005 2028年7月21日 村井総太
午前9時33分。神奈川県警都筑署外事係の
受付で用件を伝えると、問題の外国人は1階西側、渡り廊下の先にある隔離棟に収容されているということだった。
「隔離棟に入れられてるんですか。怪我だって聞いたんですけど」
身元を確認のためにちょっと話を聞きにきただけだった村井は、思わぬ展開に思わず声を上ずらせた。
すると中年の受付女性は、少し困った顔をして、
「ええ、まあ、こちらではあまり詳しくは申し上げられないのですが……」村井に顔を近づけると、「ちょっと特殊な容態みたいなんです」と、小声で付け加えた。
「はあ」
特殊とはどんな状態なのか尋ねようかと思ったが、結局あとで担当医と同じ話をすることになりそうなのでやめておいた。
「うちの病院に入れちゃったけど、本当に大丈夫なのかって、噂になってるんですよ」
受付は他の患者に聞かれないようにきょろきょろしながら、さらに言った。
村井はこの受付が警官である自分であればいくらか漏らしても問題ないだろうと、秘密を話したくてうずうずしている気配を感じ取り、面倒臭くなった。
「西側、だからあっちですよね」
案内板をみながら歩き出そうとすると、受付は後ろから、
「お手数ですけど、隔離棟の前にある滅菌室で着替えと消毒をしてくださいね」
と呼びかけた。
日常ではあまり聞かない重い単語に、村井は思わずため息をついた。
さっさと終わらせて、さっさと帰ろう。
その外国人女性が大怪我で発見されたのは、今日の午前5時40分ごろ。都筑JTCデータセンター裏手で倒れていたのを、近くに住んでいる会社員の男が発見。救急車を呼び、そのままこの衛生病院へ運び込まれた。
その後、通報をうけた派出所の人間によって女性の簡単な身元確認が行われたが、意識を失っていたため直接の確認はできなかった。所持品にも身元がわかるようなものは一切なく、また倒れていた付近にも持ち物が落ちている形跡はなかったことから、外事係に連絡が入ったというわけだ。
別にすぐに来る必要もなかったのだが、単純に今日は書類作業をする気分ではなかったから、こうして村井がやって来たのだ。そもそも、その外国人女性は見た目が外国人なだけで、ただの日本人である可能性も十分にある。
しかし、隔離棟に入らなければいけないような事案なら、別のやつに任せればよかった。村井は適当な連絡をしてきた派出所の人間を恨んだ。
ジャケットを脱ぎロッカーにいれると、ワイシャツの上から白衣をまとう。白い滅菌帽を被り、髪の毛を全て中に入れ、マスクして、用意されたスリッパに履き替える。まるで小学校のときの配膳係のコスプレをしているみたいだなと、鏡をみながら村井は思った。
滅菌室を出ると、待っていた
「では、こちらへどうぞ」
そういって歩き出した佐竹のあとをついて行く。齢は30半ばといったところか。背は平均身長の村井よりも高い。こちらの歩調を気にせずに早足で進んでいくあたり、あまり親しくなりたいタイプの人間ではない。
「怪我をしていると聞いて来たもので、まさか隔離棟に入れられてるなんて思ってなかったから、驚いちゃいましたよ。その、どんな症状なんですか?」
村井は、近くに寄っても大丈夫なのか、という疑問を飲み込んで尋ねた。
「ええ、まあ、大怪我、ですね」
佐竹はこちらを振り返りもせずに答えた。患者は4階です、といって階段を上がっていく。
「でも、ここに入れられたってことは、ただの怪我じゃあないわけですよね」
「まあ、そうですね。感染症にかかっていたり、ありますからね」
なにやら歯切れの悪い答えである。情報を持っている人間がはぐらかすときは大概良くないことが待っているときだ。自分達も良くないことを伝えるときはそうるすから、どうしても分かってしまう。村井は何が待ち受けているのかと、憂鬱になってきた。自分はただ、身元を確認しに来ただけなのだ。
