009 2028年7月21日 俯瞰

 15時48分。村井総太は、周囲からあまりにも具合が悪そうだと早退をすすめられ、海老名市の自宅へと戻ってきた。

 昼ごろから、しきりに咳が出て止まらないのだ。別に熱があるわけでもなく、鼻水が出るわけでもなく、ただただ延々と咳が出つづけるのだ。どうやら、あの病院で佐竹とか言う医者から風邪をうつされてしまったらしい。

 ただ、自覚できる症状はそれだけで、不思議と自分自身は具合が悪いという感じではなかった。しかし動こうとするとどういうわけか、酔っ払ったように足取りがふらついてしまう。鏡を覗き込むと顔面は青白く眼窩は落ち窪んでいた。それは、4年前に膵臓ガンで死んだ義父の、死の直前とそっくりだった。


 とりあえずベッドで横になってはみたものの、眠気はなく、ともすればちょっと外に出て散歩でもしたいような気分だった。歩くとふらふらするのに、気持ちだけは妙に生気に満ち溢れていて、いろいろなことがしたくてたまらなかった。


 リビングからは夏休みに入ったばかりの息子が、友達とゲームをしてはしゃいでいる声が聞こえてくる。

 今年中学二年になった息子の翼は、最近になって急に村井を避けるようになった。そういう年齢なのだから仕方のないといえばそれまでなのだが。夏休みになると毎年行っていたキャンプにも、今年からはもう行かないと宣告され、返す言葉もなく虚しい気持ちになった村井であった。


 そうだ。

 一泊二日のキャンプでなくとも、日帰りで温泉に行くのでもいいじゃないか。ここで息子との距離が離れてしまうと、永遠にその間を埋めることが出来ないかもしれない。どこか行きたいところがないか、聞いてみよう。

 村井は思い立って、ベッドから起き上がった。自分の身体の上にうっすら積もっていた、薄茶色の砂が、さらさらと床に落ちたが、村井は気がつかなかった。


 壁に手をつきながら階下へ降り、息子が馬鹿笑いをしているリビングへ入った。

 唐突に身体から力が抜けるのを感じ、村井は床に倒れこんだ。

 遠くで息子が慌てたような声をあげるのが聞こえた。

 誰かが肩を揺すっている。


 ――なあ、温泉なら、どこに行きたい?


 その一言が口から出せず、村井総太は力尽きた。


******


 村井総太の妻、村井敦子(44)は、体調不良で早退してきた夫のために、ビタミン補給のためのドリンク剤や、食事が喉を通らなかったときのためのゼリー飲料などを買いに、近所のドラッグストアへやって来ていた。


 普段まったく病気になどならない総太が、あんなにもゲホゲホと咳き込んでいるのは珍しいことだった。顔色はこれまで見たことがないくらいに悪く、本当なら病院へ行かせたいところなのだが、本人はそんなに調子が悪いわけではない、などと言ってきかなかった。


 会計を終えて外へ出ると、ポケットが小刻みに揺れた。誰かからメッセージが来たらしいが、ユニコンタクトやユニグラスを持たない敦子は、ポケットからスマートフォンを出さなければならなかった。しかし、いま両手は大量に買い込んだ買い物袋でふさがっていて、スマートフォンを取り出す余裕はない。

 こういうときに、ユニグラスにしておけばよかったと思う敦子だったが、とはいっても、こんな風にすぐにスマートフォンを取り出せないなんていうタイミングはそうそうあるものでもない。わざわざ新しいオモチャを買ってまで、即座にメッセージを確認しなければならないほど、日々に追われているわけでもない。そう考えると、やっぱりあんなメガネやコンタクトレンズなんか必要はないのだ。


 それにしても、先ほどからなんどもなんどもメッセージを着信している。もしかして急な用事だろうか。早く荷物を降ろして確認しなければ。

 敦子は不安に思いながら、足を速めた。角から急に現れた自転車に、激しくベルを鳴らされたが、振り返ることなく家路を急いだ。

 先ほどから何度も無意識に咳き込んでいたが、敦子はそれに気付いていなかった。


******


 警備会社に勤める西野智一(29)は、夜勤に間に合うかの瀬戸際で焦っていた。かしわ台駅を出る16時6分の相鉄線に乗れなければ、遅刻確定なのだ。今月すでに1度遅刻している西野は、これ以上の遅刻で主任から訓示を長々垂れられるのは御免だった。


