12【明】オールシー、解任さる

第48話

 オールシー・ブライムは絶望していた。

 何度か自殺の誘惑におそわれた。

 自宅の肉きり包丁で手首をぐっさり切り裂こうと思った。駅のホームにいき、快走電車が通過するたびに、飛びこもうと思った。歩道橋の欄干にもたれかかり、眼下を疾走するトラックにむけて、飛びおりようと思った。

 こんなとき、「おとな」だったら、浴びるほど酒を飲むのだろうか、と考える。

 オールシー・ブライムは、ぎりぎり飲酒も喫煙もできる年齢だ。「すかしたやつ」と思われたくないので、同僚との飲み会にもなるべく顔を出している(その努力はむだで、やはり「すかしたやつ」と噂されている)。

 しかしどちらも、まったく体質に合わないのである。

 苦手なのではない。ものすごく強いのだ。水のように酒を飲み、空気のように煙草を吸った。その結果、グラスを前にして酒を飲むのを忘れる。煙草も吸うのを忘れ、いつも灰になる。飲んでも飲まなくても、吸っても吸わなくても、まったく変わらないのだ。習慣づけようと、一時期、飲酒、喫煙を継続するようがんばったが、まるでつづかない。

 アルコール中毒者、ニコチン中毒者は、彼にとって熱心な努力家だ。

 というわけで、ぐでんぐでんに酔っ払うまで酒を飲む、という選択肢はなかった。

(なにか、クスリに手を出すべきだろうか。でも、どうやったらバイヤーに出会えるのだろう?)

 そもそも、拷問への免疫をつけるため、ひととおりの違法薬物は体験している。上司は彼に表むき二週間の休暇をあたえ、施設に監禁し、薬物の禁断症状も体験させた。

 彼の上司はRと呼ばれている。カミソリのように細くやせた、中年の女性だ。頭頂部をふわりと盛りあげたダークブラウンのショートヘア。昆虫の触角のように、眉の端が跳ねあがっていた。何があったのか聞いたことはないが、片目が義眼である。

 王女が行方不明だと、オールシーが報告したとき、彼女はこの感情のない義眼の方で彼をじっと見つめた。

「状況をもっとくわしく報告しなさい」

 完全に自分の失態である。警護についている意味がない。額に汗を浮かべ、前後の状況を知っているかぎり、申し述べた。

「あなた、何をしていたの?」

 アイドルの画像を見ていた。

「申し訳……ございません。……うっかり目を離しておりました」

「どこのコンビニ? 監視カメラの手配はした?」

「はい。あと十分ほどで画像データをわたしの携帯端末に送ってくれることになっています。駐車場にも監視カメラが設置されていました。そのデータも合わせて送られてきます」

 グレーのパンツスーツ姿のRはデスクのむこうで膝を組む。その前でオールシーは直立し、汗の塊になって恐縮している。

「犯行に車が使われた可能性は高いわね。コンビニのそばの幹線道路が逃走経路だとしたら、ヒネモス中心部にむかったのか、郊外にむかったのか。とりあえず周辺のカメラシステムに、確定した逃走車の画像で検索をかけ、足どりを追いましょう」

「……はい」

 ふたたび、感情のない眼球が少年をとらえる。

「あなたはこの事案に参加できません」

 覚悟していたことである。

「汚名を返上するチャンスをください。なんとしても王女さまを無事に保護し、取り返したいのです」

「却下します」

 頭をさげた。

「おねがいします」

 Rは、にべもない。

「失敗した構成員にペナルティを課すのが、組織というものです。あなたの携帯端末に画像が届いたら、緊急召集される特別捜査班にそのデータをすぐに提供しなさい。そして、身分証、試供されたマトハズシ(制式拳銃)、軍用ナイフを担当者に返還し、以後、こちらから連絡があるまで自宅謹慎しなさい。正式に解任します」

「……おねがいします」

 ことばをしぼり出す。

「銃殺刑ものの失策です。そんな役立たずは、いりません」

 がっくり、と首を落とす。

 Rの執務室を出てからの記憶はあまりない。コンビニから送信された画像データをシステムにアップした。ふだんは愛想笑いしてくる後輩の女子が、彼の膝の上にわざと珈琲をこぼす。デスクの椅子が急になくなったので探したら、紳士用トイレで見つかる。私物のマグカップが、いつのまにか真っぷたつに割れている。

