018 2028年7月23日 尾崎美智香
午前1時24分。横須賀衛生研究センターの一室で、職員の尾崎美智香(43)は、作業椅子の背もたれに寄りかかりながら、時計の針が進んでいくのを眺めていた。
5時間23分前から出はじめていた咳は、うんざりするほどしつこく尾崎の体を揺らした。
部屋の片隅では、一緒にこの部屋へ逃げてきた同僚が二人、床の上で丸くなって死んでいる。彼らが息を引き取ったのは30分ほど前だ。放っておいても影響はない。
あとどれくらい、こうして考え事が出来るのだろうか。もはや自分に出来ることは、何もないのだけれども。
なぜか、今日の夕飯をどうしようかだとか、来週石垣島に行ってスキューバをするのが楽しみだとか、無為なことが頭を駆け巡っては、部屋から出て行って、その準備をしなければならないような気持ちに駆り立てられた。
扉の向こうで、ガリガリと引っかいている音がしていなければ、とっくにそうしていたかもしれない。あの向こう側にいるのは、一度死んだはずなのにも関らず息を吹き返し、周囲の人間を襲って回る、人間の成れの果てだ。
咳の症状が現れてから死亡して、さらに6時間~9時間が経過すると、突然目を開けて、先祖がえりでもしたかのように、サルのような格好で動きまわる。力は強いが、頭はサルより劣るらしく、扉を開けたりは出来ないらしい。なので、簡易的なバリケードさえ築ければ、身を護ることは容易い。
とはいっても、自分も間もなくあちらの仲間入りを果たすことになるのだが。
尾崎は咳き込んでから、膝の上に落ちた砂を払った。
足元には、それとはっきり分かるほどに、砂が積もっている。
そう、砂。
砂なのだ。
全ては砂が原因だったのだ。
原理や理屈など一切分からない。
ただ、防護服越しだろうと、靴越しだろうと、お構いなしに触った人間を死に至らしめる、この悪夢のような砂が、全ての原因だったのだ。
砂に触ってはいけない。
砂に触った人間が助かるすべなど、どこにもないのだ。
この砂は、いったい何なのだろうか。
いったい何処からやってきたのだろうか。
現状、辿ることの出来る糸の末端に居るのが、壁一面の大きなガラスの向こうで眠っている、ブロンドの、まだ三十手前くらいの女だった。
彼女の周囲には、どこからともなく、例の砂が現れて積もっていくのだ。
彼女は幾度となく砂に触れているにも関らず、咳をするわけでもなく、サルのように蘇るわけでもなく、ただひたすらに、寝息を立てているだけだった。
彼女だけが特別であることは間違いない。
しかし、そうして彼女の特別性を認めたところで、何も解決はしなかった。
ただ、センターの中の自分以外の全員が死亡し、サルのように駆け回り、自分も間もなくそうなるという現実に到達しただけだった。
昨日の自分は、まさか今日こんな風に一人ぼっちで死ぬなんて、思いもしなかった。
でも、いまは独りでも、きっと三途の川は渋滞しているだろうな、と想像して、尾崎は笑った。
時計が午前1時40分を指した。
もう、次の瞬間には意識がなくなってもおかしくない時間だ。
ガラスの向こうの女は、こちらのことなどお構いなしに、気持ちよさそうに眠っている。
――私の気も知らないで。
一発殴ってやりたいところだったが、しかしガラスの向こう側の部屋に入るには、一度廊下に出なくてはならない。生きているものの臭いが漏れているからなのか、廊下からは、ひっきりなしにガリガリと引っかく音がしていた。
ここまできて、最後に痛い思いをするのは嫌だった。
尾崎は椅子の上で身体を丸めると、大きく息を吐き出した。
一緒になって、咳が出た。
一気に息を吸い込んで、大きな声で叫んだ。
心の底から、叫んだ。
もしも誰かが自分の姿を見たら、頭がおかしくなったと思うに違いない。
だけど、そんなことはもう、どうでもよいことだった。
尾崎は何度も何度も、唸り、叫んだ。
いくらやっても、気分は晴れなかった。
尾崎は衝動的に目の前においてあるマイクを引き寄せて、通話ボタンを押した。
「ねえ、殴らないからさ、かわりに教えてほしいんだけど、あなたは何者なの?」
向こうの部屋で、尾崎の声がスピーカーから流れる。
