第38話
ヒネモス市内の中心街に近い、ゴロネ公園は恋人たちのデートスポットで有名だった。百年の歴史を誇る噴水が公園中央にあり、神秘的な伝説が語られているのだ。
なんでも昔、敵対する貴族のグループどうしにもかかわらず、ひとめ惚れでたがいに恋に落ちた男女がいたという。だが、娘には親どうしが取り決めた婚約者がすでにあり、青年の方も従妹と結婚する予定だった。ふたりは当時、森だったというこの公園の場所でひそかに逢い引きをくり返す。やがて、たびたび約束をすっぽかす娘の行状に不審をおぼえた婚約者は、こっそり彼女のあとをつける。そして、この森で敵対貴族の男といちゃいちゃしているのを見つけ、逆上する。
娘の愛する青年と、婚約者は剣をまじえて決闘になる。数合、剣をかさね、青年は足首をくじいて転倒する。婚約者は「しめた」と得物を突き出す。だが、その動線に娘が身体を割りこんだ。切っ先は彼女の胸にふかぶかと刺さり、絶命する。愛する娘の死を目にした青年は剣をもち変え、自分の胸を刺した。
混乱と絶望と後悔に襲われた婚約者も死のうと思ったが、死にきれない。館に戻って事情を話し、司直の判断に身をゆだねた。役人たちが現場を確認し、悲恋のふたりのなきがらを運び出そうと何人かでもちあげると、その地面から水が湧き出したという。それは清らかでゆたかな水流で、対立した貴族両家は話し合い、ここに井戸をつくることを決めた。その井戸は、敵対したひとびとの和解の象徴となり、村人も兵士も貴族も旅人も、森のなかで咽喉の渇きをいやすのに利用した。娘を殺した婚約者の若者は教団に入り、井戸のそばに僧院を建て、宗教生活をはじめたという。
それ以来、この井戸の水には、ひとびとを結びつける力があると信じられているのだ。現在は井戸ではなく、噴水なのだが、円形の基部に溜まった水を持参のコップで飲むことができた。噴水のそばには実際、宗教寺院があり、伝説に根拠を添えている。ふたりの恋人の名前にちなみ、「クルミンとトローヌの泉」と呼ばれていた。
デニエ・リードは二二歳、工学部の学生である。今日は二回目のデートで、相手はアルバイト先の仕事仲間だった。学業のかたわら、電話業務のバイトを月に三回している。発信したり受信したりするのではなく、もっぱらPCのメンテナンス。職場にいって驚いたのは、電話をかけるのも受けるのも、若い女性ばかりだということだ。ある程度、想像はしていたが、これほどとは思っていなかった。
デニエ・リードにとって、会話は苦手ではない。背も高く、すっきりした顔立ちで、王国でも名のとおった大学の修士課程一年目。女子学生とのグループ交際的な宴席では、比較的異性に注目される機会が多かった。だから、バイト先の仕事仲間の女の子からデートに誘われても、それほどびっくりしなかったのである。そういう機会は、それまでの彼の人生で決して少なくなかったし、多くの場合、彼の方から断っていたのだ。
しかし、リプチナ・シェアはくりくりよく動く瞳が活発な印象で、愛敬があった。年齢は二〇歳。専門学校を出て、いちど小さな広告会社に就職したが、希望の職種ではないことがはっきりしたので、三ヶ月で辞職した。家でぶらぶらしているのもいやなので、電話業務のアルバイトをはじめたという。
最初のデートでは、ふたりは動物園にいった。ちょうどリプチナが『動物園の男』という本を読んだばかりで、登場したカラカルという動物がよくわからなかったため実物を見たいといい出したのだ。
「『動物園の男』? 聞いたことないけど、どういう話?」
デニエが質問する。
「やっぱり、カップルが動物園でデートするんだけど、そこで大げんかするの。彼氏の方が『きみはぼくのことなんか愛してない。愛していると思っているだけだ。ほんとうに愛しているのなら、どうして親類や友人、家族のような第三者にあんなに気をつかうんだ? 愛情の前には、ふたりしかいない。愛のたがいの対象がいるだけだよ』というわけ。それに対して、『このわからずや。文明生活を送っているんだから、ふたりだけの関係に閉じこもっていられないでしょ。あなたは文明人じゃないのよ。このサルとわたしたちをつなぐ、ミッシング・リンクね!』と彼女がいい返す。男の方は『そりゃいいね』といって、ほんとうに動物園の檻に入ってしまうの。チンパンジーとオランウータンの檻のあいだにね」
リプチナの返答に、デニエは眉をひそめた。
「それ、面白いの?」
「んー、まだわかんない。檻に入った男は孤独をいやすために、動物園のカラカルっていう動物と仲よくなるわけ。コミュニケーターで画像検索して、写真を見ることはできたけど、やっぱり実物が気になって、どうしても見たくなったの」
そのカラカルは大きな猫だった。猫の頭に、豹やパンサーのような俊敏で優美な肢体が接続している。両耳からは房毛が生えていた。落ち着いた、悲しげな瞳をしている。
