基本問題 マイクロサッカード現象
【問題編】
第2話
退屈王国王女プランタンは、お付きのシークレットサービスであるオールシー・ブライムと石畳の街路を歩いていた。退屈王国の首都ヒネモスの中心地から少しはずれた、ヒルネ公園のそばの通り。三匹の働きアリが見あげるなか、ヴァイオリンを弾き聞かせているキリギリスの銅像が目印だ。
午後のけだるい陽光がプラタナスの並木の葉をなぞり、道ゆくひとびとはいまいましげに、みずからの濃厚な影をにらみつけている。
「暑い暑い。今年もたいへんな夏になりそうね」
ことばとは反対に、まったく涼しげな表情の王女がつぶやく。ふんわりした、ドット柄のスモックブラウスに、チャコールグレイのカーゴパンツ。ダークレッドのハイヒールサンダルを履き、首には銀のネックレス。そして、パステルグリーンのハーフコートのような衣服を着こんでいる。ただし、コートにしては襟がない。脇の下の周辺は布地がゆったりふくらみ、余裕があった。
「そうですね。北半球の七月は夏ですから、いまを『夏』とおっしゃるのも、けっしてまちがいではございません」
退屈王国は年中、気温が一定しており四季がない。だが、今年の夏は平均気温より二~三度高く、三〇度をこえることが多かった。地球温暖化の影響を懸念する報道がなされている。
「でも、このクールテックのおかげで、だいぶ快適ですよ」
オールシーもラフな格好だ。赤茶色のスウエードの靴にブラックデニム、白とグレイのボーダーシャツ。その上に紺のコートによく似た、裾の長い衣服を着ている。これにも襟はなく、背中がふわりとふくらんでいた。脇の下に吊るしたガンホルダーは隠れて見えない。
「暑いったら暑い! ともかく、夏は暑いものなのよ」
王女はいい張るが、汗ひとつかいていない。コートの上にピンクのストラップポーチをバッテン掛けしている。睫毛の長い、挑戦的な瞳をきっと空にむけた。
「クールテックのおかげで、みんなクーラーを使わなくなったから、室外機から排出される熱がなくなり、気温がさがっているそうですが」
裾の長い衣服のせいで見えないのは、ガンホルダーだけではない。保冷ウエストポーチも目立たない。
涼しげな、すっきりした表情のシークレットサービスの発言は本当だ。王国の首都ヒネモスでは、クーラーの排熱がなくなった分、この夏、例年より二~三度気温が低く、ヒートアイランド現象が緩和しているという報道である。
この少年の顔を思い出すとき、誰もがまっさきにその瞳を脳裡に浮かべる。深い森の奥の湖のように澄んだ緑の光をたたえている。まるで周囲の樹木の影を鏡のように映しこんだようだ。やや大きめの鼻は形が整い、唇は肉厚な蘭の花弁を連想させた。
オールシー・ブライムは王宮省セキュリティ部門に所属するシークレット・サービスで主として、王女の警護を任務としている。どうも女性の攻撃性を誘発するところがあるらしい。プランタンは彼を気軽にからかい、意地悪し、ときに面とむかってばかにする。彼の方では王女の無茶な言動には馴れており、適当に相手をしている。
「この発明品のおかげで、デンメルクでは株式市況が好調みたいですね」
「やめて。デンちゃんの話は、ききたくない」
「え? ユアハイネスとデンメルク王子殿下は親密な間柄じゃないですか」
「昔はね。でもいまは、敵同士よ」
「そうなんですか? それはまた、どうして?」
納得いかないと不審気なオールシー。
王女は周囲に視線を走らせ、ふっくらした小さな唇を舌で湿らし、声の調子を落とした。
「『千夜一夜物語』にこんな話があるの。
あるところにひとりの漁師がいた。その男が海で釣りをしているときに、海中に投棄されたガラスの瓶を釣りあげるのよ」
オールシーが話の腰を折る。
「ちょっと待ってください。その話、長いですか?」
王女は驚く。
「『千夜一夜物語』よ。長いに決まってるわ」
「や。『千夜一夜』て、そういう意味じゃなかったような……。三年くらい話すつもりですか?」
自信なさ気に、あいまいにうなずき、王女はつづきを語りはじめた。
「すると、そのガラス瓶から魔神が飛び出し……」
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