 途中、角から急に現れた、両手に荷物をもった小太りの女にぶつかりそうになったが、謝ることもなく駅へ急いだ。


 自転車置き場に自転車を止めていると、目的の電車がやってくるのが見えた。小走りで改札を抜けながら、どうにか間に合ったことに、とりあえずほっと胸をなでおろした。

 担当しているビルは武蔵小杉にあるため、一度横浜駅で横須賀線に乗り換えなければならない。西野は遅延が発生していないか検索をかけた、どうやら、いまのところは平常どおりに動いているようだった。

 喉が渇いた西野は、カバンに入れていた水筒を出そうとして、むせるように咳き込んだ。なんだろう、唾がひっかかった様子でもない。訝りながらも、水筒に口をつけて麦茶を飲んだ。


 しかし、横浜駅に着いても西野の咳が止まることはなかった。もしや風邪でもひいてしまったのだろうか。これから仕事だというのに、ついていない。さっき自転車でぶつかりそうになったおばさんが咳き込んでいたが、もしかして、あれがうつってしまったのだろうか。いやまさか、そんなに早くうつるはずはないだろう。


 横須賀線のホームで電車を待っていると、ヨドバシカメラの大きな袋とスーツケースを持った男がひとり、隣に並んできた。男は、横須賀線がやってきても乗り込むことはなかった。おそらく成田エクスプレスを待っているのだろう。

 西野は横須賀線の座席に座りながら、この電車が途中で止まらないことを祈った。


******


 中国大連でIT系人材派遣会社に勤める黄名哲(32)は、成田空港へ向かうため成田エクスプレスを待っていた。こちらへ派遣している同胞たちの近況確認やら、派遣先の会社の人間やらと打ち合わせを行う慌しい3日間が終わり、ようやく帰国と相成ったのだ。


 チケットに書かれた車両の乗り口に並ぶと、既に並んでいた隣の男がしきりにゲホゲホと咳をしていた。あまり気分のいいものではなかったので、離れていようかとも思ったが、しかし五分もすれば電車はやってくるので、そのまま待つことにした。咳をしていた男はすぐにやってきた電車に乗って行ってしまった。


 続いてやってきた成田エクスプレスに乗り込むと、黄は座席に腰を下ろして大きくため息をついた。これでしばらく、日本人と一緒に食事をしなくていいと思うと、とても晴れやかな気分になるものだった。

 日本人は妙に自分達の国の料理に自信があるらしく、誰も彼も、黄を食事に誘っては、どうだ美味しいだろう、中国ではこんなものは食べられないだろう、というような顔をする。それが堪らなく不愉快だった。日本で出てくる料理など、どれもどこかの国の料理の寄せ集めでしかなく、それにせいぜい醤油が入っているかどうかの差しかないような陳腐なものではないか。そんな、別の国でも食べられるようなものを、さも世界で一番美味しいものだと言わんばかりに食べている態度は滑稽でしかない。


 まもなく東京だというアナウンスが流れ、黄は向かいの席に伸ばしていた足を下ろした。それと同時にひとつ、むせるような咳が出た。

 立て続けに何度か咳が出て、黄は口元を手で押さえた。埃でも吸ってしまったのだろうか。ようやく咳が止まり、何気なく口を押さえていた手の平を覗き込むと、そこに自分の唾液の飛沫のほかに、細かい砂粒のようなものがいくつか、付着していた。

 これのせいでむせたのだ。やっぱり何か吸い込んでしまったらしい。

 咳はその後も、なかなか止まることがなかった。しかし、鬱陶しくはあるが、別に自分の体調にそれ以外の不調は感じられなかった。

 東京駅で黄のはす向かいの席に白人の女が乗り込んできた。

 女は咳をしつづける黄を迷惑そうな目で見ていた。


******


 東京で外国語の教師をしているゾイ・カスバード(24)は、半年振りのカナダ帰国に胸を躍らせながら成田エクスプレスに乗り込んだ。

 運悪く、はす向かいに座っている東洋人が咳き込み続けていて――

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