第17話
襟の大きなボーダーのポロシャツ、膝に草色の汚れがついたデニム、履きふるしたスニーカーという格好だ。一四歳か一五歳といった年齢である。
「き、きみは……?」
こんなところで何をしているのか、と質問しようとしたが、枝にとまった鳥が鋭く鳴き出した。全体的に黒く、くちばしと肢が蛍光色のオレンジのような鳥だ。小首をかしげながら鳴く。
「キョローン、キョコキョコ、キーコキーコキー、チョロイチョロイ」
あっけに取られ、少年は言葉を失い、その鳥を見つめた。
「クロツグミ」
少女が美しいソプラノでさえずる。
「え」
自己紹介したのか、と思った。
「……いまの鳴き声はクロツグミだよ。歌の名手と呼ばれている」
女の子は、じっとオールシーを見つめている。
「……こんなところで……何をしているの?」
少年の質問に、少女は細く長い首を傾けた。
「鳥寄せ。わたし、鳥の鳴きまねが得意なんだ。すると、声につられて鳥が集まってくる。よく訓練すれば、ある程度いうことをきかせられるよ」
唇をすぼめ、ものすごい高音を断続的に発した。
「ピッピキピッピキピー。チヨチヨチヨ。ピキピー」
クロツグミが枝を離れ、少女の肩にとまる。
少年はある種の感動をおぼえ、賞賛するようにそのようすを見つめた。
(どこの誰だか知らないが、まるで鳥刺しパパゲーノじゃないか。いや、女の子だから、恋人のパパゲーナの方かな)
警戒心を解いたのか、小鳥たちが彼の周辺に集まってくる。足もとでうろうろしたり、肩や頭の上にとまったり。オールシーは果敢に食欲と戦った。
「あたし、この近所に住んでるんだ。軍人さんはこんなところでなにしているの?」
彼は迷彩服の軍服を着用していた。訓練時にはこの服装が規則である。
「サバイバル訓練中なんだ」
別に国家機密ではない。正直に答えた。
「こんなところに、民家が?」
「お父さんにつれられて、引っ越してきたの。学校は途中でやめちゃった。お父さんはヒネモスで会計士をしていたけど、仕事上のトラブルを抱えて、一時的に山の奥に避難したんだ。お母さんとは二年前に離婚した。二歳上のお兄ちゃんと三人で暮らしていた。学校の関係でお兄ちゃんはヒネモスのもとの家にいるよ。大学生で社会学の研究してるんだ。会えなくてさみしいな。仲がよかったの。
住んでいる小屋には自家発電機があるから、冷蔵庫も電子レンジもあるよ。二週間に一回、お父さんとふたりでふもとの町まで買い出しにいく。食材や雑誌、新聞、新しいゲームソフトをまとめ買いするんだ。電話線がないのが不便かな。基地局から離れているから携帯端末も圏外。だから、学校の友だちと連絡が取れず、つまんない」
しばらくして打ち解けてくると、そんなことを少女はぺらぺらとしゃべり出した。父親以外の人間と話をすることに飢えていたのだろう。聞いていないことまで積極的に情報を提供する。
「知らない人と話しちゃいけない、お父さんにはそういわれているけど、お兄さんは悪いひとじゃなさそうだし、それにふらふら身体が揺れているのは、お腹がすいているせい? そんな状態なら闘ってもあたしが勝ちそうだもんね。
鳥寄せはこっちに来てから。もともと鳥が好きで、家では鳩を飼っていたけど、鳴き声をまねしようとは思わなかった。山のなかにはきれいな小鳥がたくさんいるから、鳴きまねしてみたの。そうしたら自分でもびっくり。あたしけっこう、じょうずに鳴けるのよ。いまではすっかり鳥と仲よしなんだ。たまにフンをかけられそうになるけどね」
「パパゲーナかと思ったよ」
「なに。パパゲーナ?」
オールシーはモーツァルトの歌劇『魔笛』について、かんたんに説明した。
「あははは。じゃ、お兄さんはパパゲーノだね。鳥が身体のあちこちにとまっているもん。
お昼すぎたら、何か食べものもってきてあげる。訓練にさしつかえないよね」
「絶食訓練じゃない。サバイバル訓練だから」
パパゲーナじゃない、天使だな、と思った。赤毛の天使だ。
その日の昼すぎ、少女はパンとハム、チーズ、缶詰、珈琲の水筒、ソーセージを紙袋に詰めて約束どおり、簡易テントにもってきてくれた。オールシーは不覚にも目頭が熱くなる。他人の情けがこれほど、ありがたいと思ったことはない。
「ぼくはいま、訓練中で自由がない。だけど終了したら、ぜひ恩返しをさせてもらうよ。なにか欲しいものがあったら、なんでもいって」
少女は「うっふっふ」と笑う。
「あたしのウイッシュリストは長いよ。アマゾン川より長いかも」
「欲張りさんだ」
「あはは。退屈じゃない? 話し相手になってあげようか」
「本をもってきているから、それを読むよ」
