第22話

 ヘルムート・ベルンハルト・ケレーニイは妻につれられ、新しく開店したフランス料理店に足を踏み入れた。

 彼はワインにくわしくない。フランス料理もめったに食べない。「食事なんて、パンと水があればじゅうぶんだ」と、中世の修道僧のようなことを口にする中年の公務員だ。職場は税務署で、企業の法人税を管轄している。数年前に、二八歳のフリーデザイナーを知人から紹介され、交際し、結婚した。彼女の仕事は文字デザインがメインで、商品名や会社名、店舗名のロゴ、企業シンボルなどを手がけている。

 最近、取り扱ったのがこのフランス料理店の看板、メニューなどのデザインだった。「ギラン・ド・セヴォラ」という店名である。

「どういう意味なんだ? 料理の名前か? それともワイン?」

 ヘルムートが質問すると、妻のナンミルは、

「人名よ。歴史上の人物の名前」

「有名なのか。何をやったひとだ?」

 ナンミルはいいよどむ。

「有名とはいいがたいわね。第一次世界大戦のときに、無線係だった」

「無線係? 戦況を左右する重要な、敵の暗号電文を解読したとか?」

 彼女は首を横に振る。

「土色に塗った網の下に大砲を隠すことを思いついた」

「なんだそれ」

「カモフラージュ――迷彩よ。彼は世界ではじめて、大砲や軍服を迷彩でデザインしたの。迷彩工作員のバッジはカメレオンだったそうよ」

「それとフランス料理と、どういう関係が?」

 ナンミルは首をかしげる。

「お店のコンセプトが迷彩なの。だから、看板もロゴも迷彩をイメージした。店内装飾もメニューも従業員のコスチュームも、みんな迷彩デザイン」

 ヘルムートは困惑する。

「なんでまた……迷彩?」

「知らない。オーナーに聞いてちょうだい。それにそんなこと、どうでもいいでしょ。大切なのは、デザイナーや店舗設計者、出資者、潜在的顧客である近隣のお金もちを開店前のセレモニーに招待して、ただで飲み食いさせてくれるってこと」

 彼は口をつぐむ。ふだん、フランス料理など口にしないが、ただで食べさせてもらえるというのなら、その限りではない。

 迷彩デザインのお仕着せの給仕に導かれ、ふたりはテーブルについた。いわゆる「迷彩服」を着用しているからといって、軍人のようには決して見えない。シャツもズボンも形状は一般的な給仕のお仕着せなのだ。ただ、迷彩柄のせいでフォーマルな印象はまったくなく、いくぶん気楽な雰囲気になっていた。

 ヘルムートは天井や壁を見回してしまう。迷彩模様である。戦場の野営地にフランス料理店が開店したようで、斬新ではあった。

「おどろいたでしょう? わたしも最初に見たときは、じろじろ見回しちゃった」

 メニューを手に取った。これもまた迷彩。料理やワインの名前は背景から浮きあがるようにデザインされ、読みにくいことはない。

 そのとき、彼はテーブルの上の奇妙な装置に気づいた。高さ一五センチほどの、タケノコのような形をしている。表面には細かい穴が無数に開いており、グレーとブラックのツートーンカラー。かすかに振動しているようだ。(小型の空気清浄機か?)とケレーニイは推測した。たいして気にとめない。

「これも、きみの仕事か?」

 メニューを示し、ヘルムートはナンミルを見つめた。

 三二歳の妻は、二五歳でも通用する。ブラックのフレアワンピースは首の周りがえぐれ、形のいい鎖骨が剥き出しだった。その上をパールのネックレスが飾り、細い首には卵型の頭部がのっている。額の上で左右に分かれたアッシュブロンドの髪は肩にふんわりかかるほどの長さ。弓なりに反った眉の下に、鳶色の瞳。ほっそりした頬のラインは気品と優美さを添えていた。

「そう。名前だけならワインをおぼえたけど、どれも飲んだことのない銘柄ばかり」

 苦笑する。妻もワイン通ではない。酒は飲むが、そんなに繊細な舌をもっていないはずだ。「おいしい」と「飲みやすい」を混同している口だろう。

「や。ケレーニイ! 君も招待されたのかい?」

 うしろから声をかけられ、反射的に振りむく。友人の護民院議員がスーツ姿でにこにこ笑っている。ケレーニイと同じ頭髪に白いものが混じっている年輩の、恰幅のよい男だ。

「マルコ。議員殿も? これは奇遇だな。久しぶり。元気にやっていたかい」

「おかげさまでね。予算会議がひと段落して、地元の後援会と懇親会や打ち合わせがあり、ばたばたしているところさ」

 マルコ・ガスマンはケレーニイの大学時代の友人だ。ふたりとも法律の勉強をし、試験前には互いのノートを融通し合った仲である。

「妻のナンミルは知っているよな。この店の看板、彼女の仕事なんだよ。ナンミル、こいつは……」

 妻に挨拶させようと前をむいた彼は、口をあんぐり開け、凝固した。ついさっきまで、対面の席に着席していたはずのナンミルが消えているのだ。とまどいつつ、旧友に謝罪し、説明する。

「あ……すまない。いままで、テーブルについていたんだが……。どうやら突然、席を離れ、化粧室にでも駆けこんだのだろう……」

「化粧室?」

 護民院議員は疑わしげにいう。

「ハンドバッグを忘れたまま?」

 指摘され、ケレーニイも気がついた。

 妻のバッグが椅子のそば、フロアの上に落ちているのだ。何やら正体不明の胸騒ぎに襲われる。

「……いったい……?」

 マルコ・ガスマンは首をかしげていう。

「奥さん、迷彩服だったわけじゃないだろう?」

 ヘルムート・ベルンハルト・ケレーニイは首を左右に振って、否定した。

 ふたりとも、視野がピンホールのように狭くなっていることに気づかない。


 ナンミル・ケレーニイはヒネモス近郊のレストランで煙のように消えた。八月七日、一九時二分のことである。

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