おととい、惣菜工場にビザなしで不法就労していた、ベトナム人10人を強制送還させるため、あちこち走り回ったり、いくつも時代錯誤な書類をこしらえたりといった厄介ごとを、ようやく終わらせたばかりなのだ。これ以上の面倒ごとは御免こうむりたい。万が一、これから会う外国人女性が妙な病気持っている不法就労外国人だった場合、外務省や法務省だけでなく、厚生労働省にも提出するべき書類が発生することになる。ただでさえ外事係は無駄に煩雑な仕事が多いのだから、勘弁して欲しい。
佐竹は廊下の一番奥、完全にどん詰まりの扉の前までやってきて、ようやく立ち止まった。
「この部屋です」
そうでしょうね、などという余計な一言は口に出さずに、村井は頷いた。
中はワンルームマンションの一室のような構造をしていた。部屋に入ってすぐ右手に、簡易なシンクがあり、その先に洗面室とを仕切る扉がある。そして、奥の部屋の中央に、透明なビニールカーテンで覆われたベッドがひとつ、鎮座していた。
「身体のいたるところに、欠損があるんですよ。左目や、腕部の一部分だとか、横腹の一部だとか、そういう中途半端な部分がなくなっていて、骨まで見えているような、そういう状態だったんです」佐竹は、ベッドに視線を向けて言った。「ただ、ごく最近その怪我を負った、というわけではなく、しばらく前から、あの状態で生活していたみたいなんですよね」
具体的に状態を言われて村井の頭に浮かんだのは、あのベッドの上に横になっているのがゾンビ、というイメージだった。だいぶ無神経な想像だが、想像するだけなら自由である。
「なるほど、たしかにそれは、大怪我ですね」
「何かに感染していないかだとかは、まだ検査中なんですけどね。ただ、みんながうす気味悪がっているんで、とりあえずここに入ってもらってるんですよ」
と、気の抜けたことを言いつつ、佐竹は病室の中に入ろうとしない。表情も一度も変えず、ずっとベッドを見つめている。
何か大きな不安があるということだろう。ただ、佐竹自身にもその不安の正体が分からない、そんな様子だった。
そんな風に佐竹を観察したのはほんの一瞬のことだったのだが、しかし村井の視線に気付いた佐竹は、はじめてわずかに口角を持ち上げた。
「私もね、薄気味悪いんですよ。本当に、ただの外傷だと、簡単に片付けてしまっていいものかってね、思い切れずにいるんです」
そう言いながら、佐竹はようやく室内へ足を踏み入れた。綺麗に掃除されたリノウム床に、ゴム底が鬱陶しい音を立てる。村井もその後に続いた。
「そういえば、日本語で喋っていたと聞きましたけど、その後だれか名前を聞いた人とかいないんでしょうかね」
たしか、最初に発見した会社員が日本語を聞いた、という話だったはずだ。
「私は彼女が喋っているのを聞いたことはないですね。なにせ、運ばれてからこっち、ずっと眠っていますからね」
ベッドの上では、大柄のブロンドの女が静かに寝息を立てて横たわっていた。身体のいたるところに包帯が巻かれているため、先ほど佐竹がいっていた怪我の具体的な状態は分からなかった。
「中国みたいに、顔写真撮って、照合とかできちゃえば、簡単なんだけどなあ……」
村井は顔をしかめる。今の日本では、指紋を照合するように顔写真を撮って一方的に照合することは適わない。仕組みはすでに十年以上前からあるにも関らず、いちいち実装に時間がかかるのが日本の悪いところだと、常々思う。
「指紋は登録されてないんですか」
「うーん、既に照会してるんですけど、出てこなかったんですよねえ。まあ、あれは本当に限定的な人間しか調べられないですからね」
村井は女の顔を良く見ようと、さらに一歩近づいた。
つま先が、ジャリ、と砂を踏むような感覚があって、思わず床に視線を落とした。
磨かれた床の上に、かなり粒子の細かい砂のようなものが、薄く積もっていた。ホウキであつめた砂埃が、ちりとりで取りきれずに残ってしまったような、そんなもののように見えた。しかし、こんなベッドのそばに残すとは、隔離棟とはもっと掃除に気を使っているものとばかり思っていた。
よくよく見てみると、ビニールカーテンで覆われたベッドの周辺には、まんべんなく同じような砂ぼこりが薄っすらとだが積もっているのが見えた。
そもそもこんな奥まった部屋は普段から掃除が行き届いておらず、今朝、急ごしらえで掃除して患者を運び込んだのかもしれない。
――本当にそうだろうか?
