応用問題 ストロボスコープ現象
1【暗】太陽と月と王国と
第12話
退屈王国は北半球の大西洋上に存在する島国である。暖流の関係で一年中、気候は温暖でやや乾燥している。気持ちのよい、からっとした晴天がつづき、突然のスコールで土地が水浸しになるという周期が特徴だ。
総人口一〇〇万。島の周囲を一周するのは、車でまる二日かければ可能である。海底火山の噴火によって盛りあがった島なので、岩壁は峻険。季節によっては激しい波浪が打ち寄せ、船での渡航が不可能になる。複雑な地形のおかげで自然は豊富。生物相は複雑に重なり合い、退屈ナマケモノ、退屈オオアリクイ、退屈ガジュマルの樹といった島特有の動植物も存在する。
絵を描くとき、退屈王国の子どもたちは「太陽を赤く、月を黄色く」塗る。
「赤い太陽」は国際的に少数派である。多くの民族、文化圏では太陽は黄色、あるいは黄金色なのだ。しかし、退屈王国では黄色、黄金色なのは月である。これはいったい、どういうことか。
この日常的な話題を王権論、政治史、文学史、サブカル史につなげて話題をさらったのは、退屈王国大学社会学部比較文化学科教授、グレイ・ワルコフである。通俗的で大衆受けする一般向け啓蒙書『退屈王国の太陽と月』を、アカデミックな研究者が編集者の口車にのせられて出版したのだ。本人はこれを「一種の偽史だ」とうそぶいた。
ワルコフ教授によると、「太陽を赤く、月を黄色く」塗るのは「退屈王国の二重権力構造と密接な関係にある」らしい。その概要は次のとおり。
人類の歴史が狩猟採集社会、そしてまだ初期段階の農耕社会だったころ、ひとびとは月を信仰の対象とし、蛇やワニ、鮫などの水にまつわる生きものを神としてあがめた。これらは総称して蛇信仰といわれる。ひとびとは川のそばに住み、そこから水を引いて田畑を耕作し、狩りと農耕の両方で生計を立てた。蛇は脱皮をくり返し、月は満ち欠けをくり返すことから、ともに死と再生のシンボルであり、信仰の対象だった。死後の世界、異界は海のむこうや山のかなた――水平方向に想像された。
だが、どんなに祈っても大雨で川は増水し、洪水は村や田畑を押し流した。
ひとびとは水のそばに住むことをやめ、川から離れた肥沃な土地を求め、村をつくった。そうなると、雨が重要になる。農耕に適したタイミングで雨が降ることが生きるか死ぬかの問題となった。彼らは天に祈った。稲妻がひらめき、雨が降ると、ひとびとは祈りが届いたと思うようになった。蛇は龍=雷電となり、空にのぼった。あるいは、雷電を必殺の武器=剣として蛇を殺したという物語も生まれた。または、殺された大蛇の尻尾から宝物剣が取り出されたと語られもした。
そして、月に代わって太陽が神となる。
鳥は天から、太陽神のメッセージを運ぶ使者となった。これが本格段階の農耕社会の信仰形態で、鳥信仰と呼ばれる。この社会では天と地が垂直軸の社会構造を規定した。そのため、王権や身分制が発生することとなる。ひとびとのあいだに社会的な上下関係が生まれる。死後の世界も、天国と地獄に垂直化された。
太陽は見あげるものだ。それは頭上にある。頭上の太陽はつねに、黄色か黄金色なのだ。
しかし、退屈王国のひとびとは太陽を見あげない。
「わが王国国民には太陽を見あげる習慣がない。われわれが意識する太陽はつねに、日の出か夕日なのだ。このとき、太陽は赤い。これは波長の関係でそのような色彩に見えるだけである。月(ほかの星々)も、地平線、あるいは水平線上では赤いのだ。中天にのぼるにつれ、黄色くなる。
つまり、われわれが見あげるのは月である。あの、満ち欠けする月なのだ」(グレイ・ワルコフ『退屈王国の太陽と月』)
退屈王国においても、蛇信仰が鳥信仰にスイッチする神話ドラマは存在する。「ヘラクレスのヒュドラ退治」に類する話型だ。
この話型では、ドラゴン、大蛇、海の怪物が、天からおりてきた――あるいは天となんらかの関与のある英雄に退治される。「鳥が蛇を殺す」わけだ。王国の神話では太陽神の姉をもつ弟が天界から下界におり、三本の頭をもつ大蛇を雷電の剣で切り殺す。だから、蛇信仰(月信仰)は鳥信仰(太陽信仰)に取って代わられたはずなのだ。実際、王国の創世神話では月神の出番がほとんどない。太陽神のもうひとりの弟として、その名前が挙がっているだけである。
退屈王朝が王権を確立した古代社会においては、王=太陽であり、それはたしかに天頂にあった。当時の子どもは太陽を黄色に塗ったことだろう。だが、王権はしだいに衰えを見せ、政治の実権を手放し、有力貴族が台頭していく。外戚政治が主流となり、王は単なる「お飾り」の存在におとしめられていく。
ちょうどそのころ生まれたのが、退屈王国の「物語の祖」とされる『月姫物語』である。
この物語では、月の世界でなんらかの罪を犯した姫君が地上に追放される。絶世の美貌のせいで、有力貴族の貴公子たちが求婚を競うが、月姫は相手にしない。とうとう最後には、国王みずから婚姻を迫るのだが、月からやってきた迎えの軍団によって王国=太陽の軍勢は敗北する。「月が太陽を倒す」物語なのだ。龍退治の物語と対照的である。これ以後、王国の歴史は太陽と月、ふたつの権力が並立する時代に突入する。
月の詩も急速に増えていく。それまでの歌集、詩集では太陽、月、星とほぼ等量のバランスで歌われていた。それが、月だけが突出して題材になっていくのだ。恋愛詩、哀悼詩、望郷詩、旅行詩、祝賀詩、その他の日常身辺雑記的な詩でも、詩人たちの視界のなかには月だけが輝いているようである。
やがて、『
国王の息子でありながら臣籍降下し、貴族として遇されることになった風王子が、最高権力者にのしあがっていく物語。彼の愛情は暴風のように激しく、愛された女性たち(だいたい花や草――植物の名前をもつ)はその命を散らし、あるいは不幸になり、または宗教施設に逃げこむことになる。しかし、彼の娘を産んだ月石姫(花の名前ではない)だけは、その娘を国王陛下の第一夫人とすることに成功する。風王子は愛する女性たちをしあわせにできず、世をはかなみ、失意のうちに老衰していくが、月石一族は大繁栄するのだ。
この一族にはモデルが存在する。当時、もっとも権勢をふるった外戚政治の有力貴族ウエストラ家がそれだという。そのころ、当主のロンロー・ウエストラは次のような短詩を残した。
この世はおれのもの。満月が欠けることのないように。
彼らは月だった。ウエストラ一族の前にも、さまざまな貴族が外戚政治を執りおこない、勢力を伸長させては衰退していったのだ。まるで、月の満ち欠けのように。このころ、子どもたちは太陽を赤く塗っただろう。それは日の出の赤ではなく、落日の赤だ。たとえ王族でも、貴人は「月」にたとえられた。
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