「なんの本?」
持参したイアン・フレミングの『007は二度死ぬ』について語った。日本ロケの映画版DVDを鑑賞したとき、スタッフコメントで知った撮影秘話を披露した。
「なんだかマニアックね。でも、お話おもしろかった。また、遊びにくるわ」
別れのあいさつをし、踵を返して森のなかに消えていく。
オールシーは支援物資の食糧を目の前にし、生唾が湧くのをとめられない。唇の端からよだれがあふれ、顎に垂れてきそうだ。だが、チーズの塊をひとつ手にしただけである。高倍率の小型双眼鏡を携帯し、すぐに少女のあとをつけはじめた。歩きながら濃厚な風味の塊をかじり、考えつづける。
(あの子の話はどこかおかしい。会計士の父親が仕事のトラブルを抱えて、山のなかに避難なんかするか? 世間から逃れた、なるべくひと目を避けた生活態度。あきらかに犯罪のにおいがする……)
少女の善意を疑ったわけではない。だが、父親の犯罪(?)について、彼女がまったく無知、無関心だということはありうる。国の治安維持を目的とする役人のひとりであるオールシーは、好奇心と義務感から、せめて親子が暮らしている小屋のようすを確認しようと決心したのだ。
森には雑音が満ちているので、少年SSの立てる足音はかき消された。木の間がくれに少女を尾行する。赤毛のパパゲーナは勾配をななめに横切るようにくだっていく。膝のクッションを器用にきかせながら、地面の起伏を克服する。足もとのふらつくオールシーは、何度か転倒しそうになった。
小さな白樺の林を抜けると、ログハウスが見えてくる。いや、「ログハウス」というとおしゃれな印象だが、丸太を組んだ掘っ立て小屋である。ヒネモスでもまだ珍しい、シルバーグレイの六輪駆動車が小屋のそばに駐車していた。そのすぐ脇には物干し竿にぶらさがった洗濯物が風で揺れている。簡易テントから歩いて二〇分くらいの距離だった。
彼はあまり近づきすぎないように注意し、双眼鏡を目に当てた。父親らしき男の姿は見えない。しばらく観察していると、家のなかから少女がふたたび姿をあらわした。両手に何かかかえている。
ピントをさらに調整した。どうやら、鳩を胸に抱いているようだ。灰色の曇り空にむけて、その鳥を放り投げる。
空中を羽ばたき、しばらくして小屋の屋根にとまった。少女は腰に手を当て、地面から何か叫ぶ。怒ったような口調だ。鳩は小首をかしげ、きょとんとしていたが、やがてふたたび飛びあがる。そして、意を決したように南にむかった。目的意識をもった方向選択のようだ。
(……伝書鳩?)
オールシーはいぶかしむ。さらにピントを調整し、飛翔する鳩の肢の通信筒を確認した。手紙を入れる小さなアルミの筒である。
(帰巣本能を利用した、二〇世紀の通信方法だ)
最近は、携帯端末の発する電磁波のせいで、地磁気を感知する鳩の能力が狂っているといわれている。
鳩の目的地は彼女が住んでいたもとの家か? たしか、ヒネモスに住んでいた時は鳩を飼っていたといったな。その鳩をこの山小屋までつれてきて、もとの住居に通信文を送ったのか。ということは、通信相手は彼女の兄か? だが、兄から彼女に連絡を取る方法はない……。一方通行の通信だ。となれば、通信内容は自分が今いる場所の情報か)
少ない材料から、オールシーは推理を組み立てたが、この推測はのちに完全に正しかったとわかる。
さらにしばらく、小屋を観察していると、釣り竿を肩にのせて山道を歩いている男性が視界に入ってきた。少女の父親らしい年輩だ。
ちぢれた細い頭髪。小さな額。落ちくぼんだ目。神さまが顔をデザインするとき、鼻を引っぱったようで、ちょっと犬を連想させるように顔の中央が突出していた。唇は薄く、前歯が目立つ。綿の長袖シャツに、革のベスト。デニムにチョコレート色の登山靴。
少年は首をかしげる。
(どこかで見たことのある顔だが……)
男は小屋のなかに入り、扉を閉めた。
その顔が誰のものだったか、思い出せないオールシーは、自分がずっとある違和感にとらわれていたことに気づく。
――小屋の周辺が静かすぎるのだ。
彼の簡易テントのまわりや、ここまで歩いてきた道で、森はざわめきに満ちていた。だがこの小屋のそばでは、鳥は鳴きやみ、虫は黙りこみ、風は木の葉を揺らすのをやめ、沈黙の霧に覆われている。親子がそろったはずの小屋のなかからも、親しげな会話や笑い声、雑多な生活音がいっさい、しない。
(このことは、おぼえておこう)
自分にいい聞かせ、オールシーは腰をあげた。
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