同僚の冷たい視線を背に、オフィスを出た。誰も彼に話しかけない。


 身分証はICカードなので、これを返還すると、王宮省のシステムにアクセスできなくなる。完全に、一般市民と変わらない。門衛に見送られ、省のビルを出た。あてどなく街をさまよい、自殺を考えた。

(ああ……ぼくは、プランタンさまに二度と会えないのだろうか……)

 それも、自分が原因なのだ。いまさらながら、王女を深く敬愛していたことに気づくオールシーである。

(パパゲーナの顔を忘れていたことが、ぼくにはショックだった。自分のことを、ふつうの正義感をもつ、ふつうに恩義にあつい、ふつうの人間だと考えていた。でも、実際はどうだ? 命の恩人の顔もおぼえていなければ、守らなければいけない大切なひとも守れない。愚かで薄情で無責任な、最低人間じゃないか! 死んだ方がましだ)

 彼は空を見あげた。いつの間にか、一二月一日の日は落ち、とっぷり夜になっている。もう三週間もすればクリスマスだった。繁華街をさまよっていたらしく、派手なネオンやLED照明、ビル壁面のパノラマビジョンが目に入る。

 大画面ではちょうどニュースを放送していた。公聴会の結果についての報道はあったが、王女が誘拐された情報はまだマスコミに公表されていないようだ。隠密に保護できるのなら、それにこしたことはない。しかし、公務のスケジュールが滞るだろうから、露見は時間の問題だろう。

(数日間は「急病」でなんとかなるだろうが……)

 「プランタンさま、ご誘拐」「王女さま、行方不明」「原因は警護の過失」「警護担当はオールシー・ブライム」――新聞の見出しが脳裡に浮かぶ。

(国民を裏切るような、大失態だ……。ああ、ぼくはもう、生きていけない……)

 胸をしめつけるような苦しみがあった。明日のことはまったく考えられず、目の前にはただ、暗澹たる闇が広がるだけ。食欲もまったくなく――というより、昼にサンドイッチを食べたきりなのに、「食事」ということば自体が記憶からこぼれ落ちたようだった。

 彼はその日、ロボットのように自宅のマンションに帰り、服を着たまま、ベッドに横になった。結局、死ぬ気力すらわかない。眠れたのはようやく、一二月二日の朝になってからだ。


 奇怪でリアルな、おどろおどろしい夢をたくさん見た。ぐっすり深く眠りこむのではなく、断続的に覚醒する、浅い眠りだったのだ。

 服のポケットのコミュニケーターがぶるぶる振動する。オールシーは不機嫌に目をさます。ディスプレイを見ると、「リリー・クライスキー」とある。射撃の名手の元アイドル、オールシーとはたまにデートする仲だ。特殊訓練を受けており、王女の命令で特別捜査に参加することがあった。

 放っておけば、そのうち回線を切るだろうと思った。だが、いつまでも振動しつづける。

(くそ。電源を切っておくんだった)

 不機嫌と絶望が入り混じった状態で、電話回線をつなげた。

〈こんにちはー。げんきー?〉

 やたらに陽気である。

「……」

〈オールシー、どうして電話くれなかったの? わたし待っていたのよ〉

「……」

〈やーねー。そんなにがっかりしないで。王女さま行方不明の情報はわたしも漏れ聞いたわ。なにしろ、王宮省のセキュリティ関係者に知り合いがたくさんいますからね〉

「……」

〈ドンマイドンマイ。誰だって完璧じゃないんだから、たまにはポカすることもあるわよ。元気出して〉

「……」

〈あらー、やっぱり無理か。そうとう落ちこんでいるわね。やれやれ、やっぱりそうか。でも、そんなときこそ、このリリーちゃんを頼ってほしいなー〉

「……」

〈わたし、オールシーからいつ電話がくるかな、いまかないまかな、ってずうっと待っていたのよ。心配したわ。深刻な状況に絶望して自殺したかも……〉

「……」

〈いやいや、オールシーは精神的にそんなに弱くない、だいじょうぶだいじょうぶ、必ずわたしに慰めと相談を求めるはずだって〉

「……なんの用?」

 地獄の底からの、うめき声。

「デートのお誘いよ」

 彼は無言で回線を切断した。そのまますばやく電源を切る。ふたたび枕に顔をうずめた。

 すると今度は、玄関のドアをがんがん叩く音がする。

「オールシー! いるんでしょ! はやくドアを開けて」

 リリーの声である。玄関ドアの前から電話していたのだ。

(ストーカーか)

