第18話
その晩、彼はようやく理想のテント生活を手に入れた。ひさしぶりの食べものに胃は満足し、冷めた珈琲をちびちび飲みながら、スパイ小説にのめりこんだ。
(これこれ。都会の喧騒を離れ、自然のなかでただひとり、夜の森のなか、エリートスパイのゴージャスな冒険を満喫する。ぼくのやりたかったのは、これだよ!)
訓練の意義などすっかり忘れ、夏山のキャンプを満喫する民間人のようなオールシー・ブライムである。
だがさすがに退屈王国きっての優秀なシークレットサービスである。周囲の異変に彼は気づいた。
(あれ? ……なんだなんだ、どういうことだ?)
『007は二度死ぬ』を、彼はそっと脇に置いた。東洋人の女の子が描かれた表紙は、三〇回以上読み返しぼろぼろになっている。ハリケーンランプを手に取ると、簡易テントの外に出る。
森の木々のシルエットの上で、蛍光色のフットボールのような形の月が少年をじっと見おろしていた。オールシーはランプを掲げ、周囲を照らす。光線が届く範囲内に動くものはいない。
(おかしい。いったい、どうしたんだ?)
森がしんと、静まり返っていた。
風は死に絶え、木々の枝や葉を揺らすことがなく、虫も鳥も眠りこんでいる。ふだんなら夜行性の生きものがガサガザと下草でうごめき、フクロウがホウホウと鳴き、ランプにむかって蛾や甲虫がむらがってくるのだ。しかし、そんな気配はいっさいない。
胸騒ぎがする。
(まるで、大きな災厄の前触れみたいだが……)
唐突に、パパゲーナのことが思い出された。彼女はだいじょうぶだろうか? 彼女の身に何か変事が生じたのでは?
(いやいや。あの子は父親といっしょだろう。心配ない、心配な……)
オールシーは愕然とした。父親が誰だったか、突然、思い出したのだ。
(あの顔! 警戒監視対象の手配書で見たんだ。たしか、テロ集団・スペースモンキーズの一員だったはず……!)
スペースモンキーズとは、ここ数年、王国内で散発的なテロ行為を実行している犯罪組織である。構成員の多くは、レストランの下働き、ガスステーションの洗車担当、コンビニのアルバイトといった低所得層だった。彼(女)らは低収入のせいで人生の見通しが立たず、なかば自暴自棄になり、犯罪行為に走るらしい。一種の自殺願望だが、どうせ死ぬなら周囲の「健全な生活」を享受している一般市民を巻き添えにしてやる、と傍迷惑なことを考えている。いちおう、アンチ・グローバリズムを標榜し、グローバル大企業や官公庁に爆弾をしかけたり、外国人観光客の宿泊施設、リゾート地に大型車輌で突入したりするのだが。
経済格差の大きい先進資本主義国ならいざしらず、天然ガス資源のおかげで税金もなく、高額な福祉手当が保障されている退屈王国で、このような不満分子が生まれたことは世間を驚愕させた。低賃金労働やアルバイト、派遣社員という不安定雇用に文句があるなら、いっそ辞めて生活手当に頼ったほうがいいからだ。一ヶ月の生活手当は、生活費以外に遊興費、資格試験のための学費、乳幼児の養育費に回してもまだ余裕があるほど支給される。北欧諸国に匹敵するほど、いや、それ以上に国家の福利厚生は充実しているのだ。
だが、その北欧でも自爆型無差別テロ事件が起こったように、やはり「ひとはパンのみにて生きるにあらず」であった。
オールシーはランプを置き、ハンドライトを点灯携行し、夜の森を走り出す。
スペースモンキーズの構成員はみな、敗残者だ。才能の不足、努力の不足、世間知の不足、経験の不足にいらいらし、ついには「こんなクソ人生、棄ててやる!」とヤケになった。そもそも、怠惰な生活習慣を助長する社会的な風土が王国には存在する。理想ばかり肥大し、努力も実行もせず、失敗を他人のせいにする夜郎自大な人間が一定数、生まれる土壌はあったのだ。
そして、二一世紀には「自分の命を棄てるテロ」が世界中で頻発し、彼(女)らは気づいてしまった。「どうせ死ぬなら、幸福そうなおおぜいの人間を巻き添えに、やつらを不幸のどん底に突き落として死ねばいいのだ。これで、自分を認めなかった世間のやつらに復讐できるぞ!」
ハンドライトの光芒が夜道を照らす。道を横断するようにうねり、うごめいている何か細長い銀色の光を少年は目撃する。なんだろう……と不審に思いつつ近づくと、体長一メートルほどの蛇だった。彼は完全に立ちどまり、先客が道を渡りきったのを確認してから、ふたたび急いだ。
こうして、過激な宗教思想、○○原理主義とはまったく無縁なテロ組織が生まれたのだった。一九九九年に公開されたデヴィッド・フィンチャー監督のハリウッド映画『ファイトクラブ』から、その名前は借用された。「スペースモンキーズ」とは、大気圏離脱の打ちあげロケットに搭乗した実験動物のサルのこと。自分自身の意思にかかわらず、あらかじめ人生を奪われ、他人のために利用される存在だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます