010 2028年7月21日 三島佳苗

 20時24分。横須賀衛生研究センターの三島佳苗(29)は、人気のない北横浜衛生病院の階段を上っていた。

 四階へ上がると、気密防護服に遮られた視界の向こうに、目指す病室の扉が見えた。

 三島の足音に続いて、するすると背後に伸びたチューブが音をたてる。それは防護服の吸気口から病院の外に止められたトラックのコンプレッサーに伸びており、三島へ新鮮な空気を送り届けていた。

 あまりにも仰々しい装備だが、しかし防塵マスクと防護服を装着していても発症した例が確認されている。万全を期すに越したことはない。

 同様の装備をした人間が、すでに院内で状況確認と生存者の保護を行っている。三島のユニコンタクト上に、現在の作業状況がリアルタイムで表示されていた。死者数と発症者数がめまぐるしい勢いで増えていく。


 半日で院内の職員と患者をあわせたほぼ全員が感染し、発症から3~7時間で例外なく急死している。にわかには信じがたい状況だった。こんな話はこれまで聞いたことがないし、冗談ですら誰も想定しなかった事態である。

 これ以上事態が悪化する前に、なんとしても原因を究明したいところだが――そもそもこれが、何が原因なのかすら、分かっていないのだ。化学兵器によるテロなのか、細菌による感染症なのかも分からない。そんな状況で、同様の症状だけが、恐るべき速度で広がっていっていた。



12時45分

 職員や患者間で、急激に咳の症状が広まっている状況を認識。

 神奈川県保健局、ならびに保健所へ病院内で原因不明の咳症状が急速に広まっていることを報告。

 すべての診察を取りやめ、病院の一時閉鎖を決定。

 咳症状を発症していると思われる職員、ならびに患者の隔離を実施。


13時00分

 発症者が咳をする際に微量の砂状固形物を排出していることを確認。


13時15分

 仮眠室で休憩していた医師の佐竹が死亡しているのを、看護師が発見。


14時00分

 夜勤後帰宅していた看護師が自宅で死亡していたことが判明。


14時15分

 別の看護師も自宅で死亡していることが判明。

 死亡した医師や看護師にも同じ咳の症状が出ていたことを確認。


15時

 さらに3名の医師・看護師が死亡。


15時30分

 発症者と一切の接触がなかった職員の一人に症状が現れる。


16時

 入院患者1名も本症状と思われる原因により死亡。


16時10分

 調査に訪れていた県の職員が、防塵マスクと防護服を着用していたにもかかわらず発症。


16時30分

 症状の拡大止まらず。病院内の職員・患者合わせて半数以上が発症。


18時15分

 病院へ続く道路の封鎖を決定。



 三島の視界に浮かんでいる時系列は、さらに下へと続いている。

 状況からみて、既に病院の外にも相当数の発症者がいると思われた。現在、帰宅した職員や患者の家族の隔離が行われているが、症状が広がる速度から考えて、手遅れといわざるを得ない。

 厚生労働省からは、市民の間でパニックが起こらないよう、慎重に対処するように。などという暢気な指示が出ていたが、最早そんなことを言っていられる場合ではないのは火を見るよりも明らかだった。


 医師の佐竹が、死亡する7時間前に接触した外部の人間は、その日の朝がたに緊急搬送されてきた、デネッタ・アロックという国籍不明の外国人女性だけだった。報告によれば、彼女自身には咳の症状は見つかっていないということだったが、しかし彼女の病床近辺からは、他の患者が吐き出しているのと同じような砂状の固形物も見つかっているということだった。