 とあきれたオールシーは、無視して固く目をつぶる。

「こらー! 開けろー。知っているのよ、わたし。プランタンさまがどこにいるか、知っているの!」


 少年SSは、がばりと起きあがった。


 居間を横切り、玄関まで駆ける。途中、足がもつれ、転倒し、肘と膝を打った。だが、痛みをかんじる余裕もなく、ノブにしがみつくと開錠し、ドアを開けた。

 リリーがマンションの廊下に立っている。手足が長く、頭はマスクメロンのように小さい。つぶらな瞳、小ぶりな鼻、苺のような唇。ネイビーカラーのフード付きパーカーにデニムのストレートパンツ。ピンクのプラットフォームスニーカーを履いている。左手首にシルバーのブレスレット。サムソナイトの大型スーツケースを右手で引っぱっていた。

「……どこかに……旅行でも?」

 乱れたぼさぼさ髪のオールシーは首を傾ける。

「そう。ふたりで旅行よ」

「ふたり? ぼくと……? いったい、どこへ」

 リリーは、意気揚揚と宣言した。

「南極!」


 リリー・クライスキーにせかされ、オールシーはまずシャワーを浴びる。外出の身支度を整え、大急ぎで旅の用意をはじめた。居間でパッキングしながら、少年は質問する。

「プランタンさまは南極に?」

「そう」

 リリーは勝手にキッチンに立っている。戸棚からマグカップをふたつ出し、ケトルをガスコンロにかけた。ドリッパーに濾紙をセットし、冷凍庫から珈琲を探し出す。

「どうしてわかったんだ」

「わたし、王女さまに発信機つけてるの」

「えええ!?」

 あんまりびっくりし、手にした歯ブラシを取り落とした。

 リリーは沸騰したケトルの湯を注ぎながら説明をつづける。

「わたしたち、実はたまに会ってお茶しているのよ。一緒に仕事の打ち合わせをしたり、映画観にいったり、ランチ食べたり、気の利かない警護の少年の悪口いったりしているの。そんなときに『あら、すてきなペンダントね』『よかったら、お貸ししますわ』とかいって、おたがいのアクセサリーの貸し借りをすることがあるのよ。これはチャンス、と思って、発信機入りのアクセサリーを貸したわけ。公聴会のテレビ放映で、王女さまがシルバーのネックレスを身につけていらっしゃったから、『あ。いま、つけているな』て確信できたわ。そのまま、誘拐されたのよね」

「しかし、なぜ発信機をつける? 王女さまのセキュリティの一環?」

 マグカップをふたつもち、ひとつをテーブルに置き、オールシーにすすめた。

「ま、それもあるけど。メインの目的はライバルの動向を知るためね。珈琲、どうぞ」

(……ライバル?)

 このとき、彼は次のふたつのことが脳裡に浮かんだ。

 ひとつは、これは遠回しの愛情表現ではないか、ということ。

(彼女はそれじゃ、プランタンさまがぼくに気があると思っているのか? あきれたなー。ありえない。そもそも身分がちがいすぎる)

 リリーが自分に恋をしている――あるいは、その初期状態ではないか、と考えたことはなんどかあった。しかし、そのたびに彼のこころにはブレーキがかかり、反射的に距離を取ってしまうのだった。たしかに「いい子」なのだが……何かが……ちがう……。そしていつもの超然とした態度に引きこもっていた。だが、いまは彼女の感情を考慮している場合ではない。

 もうひとつは

(この子は気になる相手に発信機を、平気でつけられる性格なんだ)

 という驚きである。

 知らないうちに、自分の所有物にも取りつけられているかもしれない。この部屋だって、盗聴器、盗撮カメラが設置されているのでは。リリーが部屋にあがるのは、はじめてではないのだ。

(この件が無事に終わったら、セキュリティの専門家に相談しなくては)

