第9話
ラファロ博士が目の前から消えてみせたこの余興、プランタンにはなんだか妙になじみ深くかんじた。ついさっき、王女は少年SSと一緒に、女子高校生のすぐ背後で「気配を消す」隠密行動を実践したばかりだったのだ。
プランタンは書棚側の位置に着席していたので、目の前にはホワイトボードがあった。のっぺりとして光沢のある無表情な白い平面を見ていると、映画館のスクリーンを連想するのだ。そこでは、博士の邸宅にたどり着くまでのいきさつが映画のように上映されている。いつもきょろきょろしているオールシーは、周囲を警戒するのは警護上、必要なのだと弁明した。
(あの高校生たちもきょろきょろしていれば、周辺の状況にもっと気くばりができたはず……)
そのとき王女の脳裡には、エンザイ・ガールズ『再審請求』のサビのメロディーが、唐突に流れ出した。ついさっきイヤフォンで鑑賞していた曲だ。それはまったくの偶然であり、本来なら状況にかんがみ、不謹慎なふるまいを自粛するはずだった。しかし、(ふんふんふん)と思わず、王女は頭を上下に動かしたのである。
そして、愕然とした。
(え。いまのなに?)
もういちど、頭を振る。しだいに理解の光が脳裏に差しこんでいく。
(そんな……そんな……ばかなことって……ある?)
博士がどこに隠れているか、わかってしまった。
プランタンは自分の考えをまとめはじめる。
オールシーは王女のようすを横目に見、(どうせまた、とんちんかんな思いつき推理に没頭しているな)と、まことに畏れ多いことながら、完全に舐めきっていた。彼はさっきから奇妙な風切り音が気になっていたのだ。ほんのかすかな音である。オールシー・ブライムのように特殊な感覚訓練を経験した者でなければ気づかない。
退屈王国軍同様、彼は軍事訓練に従事しており、軍の階級では中尉なのだ。王女の警護の関係で一年間に数週間のみだが、サバイバル演習やパラシュート降下、拷問に対する抵抗力の訓練を受けていた。そのプログラムのなかに、完全な暗黒のなかで近づいてくる微細な音に反応するトレーニングがあった。
「ううむ。さきほどの、グラゼマさんのご意見ですが、わたしはまたちょっと考えが変わりましたよ」
議員がおもおもしく発言する。
「人間ひとり、閉ざされた空間から消失するはずがないとグラゼマさんはお考えでした。しかし、これほど探しても見つからないのなら、やはり物理的に消えたとみなした方がよいのではないでしょうか。つまりこれは、テレポーテーションです」
「テレポーテーション?」
グラゼマはうなずく。
「さきほど、博士の助手のマジャールさんが、窓の外に飛んでいる人間の影を見たといっていました。あれはテレポートした博士だったのではないでしょうか?」
みな、はっとした表情になった。プランタンだけが、面白そうに公爵の顔を見ている。
「テレポーテーションとはあれですか……むかしのSF小説などに出てきた……瞬間移動?」
弁護士が確認する。
「そうです。壁や天井を破壊することなく透過し、一瞬のうちに好きな場所に移動する超能力です」
ラチエンスキー元老院議員は、おおまじめで応じた。
「神経生理学の研究でテレポーテーション能力が解発されますか?」
プランタンが開発部部長のカイゼムに質問する。
「……無縁ではないかもしれません。その能力が脳神経と関連していることは、じゅうぶんに考えられますから。しかし……」
脳内神経伝達物質やニューロン、カルシウムイオンについて専門的な話を彼女が展開しているあいだ、オールシーは目立たぬように席を立ち、かすかに聞こえる風切り音の音源にむかい、そっと足を運んだ。音はパーテションのうしろから聴こえている。
少年SSが覗きこむと、そこには博士の助手のエリカがいた。紅茶の給仕を終えた彼女はそのままこのスペースに引きさがっていたのだ。ただし、資料整理やPCのデータ処理といった助手らしい仕事をするためではない。イヌサフランの花瓶を両手にもち、ぶんぶん振り回しているのである。額にはうっすら汗さえ、にじんでいる。
オールシーはあっけに取られた。
(音の正体は判明したが……。このひと、いったい何をしているんだ?)
視線に気づき、エリカが振りむく。彼はにこりと笑顔をつくった。
「なにか、ぼくにお手伝いできることありますか」
(しまった、見られた!)と悪事が露見した犯罪者のような表情を一瞬、見せたあと、彼女は何ごともなかったかのように、
「いいえ。特になにも。最近、運動不足だったので、かんたんなエクササイズをしていたのです」
にこりと笑う。みえみえの言い訳にオールシーも微笑する。
ふたりはしばらくたがいに、にこにこしていた。
「テレポーテーション能力の解発こそが、今日の会合の意義ですよ。まちがいない!」
と公爵は自信まんまんである。
「わたくし、そうは思いません」
プランタンは冷静である。
「なぜです? 失礼ながらユアハイネスは、何を根拠にわたくしの考えを否定なさるのですか」
ラチエンスキーは心外この上ないといった表情だ。王女は余裕をもって微笑する。
「メザメールの失敗化合物がテレポーテーション能力を解発するかどうか、確認するのはかんたんしごくでございます。いま、この部屋にはその化合物が充満しているはずでしたね」
「いかにも」
公爵はうなずく。
「わたくしたち全員、胸いっぱい、そのクスリを吸いこんでいるはずですね」
「いかにも」
うなずく公爵のそばで、パウロは気づいたようだ。「なるほど」と王女にうなずいてみせた。開発部部長も弁護士もまだ、ぼけなすのままだ。首をかしげている。
「それでは、公爵。どこかにテレポートしてみてください」
元老院議員は「あ」という表情になったあと、うなり声をあげた。
「王女さまのおっしゃるとおりだ。博士がテレポートしたのがこの化合物のせいなら、わたしたちもテレポートできることになる」
「ふむふむ。理屈はとおっているようだな」
カイゼムとグラゼマは、ようやく理解した。補助輪なしで自転車にはじめて乗れた子どもを見るように、王女は微笑する。
「公爵。わたくしも自分がどこかにテレポートできるなどとは申しません。そんなことが可能なような感覚が、まったくございませんもの。おそらく、この心理的確信はこの場のみなさんに共有されていることと存じます」
「やってみもせず、そう決めつけなさるのはいかがなものでしょう?」
「では、公爵。テレポーテーションのお手本をお示しください」
王女はにこりと笑う。
ラチエンスキーは顔を真っ赤にし、咳払いしてごまかした。
「それでは、ユアハイネスはどうお考えですか? 博士はいったい、どこに消えたのです? 他人の意見を批判するだけならかんたんだ。ご自分は何もおっしゃらないつもりですか?」
公爵は挑発する。
透明なアクリルケースのなかのバナナを見て、なんとかその箱を開けようともがく猿に憐憫と慈愛のまなざしをあたえ、王女はおごそかに伝えた。
「もちろん、自分の考えを申し述べるつもりでございます。博士がどこにいるか、わたくし、すでに存じあげておりますから」
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