 この女性に、なんらかの原因があるはずだ。

 三島は四階の一番奥にあった病室の扉をゆっくりと開けた。

 電気の灯されていない暗い部屋の中央に、ビニールカーテンに囲まれたベッドがひとつ、置かれていた。

 その上に横になっている、デネッタの姿も見えた。

 デネッタは空になった点滴を腕にさしたまま、ゆっくりと胸を上下させ眠っていた。

「緊急搬送された外国人女性を発見しました。生存しています」

 三島はインカムで、外で待機している上司の川居へ報告する。

 ベッドの周囲には、踏むと足跡が残るほどの砂の堆積が、三畳ほどのスペースに広がっていた。それはまるで『砂浜に浮かぶベッド』を模した家具屋のディスプレィだった。

「砂状の固形物が、彼女のベッドの周辺に積っています。かなりの量です」

 三島の報告に、川居は、「咳はしていないのか」と尋ねた。

「していません。彼女に他の発症者と同じような症状は見られません」

 デネッタはベッドの上で、硬く目を閉じたまま、緩やかに呼吸をしているだけだった。 症状が出ていれば、たとえ眠っていても、定期的に咳が出るはずだ。

 三島はデネッタの腕から点滴を外すと、彼女の肩を叩いた。

「すみません、あなたをこれから別の病院へ移さなければなりません」

 そう声をかけたが、デネッタが目をあける気配はなかった。

 どうせ確認がとれなくとも移送するのだ。三島はベッドのストッパーを解除してベッドを廊下のほうへ回転させる。三島が歩くたびに、足元の砂に足跡が残った。

「これより女性を搬出します」

 すぐに、一階のエレベーター前で待機している隊員から了解と応答があった。

 

 デネッタのベッドをエレベーターに載せ、一階のボタンを押してから、三島は廊下へ出た。案内表示が一階に点ってすぐ、

「一階、女性のベッド確認しました」

 と連絡があった。

 三島は了解しましたと応じ、後ろに延びているチューブを辿って廊下を戻り始めた。白々とした明かりで照らされた無人の廊下は、三島に文明の終焉を想起させた。何を考えているのだと頭を振っても、それは頭にこびりついて離れなかった。

 防護服で見えづらい足元に気をつけながら一階まで降りてくると、窓の外に、新たに到着した気密防護服を纏った作業員が数名、病院に向かって歩いてくるのが見えた。ロータリーはスタジアムのように強い照明で照らされ、まるで昼間のようだった。


「女性の車への搬入、完了しました」

 作業員が進捗を報告する。デネッタや生存者はこのあと、横須賀衛生研究センターへ運ばれ検査が行われる予定になっている。三島自身も、それに立ち会うことになっていた。 車に乗り込む前に、洗浄を受けなければ。

 三島は早くこの重たい防護服を脱ぎたくて堪らなかった。わずかに早足になりながら、病院入口を覆うように設置された仮設テントを目指した。

 不意に、咳がひとつ出た。

 続いて何度か。マスクで口元が覆われているため、大きく口があけられず、むせるように幾度となく咳き込んだ。

 何が起こっているのか、三島には分からなかった。

 こちらに歩いてきていた、同じ装備をした作業員の一人が、三島の様子に気がついて、唖然とした顔を向けていた。

 頭が真っ白になるのを感じながら、三島は自分の防護服のチューブ圧力を確認する。

 しかし、問題はない。そもそも、どこかに穴が開いてはいれば、アラートが鳴る仕組みなのだ。

 じゃあ、なんで?

 必死に考えようとするが、それよりも前に、冷静な思考を塗りつぶす様に、


『自分は死ぬ』


 という思いが三島の思考回路を埋め尽くしていく。

 その間にも、咳は繰り返し、出続けた。

 遥か彼方で、「三島君、どうしたんだ」という声が聞こえた。川居の声だった。

「私も発症したかもしれません」

 三島は冷静を装うとしながら、しかし成りきれずに早口で答えた。

 向こうで川居が絶句するのが分かった。

「チューブの圧力に変化はありません。穴は開いていません。それでも、咳がではじめました」

 そして、数時間後に、自分も死ぬのだ。

 何も分かっていないのに、助かる道理などないのだ。

 やらなければならないこと、やりたいことが、喉に詰まって嗚咽になる。

 三島は立っていられなくなり、その場に座りこんだ。

「大丈夫ですか」

 作業員の一人が、駆け寄ってくると、三島を立たせて、近くにあった椅子に座らせた。 咳をしている様子に、三島が置かれた状況を理解した作業員は、どこかと連絡を取っている様子だった。

 そうして、その作業員も、唐突に咳き込んだ。

 作業員の表情が凍りつくのを、三島は見た。


 三時間後、院内で作業をしていたすべての作業員に、咳の症状が現れていた。

 皆一様に、それが夢でないことを確認し合い、言葉を失った。

 自分の命を賭しても職務を遂行しようと考えていた人間ですら、その矢継ぎ早に突きつけられた死の運命には、立ちすくむしかなかった。

 

 こうして、2028年の7月21日は暮れていった。

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