のコメント、


 空を飛んでいるのはお前らなのか。

 といった趣旨のコメント、


 この状況で『笑』は不謹慎だと思う。

 といった見当外れなコメントと、


 記念書き込みのようなコメントの、大別して5種類のコメントが入り乱れて混沌を形成していた。

 しかし、これだけの騒ぎになっても、家族だという人物の書き込みは、一切なかった。


 片桐は窓へ近づくとブラインドの隙間から外を覗いた。

 外の通りに人影はない。皆、病気の感染を恐れて、家に閉じこもっているのだろう。

 咳をしていなければ無事。咳をしていれば、例外なく死亡。具体的なことは何も分からない。とにかく感染したくなかったら咳をしている人間から遠ざかり、引きこもれ。不要不急の外出はするな。

 単純ながら、恐ろしくシビアなルールが窓の向こうに広がっているのだ。

 さらには数十分前からは、

「病気で死んだ人間が生き返って人を食ってる」

 という書き込みがチラホラ現れ始めていた。

 状況は恐ろしい速度で変化していた。

 すでに、鈴木裕明の捜索依頼をしてきたあの女とは連絡がつかなくなっていた。


 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、一気に飲む。

 空になったボトルをゴミ箱に投げ込んで、椅子に腰掛けた。


 片桐には、純粋な興味があった。

 本来、探偵であれば、するべきではない行為だと、十分理解していた。

 そうするとどうなるのか、先のことなんかさっぱり分からない。

 こういった軽薄さが、自分自身を場末の探偵などという場所に貶めたのだということも、分かっていた。


 片桐はキーボードに指を置くと、簡単な文章を入力した。

「家族のかたが、あなたを探しています。連絡ください」

 その下へ、メールアドレスを添える。


 ただ、この急激に変化していく周りの状況において、こうするとどうなるのだろう、という子供のような興味が、片桐をその行為へ駆り立てていた。

 本当に、本当に、あの浮いているヤツが不老の異邦人なのだとして、本当に、本当に、その中の1人が鈴木裕明なのだとして――

 彼がこうして異常な姿で各地で目撃されることになった、その数日前に、自分が捜索を依頼されたことは、本当に偶然だったのだろうか?


「なんにも起こりはしない。知ってんだ。おれには面白いことなんか起こせない」

 独り呟いて、送信ボタンを押した。


 きっとイタズラメールが沢山くるだろうな、と思った。


 刹那、時計代わりに付けっぱなしにしていたユニコンタクトの、困り顔だったクラウドアイコンが、笑顔に変化した。

 続いて、メッセージアプリが新規ユーザーの承認待ちを告げる。

『Akvan』

 それがユーザー名だった。ユーザーアイコンは真っ白。プロフィール情報はなし。

 片桐は全身に鳥肌がたつのを感じながら、それを承認した。

 するとすぐに、Akvanから、

「はじめまして! 私を探しているのは、お父さんですか? お母さんですか?」

 というメッセージが届いた。

 少し考えてから片桐は、

「はじめまして。探偵の片桐と言います。あなたを探しているのは、お母さんです」

 と、答えた。


 一瞬の間をおいて、

「わあ! それって、とっても素敵ですね!」

 という一文が、片桐の視界に現れた。

 その、答えづらい発言に、どう返事をしたものかと悩んでいると、

「なんだよ、早く喋れよ」

 という一文が現れ、さらに、

「短気は損気だよ!」

 という一文が現れ、さらに――


「こうやって喋れるんだ! すごい!」


「タバコが恋しい」


「本場オリンピックなう」


「嫁がいないってほんと幸せ」


「これって誰かみてるの?」


「うるさいなあ」


「それって素敵!」


「共感を期待しないでください」


「人間じゃないヤベーやつ」


「黙ってたらわかんないでーす」


「楽しいことが一杯したいな!」


「パリは燃えているっぴ!」


「質問してんだから答えろや」


「こんなことしてないでレベル上げしなきゃ」



 短い発言が片桐の応答を待たずに次々流れていく。

 能天気な、馬鹿げた、子供じみた、脈絡のない発言が、1つのユーザーから垂れ流されていく。片桐は背筋が寒くなり、身体をわずかに震わせた。


「ごめんなさい! ちょっと変ですよね、私。分かってるんですけど、なんだかうまくいかなくって」

 Akvanの発言は、それでようやく停止した。

 片桐は、心を落ち着けながら、

「いえ、大丈夫です。こちらこそ、返事が遅くてすいません。ちょっと、急にクラウドアプリケーションが使えるようになったので、驚いてしまって」

 と応答した。片桐は、他にクラウド接続できた人間がいるのか軽く調べたが、一切そんなことを言っている人間はいなかった。

「そうでしたか。それで、お母さんにはあえますか?」

 と、Akvan。

 片桐は即座に答えた。

「ええ、会えますよ」

 片桐は再び使えるようになったアプリケーションの中から、地図アプリを起動して、追跡しているGPSタグの1つをタップした。

 蒲田駅そばで点滅している。

 それは、あの女がタブレットを渡してきたときに、仕込んでおいたGPSタグの場所だった。

「わあ、本当ですか? それって、とってもとっても素敵ですね!」

 Akvanは答えた。

 片桐には、その言葉の向こう側に、どんな感情が潜んでいるのか、まったく理解できなかった。

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