「私はさ、こんな年だけどさ、まださ、結構やりたいことがあったわけ。行ってない海はまだあるし、行ってない国もたくさんあるし、見たことのない景色だって、いっぱいあってさ、ぜんぜんまだまだ、満足なんかしてなかったわけ」
マイクを握る手が震える。
「普通に生きてたって、人生短いな、って思ってたのに、こんなのってある? ちょっとひどいと思わない?」
声が震える。
「あなたのせいでさ、いいわよ、死んであげるわよ。ええ、私はあなたのせいで死ぬ。ええ、特別に死んでやるからさ、だから教えてよ」
咳。
「あなたは何者なの?」
咳。
「私は、なんのために死ぬの?」
一度出始めた咳は、しつこくしつこく、何度も尾崎の身体を揺らす。無理に喋ろうとしたせいで、余計に咳が酷くなる。
苦しくて涙がでた。
長く続いた咳がようやく止まって、まだ自分の意識があることを確かめながら、尾崎は再びガラスの向こう側に恨み言を投げ込もうとした。
その時、どこかから声がした。
「すまない」
明活な、はっきりとしたその声が、一体どこからしたのか、尾崎は一瞬分からなかった。顔を上げたガラスの向こうで、自分を見つめる視線に気がついて、尾崎は息を飲んだ。
いつの間にかベッドから起き上がっていた、ブロンドの女――たしか、デネッタだとかいったはずだ――が、はだしのまま床に立って、悲しそうな顔をしてこちらを見つめていた。
デネッタが話をしたのは、横浜で最初に発見されたときと、搬送された病院で1度目を覚ました時の、2度だと聞いていた。いずれの時も、朦朧とした目で、うわごとのように喋っていたらしいが、今は違った。
「あんたは、私のせいで死ぬんだな。謝ってどうにかなることじゃあないのは分かってる。でも、ほんとうに、すまない」
デネッタは唇を噛んで、そう言った。
突然の出来事に、尾崎は面食らってただデネッタと目を合わせたまま、ぼんやりとしていた。尾崎の思考は以前のように整然と回転することなく、かみ合わせの悪い歯車はどんどん欠けていく。
やがて、1つのひらめきが訪れて、慌てて通話ボタンを押した。
残された時間は短い。
「あなた、ちょっと……」
――もしかして。
忌々しい咳で言葉が詰まった。
早く尋ねなければ手遅れになるというのに、言葉を発することが出来ない。
必死に息を整えようとしていると、デネッタの声が届いた。
「私の友人たちも皆、その咳のせいで死んだ。私にはどうすることもできなかった」
デネッタはそう言って、無念そうに目を瞑った。
この女が、病気を治す手立てを知っているのではないかと一縷の望みを抱いていた尾崎は、間髪置かずに、一瞬にしてそれが打ち砕かれ、思わず笑ってしまった。
ああそうか、やっぱり自分は死んでしまうんだ。
それはもう、しばらく前から覚悟していたことだったのに、目の前で突然起き上がられたりするものだから、思い切り揺らいでしまったじゃないか。
ひとしきり笑ったあと、尾崎は涙を拭った。
ガラスの向こうに佇む女は、そこら中を包帯で隠してはいるが、作り物のように美しい顔をしており、作り物のようにスタイルが良かった。輝くブロンドの髪が流れていくすべての向きがまるで計算されているようなシルエットを描き、立っている姿は、ファッション雑誌の表紙を飾る外国人モデルだった。
そこで、ふと気付いて、尾崎は尋ねた。
「あなた、本当に日本語が上手なのね。もしかして、日本人なの?」
デネッタは眉を寄せて、首をかしげた。
その仕草1つが、切り取られた絵のように洗練されている。
それがなんだかおかしくて、馬鹿馬鹿しくて、尾崎は再び笑った。声を出して。
咳が出たけど、構わずに笑い続けた。どうせ死ぬのだ。最後は笑って死にたかった。
「ひとつ聞きたいんだが」
デネッタが何か喋っているの聞こえた。同時に、自分の体から一気に力が抜けていくのを感じた。
「ここはどこなんだ」
尾崎が最後見たのは、不安そうに辺りを見回すデネッタの姿だった。
通話ボタンを抑える力は失われ、マイクは引きずられて床へ落ちた。
――あなたになんか、教えてやるもんか。
尾崎の最期の思いは、闇の中に溶けていった。
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フェーズ2へ続く
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