4【明】細菌研究者の密室殺人

第26話

 プランタンはヒネモス近郊の高級住宅地、アンネイ地区の邸宅にいた。

 立方体をみっつ、組み合わせたような住宅である。中央に三階建ての箱があり、そこが生活居住空間だった。その一階から左右に連絡通路が伸び、立方体の研究室、書斎兼応接室にそれぞれつながっている。どちらにも独立した玄関がある。中央の母屋を通らずに研究室や書斎に直接、訪問できた。

 王女が立っているのは、その書斎の方だ。

 私立安閑大学の細菌研究者、ジェローム・シニザ教授の邸宅である。その死体が発見されたのが、九月二日八時二分。いつまでたっても寝室から起きてこない教授を家人が不審がった。六時半には起床する習慣なのだ。しかし、寝室に教授はおらず、ベッドには寝た形跡もない。研究室や書斎で仕事をし、そのままソファで寝てしまうこともあったので、家人はその両方に足をむけた。そして書斎で倒れている姿を見つけ、仰天する。救急と警察に通報したが、その時点でシニザ教授は完全に生命活動を停止していた。

 警察の捜査がはじまったのが、八時二五分。担当捜査官はすぐに上司に相談し、王女の来臨を仰ぐことに決めた。首にナイフを刺され、明らかに他殺体であったのだが、現場は密室状態だったのだ。

 王女はいままでも警察の求めに応じ、不可能状況の犯罪捜査に口を出し、実際に何度も犯行方法を解明していた。警察上層部ではプランタンの推理力への信頼はあつく、「わたしにやらせて」とご本人が主張することもあり、不可能犯罪についてはなるべく王女のご意見を忖度する慣例になっていた。

 少年SS、オールシー・ブライムを従え、王女プランタンが到着したのは九時を少しすぎたころ。首にナイフの刺さった死体など王女に見せたくなかったが、捜査責任者はあえて死体を動かさず、そのままの状況で保存していた。

「こ、これは……!」

 着衣のまま、床に倒れたシニザ教授の死体を目にし、王女は思わず声を洩らす。

 その身体には、デンメルクの王子が発明したクールテックが掛けられていたのである。

「ご覧のとおりの状態です」

 捜査責任者のヒネモス警視庁捜査一課の警部は、眉間に皺を寄せる。三四歳の独身、働きざかりの優秀な捜査官である。射撃と逮捕術に長け、会議では容疑者どうしの隠れた人間関係に妙に勘が働くと評判の男だ。ダークスーツをきちんと着こみ、シルバーグレイのクールテックをその上に着用していた。口もとや顎では髭の剃り跡が青々としている。

「ご存知のように、死体現象の進行状態から法医学的に犯行時刻を推測しますが、こんなふうに身体を冷やされていたのでは、家人が最後に被害者を目撃した直後に刺されたのか、ついさっき刺されたばかりなのか、区別がつきません」

 王女は唇をとがらせ、死体の上のピンクのクールテックを指さす。

「クールテックの保冷限度は八時間のはずです。死体に掛かっているのは、まだひんやりしているのですか?」

「鑑識が正確な温度をあとで報告してくるはずですが、さきほど、わたし自身が触った印象では少しぬるいようでした。ただ、あらかじめ常温にさらしておき、殺害直後の死体にぬるくなったクールテックをかぶせ、犯行時間を誤認させる可能性も否定できません」

「ま、さすがに早朝、家人が刺したということはないでしょうね。やはり昨夜遅く……深夜前後が犯行時間なのかしら……。それにしても、発明品がこんなふうに悪用されるなんて、まさかデンちゃんも考えつかなかったでしょうね……うっふっふっふ」

 と、なぜかうれしそうなプランタンであった。

 王女はパープルの花柄のカットソーチュニックのプルオーバーを着て、ぴったりした活動的なブルーのデニムをはいていた。薄いピンクのクールテックをはおっている。赤と黒のチェックのハイカットスニーカーを、鑑識用のビニールのシューカバーで覆っていた。

(「イノベーション・プリンス」だとか「二一世紀を牽引する少年王子」とか、世界中のマスコミがデンちゃんをもちあげ、賞賛しているけど、おほほほ、子どもはやっぱりまだまだ子ども。世紀の発明品とかいっても、しょせん、その程度の思いつきなのよ。くすくすくす。それにしても、デンちゃんの発明品をこんな斬新な使い方で悪事に利用するとは、犯人はなかなかのものね。敵ながらあっぱれだわ……うっふっふっふ)

 上機嫌である。

「このクールテックの件、公式発表に折りこまない方がいいでしょうね」

 横からオールシーが口を出す。「え」と王女は声を洩らした。

「むろんです。マスコミには伝えません。真犯人しか知りえない情報として秘匿します」

 警部は唇を引きしめる。

 オールシー・ブライムはチャコールグレイのスーツに、落ち着いた濃紅色のネクタイ。ていねいに磨かれた革靴はやはり、シューカバーで覆われている。シルバーの、ノースリーブ・クールテックを着用していた。

