045 2028年8月2日 柄崎卓
午前8時42分。
周囲は柄崎の枕元に置かれた、ランタン型の懐中電灯が照らしている。すぐ近くに、床に座り込んで眠っている男と、床に突っ伏して眠っている女の姿が見える。みな、柄崎と同じアニマ・ムンディの運営制作会社であるツインヘッドの社員であり、昨日の夕方、このデータセンターまでやってきたものたちだった。
ランタン型の懐中電灯が照らしているよりも外側は、完全な闇である。窓のないデータセンターから電力が絶えたいま、懐中電灯の光以外には、建屋内に一切の光はない。
床に寝そべっていた柄崎は、激しい筋肉痛に悲鳴をあげている体を、無理やり起こした。立ち上がると、腿や横腹が突っ張ったように痛んだ。
柄崎が動き出したことで、座って眠っていた男――キャラクターデザイナーの森田が大きなため息とともに目を覚ました。
「あー、結構寝たなぁ……」
森田は腕時計を見ながらつぶやいた。
「さすがにみんな、疲れたんですよ」
柄崎はうろ覚えのストレッチをしながら答えた。
「あと1枚、頑張るかぁ」
森田は鞄からカロリーメイトを取り出しながら、すぐ目の前で行く手を遮っている扉を憎々しげに見やった。
「ああ……、もう始めますか……、はい……、起きます、はい……」
少しして、鞄を枕にして床に突っ伏して眠っていた女――プログラマーの小野寺が、弱々しい声をあげながら、小鹿じみた動きで起き上がった。
「小野寺ちゃんはまだ休んでてもいいよ。でも、うるさくて寝てらんないか」
柄崎はそう言うと、鞄に仕舞っていた懐中電灯を取り出し、扉を照らすようにして床に置いた。
「それじゃあ、俺からやろうかな」
森田は壁に立てかけてあった大ぶりの木槌を手に取ると、扉の前に立った。どうやら森田も筋肉痛で体が痛むらしく、どことなく動きがぎこちない。
「よろしくお願いします……」
小野寺が何もない空間に向かって頭を下げながら言った。
森田は木槌を振り上げると、勢いよく扉に振り下ろした。けたたましい衝撃音が、建屋内に響き渡る。
柄崎達は、この扉に至るまでに、このデータセンターの中だけですでに3枚の扉を破壊してきていた。どの扉も、この原始的な手段で破壊するには頑丈に過ぎ、この最後の1枚を前にして全員の精魂が尽き果てたのだった。
そもそもこのデータセンターに至るまでの道のりも険しいもので、道中で背景モデラ―の中島が
危険を冒してまでここにやってきたのは、このデータセンター内にあるアートマメディア管轄のサーバで運用されていた、アニマ・ムンディのNPCのAIデータを調査するためだった。
外で起きている奇怪な現象が、すべてゲームであるアニマ・ムンディの中から現実に出現したものであるということは、もはや疑いようのない事実だ。
しかし、それが一体どういった理屈で、如何なる原因で引き起こされたことであるのかは、未だ誰にもわかってはいない。もはや世の中にはこの事象について詳細に調査するような、高度な知識を持った人間が生き残っているとは、到底思えないような状況になってしまった。原因を突き止めることのできる可能性のある人間は、あのゲームを作り出した自分たちを除いてはいないだろう。
すべての発端は、7月21日に、とある1つのサーバーで発生したサーバーダウンだった。そこからサーバーダウンは連鎖的に他サーバーへ広がって行った。それはほとんど一瞬の出来事といってもいい速度ではあったが、それでも全てが完全に同時だったわけではない。
そして、それと同時に発生したのが、NPCのAIデータが運用されていたサーバー群の圧壊だった。それは人づてに聞いただけの話でしかなく、急激にサーバー本体が重くなり壊れた、としか聞かされていない柄崎には、理屈からしてまったく理解できない話だったが、しかしそれは本当に起きたことなのだという。
そこから、柄崎は7月21日に最初に障害を起こしたサーバーのNPCのAIデータに、何らかこの現実を浸食しつつある奇怪な事象を紐解くことのできるヒントがあるのではないか、と考えた。
