9【暗】パパゲーナの休日
第42話
わたしの容疑は放火殺人
見知らぬ他人をたぶらかし
ガソリンぶちまけ火をつける
純粋無垢な快楽殺人
世間のやつらにアッカンベー
火柱人間片手にあまる
連続焼殺火食い龍
でもそんなのうそっぱち
取調室で刑事は叫ぶ
「おまえがやったんだろー」(×3)
真犯人は神さまだけが知っている
お願いどうか 助けてちょうだい(×2)
(Enzai‐girls「再審請求」)
「お兄さんの病状はゆるやかですが、好転していますよ。やはり、半年前に専任の理学療法士がついてからですね。以前より社交的で、よく話すようになりましたし、表情もいきいきして麻痺も改善してきています」
オールシーが「パパゲーナ」と呼ぶ女の子は、医師の話に耳を傾けていた。担当医はアメリカで長年、脳外科の研究をおこなっていた中年の、でっぷり太った男である。白衣の下に辛子色のシャツを着ていた。
説明がいっとき中断したので、彼女は窓の外に視線をそらす。医師はPCのキイボードを操作し、患者のカルテを探す。脳のMRI画像をディスプレイに示すつもりだ。
窓の外では、青空が広がっていた。この病院はヒネモスを東西に分けるユールリ川沿いに建っている。ただ、中心街からかなり南にあり、周辺では民家や小さなアパートが目立つ。
パパゲーナの目は、青空のなかで微妙に動く無数の小点をとらえた。トンボだ。風にさからうように、高度を微妙に上下させながら、赤トンボが編隊飛行していた。のどかで、郷愁を誘う風景である。
咳払いが聞こえる。自分が「リハビリホーム・のろのろ」の担当医師と面談中であり、いまはその執務室にいることを思い出した。
「すみません、先生。うわのそらで……最近、忙しいもので……」
医師は理解を見せて、ほほえむ。
「この施設の料金を自己負担なさっているのですから、お仕事がたいへんなのは当然でしょう。おまけに、専任の理学療法士まで雇用なさって……」
パパゲーナは恐縮し、頭をさげる。
「こちらをご覧ください」
医師はPCのディスプレイに注意をうながす。
「お兄さんの脳のこの部分、それとこの部分に血腫が見られます。後頭部を激しく殴打されたときにできたやつですね。こまかい血管が密集しています。手術が難しい箇所だったので、ようすを見つづけていて……結果的には、それで正解でした。新薬が開発され、投薬で治る可能性が出てきましたから。患部はここ数週間の投薬治療の結果、いくぶん改善が見られます。これが三週間前の画像」
別の写真を呼び出す。画面を二分割し、比較できるように並べた。
「どうですか。現在の血腫の方が小さいでしょ」
「はい」
「わが国ではまだ認可がおりていませんが、アメリカでは治験段階ですでに効果が証明されています。当然、保険適用外ですが……」
「もう、支払いは済んでいるはずです」
「そうですか……。どうか、あまり無理をなさらないように。お顔の色がすぐれませんよ。よかったら誰か他の医師に血液検査でもしてもらいましょうか」
「いえ。わたしはだいじょうぶです」
きっぱり、いった。
「退院はいつごろになりますか」
医師はうなる。正直、彼女の兄が退院するところまで回復するとは、かつては考えてもみなかったのだ。
「はやくて一ヵ月。ですが、だいじを取って二ヵ月後」
「状況しだい、というわけですね」
医師はうなずく。
パパゲーナは兄の病室に顔を出した。
彼女の兄はベッドで上半身を起こし、ディケンズの『二都物語』を読んでいる。
「いてたおか」
しゃべり方に麻痺が残っている。それでも、ことばの意味がわかる程度には回復したのだ。
「ちょっと寄ってみただけよ」
そういって、ベッドのそばの椅子に腰をおろした。
清潔そうに頭髪を短くカットし、両方の耳をくりんと出している。日に当たっていないので顔の皮膚は青白いが、両頬にぽつんと血色のよいポイントがあり、健康そうだった。病院着も垢じみたところはいっさいなく衛生的だ。パパゲーナは安心する。
「リハビリ、がんばっているんだね。先生がいってたよ。経過は順調だって」
妹を見る兄の目に光がやどる。
「いおいおあんだな」
確認するように質問する。パパゲーナはベッドの脇にしまわれたボードゲームを引き出した。いつも、見舞いにくるたびにここで対戦するのだ。
「兄ちゃん、どっち? 黒? 白?」
ふるえる右手を伸ばし、白の箱をつかんだ。ふたりはオセロをはじめる。
「近いうちに決着がつくと思う」
妹が黒い石を置く。兄は黙って耳を傾けた。
「わたしがそのあともここに通いつづけたら、うまくいったんだと思ってね。失敗したら長い旅に出るけど、ここのお金の心配はいらない。もう支払いは終えたから」
モンキーズに暴行を受けた彼女の兄は救急病院で治療を受け、昏睡状態のまま入院した。治療費、入院費は福祉行政サービスによって無料である。やがて昏睡状態から醒めたあと、このリハビリ施設に移転した。数ヶ月の昏睡のせいで言語機能や日常動作には障害が発生していた。ひととおりのリハビリは受けられたが、状況を改善するためには、より高度で専門的な理学療法が必要だ。行政サービスではそこまでの面倒を見ていない。
父親が殺された事件の後、パパゲーナは児童施設に収容され、同世代の子どもたちと一緒に生活していた。最初は、新しい環境にとまどい、人間関係に苦労したが、しだいに友人もでき、施設内で自分なりの居場所を確保した。年少の寮生の面倒をよく見て、寮母や監督官にも信頼されるようになった。知的好奇心や記憶力は抜群で、学業成績はいつも優秀。その後、「叔父」を名のる人物があらわれ、その経済的援助のおかげで高校卒業の資格を取ることができた。やがて、施設を出て、ひとり暮らしをはじめ、行動の自由がひろがってから、このリハビリホームにも週にいちど、顔を出すようになったのである。
そして「仕事」をして稼いだ金を兄の治療につぎこんだ。
「よせ」
黒い石を角に置いたとき、そういわれた。
「だめだよ、兄ちゃん。『待った』はなし」
「おのおとあない。あうないいおとから、手を引け」
パパゲーナは溜め息をつく。
「もう、後戻りはできないよ」
窓に視線をそらす。ひとが騒いでいる。青空にトンボのかげはすでになかった。かわりにアスファルトの路面に、無数のトンボが落ちて、死んでいる。犬を散歩させている老婆が悲鳴をあげた。ジョギングしている若者が足の踏み場に困惑し、走るのをやめる。
「見て。どんどん世界が消えていくのよ。小さいものから順番にね」
兄が白石を置いたのを確認し、自分の黒石をそのとなりに置く。はさんだ白石を黒に反転させていく。一部白かった平面の世界は、みるみるうちに黒く反転していく。白い部分はもうほとんど残っておらず、黒い闇が覆いつくしていた。
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