「で、でも、犯罪に悪用されないため、広く一般市民に報道し、啓発した方がいいのじゃないのかしら?」

 王女がやや心外そうに異をとなえた。

「むしろ逆に、悪用の方法をマスコミで広めることになりますよ」

「そうそう。密室状況だったことと合わせ、これは秘密にします」

 少年SSと捜査主任に抗弁され、プランタンは残念そうに下唇を噛む。

 部屋の広さは、卓球台が二台入り、そこで選手が互いに気がねなく、らくらく試合ができるほどである。玄関は北東寄り。そこから入って右手、つまり北側に連絡通路の扉があった。その扉の前、玄関の目の前に、テーブルとソファの応接セット。西の壁は一面、天井まで書棚で、専門書や研究ファイルが整理、収納されていた。壁の窓は東と南にひとつずつ。東の窓のそばに、なんの目的に使うのかわからない長い棒が立てかけてある。大きな樫のデスクが南の窓の前にどっしりと据え置かれ、脇に観葉植物の鉢植え。死体は、そのデスクと応接セットのあいだに、うつ伏せで倒れていたのである。

「玄関、南と東の窓は、内側から施錠されていました。連絡通路も施錠されていたようで、家人が通路側から鍵を開け、室内に入ったそうです」

「つまり、もし家人が犯人なら、密室状況はまったく問題ないのですね。犯行のあと、連絡通路に出て、通路側から施錠すればいい」

 とオールシー。

「そうなります。被害者のシニザ教授の家族構成は、五二歳の妻ハンナ、一九歳の娘インゲ。二五歳の息子ハングがいますが、すでに一般企業に勤めており、独立して、昨日は自分のマンションで寝ていたそうです」

「しかし、家人が犯人だとしたら、密室にするのはかえって不自然。外部犯を示唆するためにむしろ、窓を開錠し、サッシにすきまを残したり、玄関を開けっ放しにしたりするのが合理的でしょう」

「まー、おっしゃるとおりですね」

 警部がにがにがしげに認める。

「オールシー、捜査に予断は禁物よ。自分たちを捜査圏外に置くために、あえて密室状態にしたのかもしれないでしょ。犯人ならば自分に不利な犯行状況をつくるはずがない、という常識的な先入観の裏をかいた可能性があります」

王女さまユアハイネス、ご明察です。だから、犯行方法から考えるのでなく、動機や背景事情から捜査した方がいいかと愚考しているところです」

 うなずきながら、警部が考えを述べた。

「あの窓はどうなんです?」

 少年SSが天井を指さした。

 天井はかなり高い。三メートル以上は確実にあった。そしてそこに、四角い天窓が設置されているのだ。

 天窓は二メートル×二メートルの正方形。よく磨かれたガラスのむこうには、白い雲を浮かべた青空が四角く切り取られている。

「あの窓は外側から開けることはできない。開閉は内側からのみ可能なんです。通路側の枠に黒いスイッチがあるんですが、見えますか?」

「スイッチってあの、四角いプレート?」

 プランタンが指さしたのは、窓枠の中央の三センチ×四センチほどのプッシュボタンだ。

 警部は、東の窓のそばに近寄り、用途不明だった長い棒を手に取った。

「このポールは長さが二メートルあるそうです。これを使って、天窓の黒いボタンを押すのです」

 天窓の下に立ち、ポールの先端をプッシュボタンに当て、ぐいと押しこむ。なかの機構が作動し開錠された窓が、ガクンと落ちてきた。警部はその重さをポールで器用に支え、そのままゆっくり窓を引き落とす。天井の一部が、ぱくっと口を開き、下顎をはずしたように見えた。蝉の鳴き声が室内に洩れてくる。

「屋上の窓枠には、あの四角いスイッチがないんですね」

 オールシーが確認する。いちど開いた窓を閉めるためにポールをもちあげながら、警部はうなずく。

「あとで屋上にあがって確認してください。侵入者の工作の痕跡が、ひょっとしたらあるかもしれません」

「……わたくしの記憶が正確なら、明け方、激しい雨がヒネモスに降ったはずです。大きな雨音のせいで、いちど、目をさましたおぼえがあります」

 王女が指摘した。

「たしかに、そうでした。雨が、賊の侵入の証拠を洗い流した可能性は高い。ま、誰かがここから脱出したと仮定してですが」

 退屈王国では、定期的に激しいスコールが降るのである。

「それでもいちおう、確認のために屋上にのぼってみます」

 少年SSは宣言する。

「東、南のふたつの窓は内側から半月錠がおりていました。玄関も鍵がかかっていた――これは犯人が合鍵をもっていたら、意味がないですね。連絡通路の扉の施錠については、先ほど申しあげたとおりです。何か、ほかに気がかりな点はございますか?」

 プランタンはそっと歩きながら、室内を観察しはじめた。数人の関係者が鑑識作業を進行中だ。スタッフジャンパーの上に緑のクールテックをはおった女性が、カーペットの上に落ちていた長い毛髪をピンセットでつまみあげていた。王女は興味をもち、彼女に話しかける。

「頭髪? 女性のものかしら?」

「四〇センチ以上あります。おそらく、女性の頭髪です。長い上に、細くてやわらかそう。もっとも、それだけで性別を決めつけるのは危険ですけど」

 窓から差しこむ太陽光線に、ピンセットの先端をさらす。毛髪が赤く輝く。

「赤毛?」

 鑑識員はビニールパックのなかに慎重に採取した。

「警部。被害者のご家族に赤毛の人物はおりますか?」

 王女の質問に即答する。

「ございません」

「すると、夕べ遅くにこの書斎に訪問者がいたのかしら。赤毛の女性――もしくは、男性が」

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