混乱の中、どうにか生き残り、そして連絡の取れた社員同士で集まったものの、具体的な情報を持っているものは誰一人いなかった。ここへ来る直前には、ツインヘッド社のあったビルへ立ち寄ったが、中には生存者もおらず――それだけなら良かったのだが、どうやらビル内でもゾンビが発生したことによるパニックが発生した様子で、フロア中がひっくり返れたような惨憺たる状況だった。おまけに火事の影響で、スプリンクラーによって電子機器もほとんどが死んでしまっていたのだ。
そんな成り行きで、柄崎は全くのゼロから調査をせざるを得なかった。今更調べ始めたところで、既に失われてしまった人の数は圧倒的で、何もかも手遅れであるようにも思えた。それでも、自分たちならば、どうにかできる可能性がわずかでもあるはずだ、という一縷の望みを抱いてはみたものの、目の前に広がっている事態はあまりにも深刻で、やはり手には負えないのではないか、という思いがよぎり、気づけば思考は堂々巡りしている。
それでも必死の思いでやってきたのが、このデータセンターだった。ここにあるのは、あくまでNPCがごく自然にゲームの世界の中で考え、生活させるためのAIが運用されているサーバー群である。実際にゲームで動いている、キャラクターのモデルデータや、背景のデータなどは都築のデータセンターにある。一般的にゲームサーバーと呼ばれるものは、そちらだ。
NPCのAIには全く意識されないことではあるが、実際はNPC達はこの場所から、遠隔で自分の体を動かしていることになる。
そのサーバーで発生した圧壊とは、果たしてなんだったのか。それを突き止めた先に、もしかしたら全てを解決することができる切っ掛けがあるかもしれない。
森田と交代して木槌を振り下ろしていた柄崎は、壁に手をつき大きく息を吐いた。
目の前の扉は、一見すると何の変哲もない、取っ手のついた鉄製の扉である。いくら鉄製とはいっても、鍵のある取っ手部分を集中的に叩き続ければ、すぐに開きそうなものだ。
しかし、この扉は中のサーバールームを守るために、過剰に高気密かつ高セキュリティに作られているらしく、どうやら至る所にロックがあるようだった。いくら叩いても、開く気配がない。ようやくロックのひとつが歪んで、わずかに隙間が開いただけだった。
「これで、扉の向こうに石化した像でもあったら、笑えるな」
床に腰を下ろして休んでいた森田が、まったく楽しくなさそうに言った。
「やめてくださいよ……、わたし、石化に耐性ないんですから……」
膝を抱えて座っていた小野寺が、声を震わせて言った。
「そういえば、ゾンビ化と狂乱化が広まってたくらいなんだから、どこかで石化も広がっていってるんですかねえ」
柄崎は汗を拭いながら言った。
「どうだろうな。でも、もしゾンビと狂乱と石化が1か所に集まったら、いよいよ人類滅亡だぞ」
森田は肩を竦めた。
確かに森田の言う通り、もしそうなれば、生き残れるのは聖痕を持つあらゆる状態異常に完全耐性のNPCだけだ。不老の異邦人には必ず耐性に1つ穴が出来るようにデザインされているので、3つが一堂に会すことが万が一あれば、助からない。それは、同じように耐性を持っている生き残りの人間にも、言えることだ。
「――まあ、もうほとんど滅亡してるみたいなもんだけどな」
森田は鼻で笑いながら言うと、ペットボトルに口をつけた。
「やめましょうよ、そういうテンション下がること言うの……。滅亡しないで済むように、頑張ろうってここまで来たんじゃないですかぁ」
小野寺が口を尖らせて言った。
柄崎は無言で、再び木槌を振り下ろした。
途中、何度か小野寺にも木槌を振り下ろしてもらい、2時間ほどかけて、ようやく人が通れそうなだけの隙間が出来た。
柄崎は懐中電灯で中を照らしながら、隙間を越えて、サーバールームへ足を踏み入れた。後ろで小野寺が、NPCデータの保管サーバーと、実際のゲームサーバーとを対応させた表を見ながら、目的のサーバーラックの場所を指示した。