今日、二度目のデートは映画を観にいく予定だ。ただし、上映時間までしばらく間がある。軽食店でサンドイッチをつまみ、ふたりでゴロネ公園を散歩し、噴水前のベンチに腰をおろした。円形の噴水を取り囲むようにベンチが八基、配列され、どれもカップルで埋まっている。ちょうどそれぞれのベンチのあいだを埋めるように、一本ずつケヤキの木が生えている。木の枝にハトがとまっているようで、鳴き声が頭上から降ってくる。
ふたりは、好きな映画監督や男優、女優の話、今まで観て印象に残った映画の話をする。デニエは「自分は映画をよく観る方だ」と思っていたが、リプチナがそれ以上の映画好きなので驚いた。
「マルガレーテ・フォン・トロッタ監督の『三人姉妹』には、ファニー・アルダンが出演していて……原作はチェーホフの『三人姉妹』なんだけど……クライスラーの『愛の悲しみ』の使い方が超絶すばらしいの……」
芸術映画をほとんど鑑賞しないデニエには、まるでちんぷんかんぷんである。
適当に相槌を打ちながら話を聞き流していたデニエは、ふと周囲の状況に違和感をおぼえた。それまで、合いの手を打っていた彼が急に沈黙し、自分以外の何かに注意をそらしていることに、リプチナはすぐに気づく。
「……どうしたの? 何か考えごと?」
デニエは首をかしげ、答えた。
「聞こえないんだ」
「え? 聞こえない、なにが? 耳が聞こえなくなったの」
彼は苦笑する。
「きみの声は聞こえるよ。でもほら、さっきまで、鳴いていたハトの声がしない……」
いわれて彼女もはっとした。
「……そうねえ……なんだか、妙にしずかね……」
公園の外の車の走行音、かすかなクラクション、街のざわめきがニレやプラタナス、イチョウの木々のすきまから、遠くの潮騒のように聞こえてくる。目の前の噴水の水音が、幻想の潮騒に信憑をあたえていた。この奇妙な静寂に気づいているのは、自分たちだけだ。他のカップルは肩を寄せ合い、内密な会話をしんみりと交わしているようである。
「いったい……」
と口にしたリプチナの膝に、上から何かが落ちてきた。ケヤキの葉や枝を揺するざわめきと同時に、ぬいぐるみほどの大きさの何かが墜落したのだ。彼女は仰天し、悲鳴をあげた。
落ちてきた物体がなんなのか、ひと目で看取したデニエも「わわわ」とうろたえる。
ハトなのだ。
目をぎゅっとつむって、身体がかたまっている。死んでいる。
リプチナの悲鳴が何かの合図だったかのようだ。頭上の枝から、ハトが雨のように、つぎつぎ降ってくる。ふたりはパニックにおちいった。あわてて立ちあがり、ベンチから脱出する。噴水にむかって数歩、駆けた。振り返ると、ベンチの座板、周辺の敷き石はハトの死骸だらけだ。
「わあああ」
「ぎゃあああ」
あちこちのベンチでも悲鳴があがった。
デニエが視線をめぐらすと、噴水周辺のすべてのベンチで同じことが起こっていた。ケヤキの樹木の枝から、ハトがつぎつぎ降ってくる。恋人たちはベンチから飛び出した。そして、おそるおそる、周辺を見回し、背後を振り返る。硬直したハトの群れが、敷石を覆っている。もちろん、ひとことも鳴かず、ぴくりとも動かない。
「なんなんだ……!?」
「わからない」
「まさか……」
「ひょっとして、鳥インフルエンザ?」
「いや、最近、よくニュースで見かける……」
「小動物や虫の大量死?」
「それだ」
少し落ち着いてきた誰かが、コミュニケーターで写真を撮影している。別の誰かは区役所に電話し、状況を説明する。
「ど、どうなるの?」
リプチナがつぶやく。
「……たぶん、ぼくらはここで足止めだ。ハトの死骸にさわってしまった」
「だって、だって膝の上に落ちてくるんだもん」
「まったくだよ」
と、デニエは応じる。
「でもおそらく、検疫を受けることになるよ。病原菌が付着した状態で、ひとごみに入っていったら、菌をまきちらすことになる」
「菌? なにかの細菌が原因?」
「専門家は原因不明っていっているよね。でも、一応、検査はするはず」
というふたりの会話は周囲のカップルにも聞こえているはずだった。それなのに、「面倒事はごめんです」と、数組はその場からこっそり立ち去ったのだ。そのうしろ姿、横顔を誰かが写真におさめていた。
やがて、保健所の担当者があらわれ、付近一帯はすぐに封鎖された。防護服姿の係官が恋人たちを検疫車に誘導する。大量のハトの死骸は一箇所に集められ、いくつかのクーラーボックスに収納された。
こうして、デニエとリプチナの二度目のデートは病院でおこなわれることになった。デートは四〇日に及び、その間、ふたりは一緒に隔離され、各種の検査を受け、関係を親密にした。「クルミンとトローヌの泉」は、霊験あらたかである。
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