 以上の内容を、稲妻のように脳裡にひらめかせ、彼は何食わぬ表情で珈琲をすする。

「う。うまい」

「でしょ。わたし、珈琲淹れるの得意なんだ」

「それで、なぜ南極だと?」

 彼女は携帯端末を取り出し、タッチパネルを操作する。

「追跡アプリはグーグルマップと連動していて、発信機の所有者が世界中どこにいても探索可能なの」

 ディスプレイのマップを世界規模に拡張した。南極に点滅する赤い光点がある。

「この……赤い点が、王女さま?」

「そう。どう? 捜査の過程で南極がかかわっていなかった?」

「そういわれれば……」

 少年SSは思い出す。殺害されたシニザ教授の壁には、南極調査隊のカレンダーが貼られていたのではなかったか。あとで、王女がそう教えてくれた。

「九月の最初に殺されたシニザ教授が、数年前にロシアの基地を訪問し、地底湖の微生物の研究に従事していたらしい。教授はその微生物を退屈王国にもち帰り、独自に研究していたふしがある」

「ふしがある?」

 リリーは珈琲カップを両手でつつんで、質問する。

「微生物の存在を否定するコメントをロシアが出したんだ。数万年から数十万年前の生態系がそのまま凍りつき、保存された未知の微生物だよ。本格的に研究したら、トルストイの連載長編小説のように新発見がつづいただろう。だが、微生物だと思われたのは掘削機に付着した『汚れ』にすぎなかった、と数年後に発表した」

「あやしいわね」

 少年は珈琲で舌をしめらせる。

「それでも教授はこつこつとデータを取りつづけ、研究結果を学会誌に発表するつもりだった。だが、ロシア当局から横槍が入ったらしい」

「え。退屈王国の話でしょ。内政干渉、的な?」

「シニザ教授の弟子からの伝聞だよ。ある日、ロシア大使館の人間が、もうひとりの素性の判然としない男と連れ立って安閑大学の教授の研究室を訪問した。面談は三人きりでおこなわれ、二時間後に客が帰ったときは、教授はぐったりし、落胆していたそうだ」

「ふうむ」

「しかし、さらに数ヵ月後、元老院議員のラチエンスキー公爵が研究室を訪問した。ふたりは親密に話し合い、意気投合したようで、教授はふたたびこの『微生物』の研究に意欲をもやしはじめた。研究室の口座には公爵と関係が深い製薬会社からの多額な資金援助の記録が残っている。おそらく、ロシア側とシニザ教授とのあいだに、公爵が仲介役で割りこんだのだろう」

「その研究データは見つかったの?」

 オールシーは首を振る。

「自宅の書斎にはなかった。研究室のPCにもない。弟子たちによると、自分たちはよく知らない、先生おひとりで研究なさっていたと。たぶん、何かの陰謀に巻きこまれ、データを盗まれて教授は殺害されたんだ」

 リリーはうなずく。

「その背後には、ラチエンスキーの影があるわけね」

 少年は珈琲をすする。

「南極にはどうやっていくの? ぼくは謹慎処分中なんだ。空港でパスポートを提示したとき、係官に身分がばれ、王宮省に照会がいくかもしれないんだけど」

「だいじょうぶ。賄賂による違法出国だから」

「わわわ賄賂? 違法!?」

 熱い珈琲で舌を焼く。リリーは上品にソーサーをもちあげ、指でカップをつまんで飲む。

「一二月四日。南極で皆既日蝕があるのよ」

「皆既日蝕――」

 太陽と月が完全に重なる現象である。

「『日蝕ハンター』と呼ばれるひとたちがいるわ。このひとたちは日蝕を求めて世界を飛び回っている。アフリカの紛争地すれすれの土地にいったり、南太平洋の沈みかけた小島にいったり、南米アマゾンの密林の地下洞窟の底にいったり。どんな気候、環境、時間でもさまざまな障害をものともせず、ともかく日蝕を追いかけ、観賞するの」

「話には聞いたことがある」

「アイドル時代のわたしの熱烈なファンに、すごい大富豪がいてね、『これはビジネスチャンスじゃないか』と考えたわけ」

「ふむふむ」

「皆既日蝕がいつ、どこで起こるかなんてネットで調べればすぐにわかる時代よ。数年前から今年一二月四日に南極でその天体現象が生じることを知り、ホテルの建設を思いついたのよ」

「南極にホテル?」

「そう。しかも、この日蝕のため一週間限定で営業するホテル。専用ジェット飛行機の滑走路もつくり、世界中の裕福な『日蝕ハンタ―』をツアーでご招待というわけ」

「南極条約に抵触するのでは」

「許可を取れば、だいじょうぶみたいよ」

(許可、取れたのか? 金か? 金の力か?)