サーバールーム内は、話に聞いていた通り、床のタイルにはいくつもの亀裂が入り、サーバーのが収まっているラックのフレームも地面に向かって歪んでいる。
サーバーには、ブレードと呼ばれる扁平な装置が複数横向きに刺さっていた。これらがサーバーの処理を行う最小構成単位であり、一枚一枚がパソコンのようなものなのだ、と小野寺は説明した。
柄崎は目的のサーバーに刺さっているブレードの中から、腰ほどの高さにある1つを引き抜こうと、ロックを解除した。そうして、手前に引き出そうと力を加えるが、びくともしない。
「いやこれ、引っこ抜けるのか……?」
柄崎はなんどか繰り返し手前に向かって力をかけるが、それはラックごと一つの塊であるかのように動く気配を見せず、まるで引き抜ける予感がしなかった。
森田と2人がかりで強引に引っ張ってみるが、それでもほとんど手ごたえがない。しかし、そうやって繰り返し繰り返し力を加えていくと、やがて金属が強く擦れあう音と共に、ブレードは手前に引き出されてきた。
「マジでこれ、重いな」
森田がつぶやいた。
本来、ブレード1枚はパソコンの筐体と同程度の重さのはずなのだが、しかしいま2人がかりで引っ張りだしたそれは、まるで狭い隙間に収まった鋼鉄の塊だった。
十分に引っ張りだしたあと、柄崎と森田は2人で掛け声をかけあいながら、きわめて慎重にブレードを床に下ろした。
「洒落になんないですね。米俵より重いですよ、絶対」
柄崎はようやくブレードから手を離すことができ、ほっとしながら言った。
「もう少し高いところにあったら下ろせなかったかもな」
森田はそう言うと、大きく息を吐いた。
「たしかに、なんかちょっと膨らんでますねぇ……。ストレージのあるあたりですね、膨らんでるの」
小野寺がブレードの側面を懐中電灯で照らしながら言った。
確かに、照らされた箇所はわずかに内側から膨らんでいるように見える。重さに加えて、この膨らみが引き出し難さの原因だったのだろう。
小野寺は鞄から工具箱を出すと、ブレードをあっというまに分解していった。どうやら細かいパーツの重さに変化はないらしい。
中を開けると、一目で様子のおかしい物体があることが分かった。七輪の上の餅のごとく膨らんだ物体が、中におさまっている。
「やっぱりストレージですね……」
小野寺は、恐る恐るといった動きで、ストレージをブレードから取り外しにかかった。
「バッテリーじゃあるまいし、ストレージが膨らむなんて、普通考えられないよな」
森田が小野寺の作業を補助しながら言った。
しばらくして、小野寺の作業によってブレードとの物理的な接続が断たれたストレージは、下で支えていた柄崎と森田の手をその異常な重さですり抜け、ゴトンと音をたてて床に落ちた。その拍子に、タイルが派手に割れた。
3人がほとんど同時に唾を飲み込む音が、サーバールームに響いた。
小野寺は無言で、持ってきたノートパソコンとストレージを接続するが、認識する気配は無い様子で、首を横に振った。
柄崎はひび割れたタイルの中心にある、決して大きいとは言えない四角い物体を持ち上げてみようとした。しかし、それは見た目の大きさに反して信じがたい程に重い。間違いなく、先ほどブレードが米俵よりも重いと感じたその原因は、このストレージにあった。
こんな、文庫本に気をもった程度の大きさしかない物体が、それほどに重くなることなどあり得るのだろうか。明らかに、物体の大きさに対しての重さの比重がおかしい。金塊だって、この程度の大きさならば重くて持ち上げられないなどということはない。
「中、どうなってるんでしょうね」
柄崎は足元の物体を見下ろしながら言った。
「分解、してみます?」
小野寺が年上2人の様子を窺うようにして言った。
「まあ、ここまできたんだからなぁ……」
森田はストレージをつま先でつついた。