何か一瞬、違和感のようなものが脳裏をよぎったが、しかしこの砂ぼこりについて考えてみたところで、自分の仕事に影響があるとは思えなかったので、村井は考えるのをやめた。
「あっ」
不意に佐竹が声をあげた。
何事かと村井が視線をあげると、女が目を開けていた。
天井をみつめていた女の右目が、くるりと村井に向けられた。まだ夢をみているような、力のない瞳だった。それは薬をやりすぎた人間のような、一切の現実が見えていない虚ろな目だった。
再び眠ってしまうまえに、少しでも話を聞いておかねばならない。
「私、神奈川県警の村井といいます。あなたの名前を、教えてもらえますか?」
形式的に警察手帳を出しながら、村井は尋ねた。
女は村井から視線を外さないが、ぼんやりしており返事をしようという気配が見られなかった。
「言葉、わかりますか? 名前、教えてください」
もう一度、ゆっくりと尋ねる。
これで駄目なら、翻訳アプリを使う必要がある。
伝わらないか、と諦めかけたとき、女の口がわずかに動き出した。村井は全神経を耳に集中させる。
「……デネッタ」
女はか細い声で、しかしはっきりとそう言った。
「デネッタ」
村井は女の言葉を繰り返す。
女が再び、口を動かす。
「デネッタ、アロック」
村井は法務省の入国管理照会データベースに接続する。
「デネッタ・アロック、それがあなたの名前ですか?」
村井の問いに、女は静かに顎を動かして、頷いて見せた。
データベースに照会をかけるが、ユニコンタクト上には該当の名前での登録はない、と回答が表示される。続いて、住基データベースに接続し、デネッタ・アロック、という名前の日本人がいないかも確認する。こちらにいれば、ただの日本人だったということになるのだが――。
こちらにも、登録はなかった。
村井はため息をつきたいのを我慢しながら、さらに質問をした。
「デネッタさん、あなたの出身は、どちらですか?」
しばらくの間をあけて、女は答えた。
「アリルゲダ」
まるで聞いたことのない地名が飛び出して、村井は面くらいつつ、入国管理データベースの検索フォームへ『アリルゲダ』と入力する。続いて、国名だけでなく、都市や町の名前も含めるにチェックを入れて、検索を実行する。
しかし、そんな名前の国名もなければ、地名も存在しなかった。類推される外国語による表記ゆれまでくまなく検索するが、ぱっと見ても似たようなものは見当たらなかった。
「家族はいますか? 知り合いでもかまいません」
その問いを聞いて、デネッタの右目が大きく開かれた。
村井は、その瞳の向こう側に底知れぬ暗い感情が垣間見え、思わず息を呑んだ。
一体なにがあれば、こんな顔になれるのか、村井には分からなかった。これまでに出会ったどんな人間にも、見出したことのない深い絶望が、そこには横たわっていた。
デネッタは唇を震わせながら、どうにか、声を絞り出した。
「みんな、死んだ」
言い終えたデネッタの瞳から、涙がこぼれた。
「――みんな、みんな、死んだ」
同じ言葉を、何度も、何度も、繰り返した。
結局、それ以上のことは分からなかった。
デネッタはしばらく嗚咽を漏らしたあと、再び眠りについてしまった。もう少し落ち着いてから、再び話を聞きにくるべきだろう。
「何か新しく分かったことがあれば、連絡しますよ」
隔離棟からの去り際、佐竹はそう言って、村井の電話番号を尋ねた。
「しかし、アリルゲダなんて地名、聞いたことありますか?」
村井の問いに、佐竹は首を振った。
「さっきネットで検索してみましたけど、地名ではありませんでしたね」
そう答えて、佐竹はむせるように咳き込んだ。
「ですよね。あれって、地名じゃないのかな……」
村井は頭をかきながら眉間にしわを寄せた。まあ、また今度、聞けばよいことだ。
それでは、と村井が会釈をし、佐竹はそれに応じようとして、再び咳き込んだ。
「医者の不養生ですね」
佐竹は苦笑いを浮かべた。
署へ戻る電車の中、村井はふと、先ほどの佐竹の言葉が気になって、Googleを開いた。さっき佐竹は、アリルゲダを検索したことについて、地名ではありませんでした、と言っていた。ということは、地名以外での検索結果はあったということだろう。
アリルゲダ、を検索すると、すぐに答えが表示された。
一番上に表示されたのは、
【アニマ・ムンディ攻略Wiki 土地:アリルゲダ(フェーズ1~4)】
という、おそらくゲームの攻略サイトと思われるものだった。
そこから検索結果30位まで、すべて同じゲームに関して書かれたサイトだった。
あの外国人は、重度のゲーム中毒者かなにかなのだろうか。現実とゲームの区別がついていないような、そういう類の人間、ということになるのか?
まあ、こんな風にいくら想像したって、自分の頭の中だけでは答えは出せないのだ。もう一度、話を聞くしかあるまい。
しかし、また話を聞くためには、あの隔離棟に行かねばならないのか。
と、村井はため息をつこうとして、
咳き込んだ。
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