 当然の疑問を口にする。

「その日、曇ったらどうするの?」

 リリーは首をかしげた。

「ペンギンでも見るんじゃないかしら」

 オールシーは釈然としない。

(口座の金額が天文学的な数字のひとたちだ。何を考えているのか、まったくわからない……)

「南極への渡航方法は一般的に、ふたとおり。アルゼンチンから船で二日かけていくか、チリから飛行機でいくかね。富裕な『日蝕ハンター』たちはもう、チリのホテルに滞在しているみたい。わたしたちもこれからチリにいって、専用ジェット機で南極にむかう予定よ」

「どうやって出国する?」

 リリーはにやりと笑う。

「大富豪に相談したら、出国係官の買収と専用ジェット機のチャーターを請け負ってくれたわ。オールシー、ジェット機の操縦、できるわよね」

「最近、やってないけど。たぶん」

「まず、チリへ。そこで南極行きの特別チャーター便に乗り換える。

 あたたかい衣服が必要よ。南極は夏でも零下だから」

 そういって、彼女は立ちあがる。大型スーツケースを開き、ごそごそ探していたが、やがて黒く、重そうな鉄の塊をもって戻ってきた。

「はい、これ」

 ベレッタM92だった。

 驚いていると、リリーはいう。

「強制返却させられたんでしょ、マトハズシ。丸腰でのりこむつもり?」

 銃をじっと見つめながら質問する。

「王女さまの誘拐犯、知っているような口調だね」

 彼女はうなずく。

「誘拐現場の監視カメラがばっちり写していたって。犯人はラチエンスキー公爵」

「部下ではなく、自分で?」

「そうみたい。よほど追いつめられたのね」

「アイドルグループ『シャドウズ』のメンバーはどうなった?」

 重要参考人クラスだが、なかなか決め手がなく令状が取れないとスメル警部がぼやいていたのだ。

「公演は急遽、キャンセル。行方をくらませている。事務所は払い戻しで混乱しているみたい。連絡が取れず、探しているところ。ファンに対する一方的な裏切りね。元アイドルのわたしとしては、怒り心頭よ!

警部は全国に指名手配をかけたわ」

 七月からの事件がいよいよ大詰めを迎えている、と急に実感された。

「ずいぶん、事情にくわしいね」

「知り合いに聞きまくったから。オールシーがきっと落ちこんでいると思って、なんとかして復活させたかったのよ」

 少年は困惑する。媚びをふくんだ視線が下から見あげているのだ。

「……この借り、どうやって返せばいいんだろう……」

 リリーはにこりと笑う。

「無理しなくていい。観たい映画があるの、今度、つきあってね」

「映画でも食事でも遊園地でも献血でも」

「タイトルは『怪奇、死美人のはらわたゲロゲロ醜悪祭』よ。夏からずーっとロングラン興行なの。すごい人気! もう気になって気になって……。よかった。一緒にいってくれるひと、なかなかいなかったの……」

 目に涙を浮かべるリリーを見て、オールシーは驚いた。


 少年はベレッタを見る。

(この銃を手にしたら、ぼくは完全に犯罪者だ)

 公務として銃を携帯するわけではない。銃刀剣所持法違反になる。

(組織に属する人間として正しい振るまいは、王女さまが南極にいることを上司に報告することだ。だが、大きな組織は決断や実行に時間がかかる。書類が回り、決裁され、書類が回り、決裁され……。そのあいだに、プランタンさまはいったいどうなる?)

 ベレッタを見る。

(ばかばかしい。報告はやめだ!)

 ベレッタを見つめる。

(銃を手にすることに迷いはあるか? いや、そんなためらいはいっさい、ない)

 いままで捜査に参加しながらも、拉致事件被害者やその家族、関係者をオールシーはどこか、他人事のようにかんじていた。しかし王女が誘拐されたことで、一連の事件は他人事では完全になくなったのだ。彼はいま、渦中の当事者である。

(犯罪者? 法に触れる? け。知ったことか!)

 反撃スイッチがようやく、ONになった。ベレッタに手を伸ばす。

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プランタンの優雅な午睡 大森葉音 @OmoriHanon

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