ストレージは膨張によって激しく歪んでおり、分解は一筋縄ではいかなかった。3人で額を突き合わせるようにして、その異様な重さで怪我をしないよう、注意を払いながら作業は行われた。
そうして数十分かけて、ようやく中の基盤が露わになった。
そこにあったのは、黒々とした金属光沢を放つ、いびつな塊だった。中の基盤は、その塊がみっしりと詰まったことによって、砕けてしまっている。
その塊に、森田が顔を近づけた。
「なんだこれ。鉄の塊? なんでストレージの中に、こんなもんがあるんだ」
それに続いて、小野寺も「なんでしょうね……」と、顔を近づけたが、不意に「あれ?」と首を傾げた。
「どうしたの、小野寺ちゃん」
柄崎がたずねると、小野寺は振り返らずに言った。
「いやあ、なんか、いい匂いがしません? なんだっけ、この匂い……」
小野寺に言われ、柄崎も顔を近づけ、黒い塊の匂いを嗅いだ。確かに、わずかに甘いような芳ばしいような匂いがしている。
「これ、シナモンの匂いじゃないか」
しばらく考えてから、柄崎は言った。あまりにも場違いな匂いだったため正体が掴めずにいたが、一度わかってしまえば、それは明らかに
「ああ、そうですね、シナモンですね、この匂い」小野寺は大きく頷いた。「でも、それだけじゃあないですよね。なんか金属でもないし、シナモンでもない、別の匂いがしてません?」
森田は、うーん、と唸りながら、金属の塊に鼻を近づける。
「ああ、これ、ワインじゃねえか? いやでも、なんで金属の塊から、ワインの匂いなんかがするんだ?」
森田は首をかしげた。
「でも、間違いなくワインの匂いですね、この匂い。ワインと、シナモンの匂いがしてますよ」
小野寺は再び大きく頷いた。
柄崎は床に置かれた、シナモンとワインの香りのする金属の塊を眺めていた。
NPCのAIが活動していたサーバーに発生した、この金属の塊の正体は、果たしてなんなのだろうかと、柄崎は考えていた。7月21日の朝、全ての異変に先立って起こった、サーバーの圧壊――この金属の塊の発生が、外の異変と全く無関係だとは、とても思えなかった。
「なんか、いろいろ匂いがするものだと思って嗅いでると、他の匂いもするような気がするんだよなぁ……」
森田はそう言って、金属に顔を近づけている。
「それにしても、ここで動いてたAIは、みんな死んじゃったんですよねえ」
小野寺は周囲を懐中電灯で照らしながら言った。
「死んだっていうか、消えたっていうか、まあ、そういう感じだなぁ」
森田は金属の匂いを嗅ぎながら、適当に相槌を打つように言った。
「人間もAIも死んで天国に行くんなら、天国は大忙しですねぇ」
小野寺はそういって、カバンから取り出したペットボトルに口をつけた。
その時、柄崎の思考が、何かに追突されたような激しい衝撃に見舞われた。
「天国に、行く……」
柄崎はつぶやきながら、頭を抱えた。
「どうした柄崎、大丈夫か?」
急に様子がおかしくなった柄崎を見て、森田は怪訝な顔をした。
「アニマ・ムンディの死者が、天国で……、死者の国で暮らすのに困らないよう、持っていくもの」
柄崎は頭から押し出されるように呟き続ける。
「ああ、そういえば、魂の構成物なんて設定が……、ありましたね……」
小野寺が徐々に顔を強張らせながら、足元の金属の塊を見下ろした。
食べるに困らないための、パン。
死後の国で生活するための、銀貨。
先祖と酌み交わすための、葡萄酒。
死後についた匂いを消すための、桂皮。
それは、シナリオプランナーである、自分が、柄崎自身が作った、アニマ・ムンディの設定だった。
「葡萄酒と、桂皮の匂い……、それに、金属の、銀貨の塊……」
柄崎は声を震わせながら言った。
森田も小野寺も、ただじっと、ストレージの基盤にへばりついた金属の塊を見下ろしている。
「これは、NPCの、魂だ……」
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