第46話
小委員会室のそばの小会議室が、参考人の控え室として臨時に代用された。心臓発作を起こしたリュウ男爵のおかげで、時間稼ぎができた王女は、ふらふらと廊下を歩き、その控え室に茫然自失のまま足を運ぶ。机のそばの椅子に、こころここにあらずといったようすで腰をおろす。両手で顔を覆い、しくしく泣きはじめた。後悔と絶望、苦痛と悲嘆、恐怖と動揺、衝撃と困惑が王女の小さな胸のなかで嵐のように荒れ狂う。
時間稼ぎができたからといって、状況が好転したわけではない。憲法裁判所では正直に、一〇月一五日の軽率なふるまいを告白し、釈明しようと決心した。ラチエンスキーは狡猾で用意周到である。いさぎよく敗北を認め、受け入れよう。公爵のいうように犯罪組織の黒幕ではない、とわかってもらえたとしても、世間一般の信頼失墜は避けられないだろう。
王女がそのように自らの負けを自覚することは、めったにない。ちょうどそのとき、小会議室のドアが勢いよく開いた。
「近所のコンビニでサンドイッチ、買ってきました! まさかこんな長期戦になるとは思わなかったですよ。昼食の準備なんてしませんでしたもんね」
能天気なようすのオールシー・ブライムが入ってきた。右手にコンビニのビニール袋をさげている。何がうれしいのか、満面の笑顔である。
「しかし、やりますねー、ラチエンスキー公爵。王女さまも、相手にとって不足なしじゃないんですか?」
「……」
「あんなインチキ映像、強制捜査に参加した警察関係者の証言が出れば、すぐに捏造だってバレるのに――ま、バレてもいい、自分のインチキが暴かれても、ユアハイネスの歌謡カラオケショーという真相が暴露されるなら、それでいいという思惑なんでしょうねえ。王女さまの信用失墜こそ目的であると。自分のインチキ、不正行為を糾弾されたら、『やあ、バレちっち。フェイクニュースでしたー。テヘペロ』みたいなー」
「……」
「強制捜査にユアハイネスが参加することまでは想像できても、あのカラオケショーは公爵も想定外だったでしょうねえ。ステージでマイクを手にした王女さまの動画を入手したときは、『これはラッキー』とあとさき考えず、あんな映像についつい編集しちゃったんだろうなー」
「……」
「ツナサンド、卵サンド、ハムサンド、ポテトサラダサンド、どれがいいです?」
「……」
「やー、お腹すきましたよね。飲み物はペットボトルの無糖珈琲か無糖紅茶です。王女さまはいつも紅茶ですから、珈琲はぼくがいただきます」
「……」
「あれ? どうしたんですか、食べないんですか? なにか口に入れないと、午後からもちませんよ。ユアハイネスが食べないなら、ぼく、食べちゃいますよ」
「……」
「やだなー。元気出してくださいよ。勝負はまだまだこれからじゃないですか。一三時からはこっちの反撃の番です。ベースボールみたいなもんですよ。守備の回が終わったから、今度はこっちの攻撃です。あれ? 王女さまは知らないですか、ベースボール」
「……」
「面白いですよ。退屈王国ではマイナースポーツですけどね。王女さまがお得意なのはテニス、水泳、乗馬ですから、ベースボールは庶民的なスポーツだとお思いなさっているのかな。天覧試合とかあれば、盛りあがるんじゃないかな」
「……オールシー……。なんだか、たのしそうね……」
地獄の底からうめき声が聞こえた。
「あははは。この動画を見たら、王女さまもきっと元気が出ますよ。さっき、パウロから送られてきたんです」
「……パウロ? ミステリを書けなくなっているミステリ作家の、パウロのこと?」
警護の少年はにやりと笑う。コミュニケーターを取り出した。
「一〇月一五日にユアハイネスがどこにいたのか、ぼくも知らなかったんですが、彼が教えてくれました。王女さまも本当に、失念していらっしゃるようですね」
プランタンは顔をあげ、泣きはらした瞳を(オールシーがアイロンがけした)ハンカチでぬぐう。ふしぎそうな表情で少年の携帯端末を見つめる。少年はタッチパネルを操作し、動画を再生した。そのとたん、王女は驚きの声をあげる。
「ミクラスちゃん!」
一三時になり、公聴会が再開された。
しかし、小委員会室の雰囲気は沈鬱である。自分たちの国の王族のひとり――それも王女が、犯罪組織との関与を疑われ、その疑惑が濃厚なのだ。プランタンのようすを見るかぎり、とても清廉潔白とは思えない。何かうしろ暗いことを隠している気配だった。議員たちも傍聴人たちも、自国の不名誉に傷つき、暗澹たる気分におちいっている。例外は告訴人席の四人だけだ。
議長が再開を宣言し、救急車で病院に搬送されたリュウ男爵の容態についてアナウンスした。緊急救命室に入り、応急処置を受け、状態は安定しているということである。
「さて、憲法裁判所いきの事案かどうか、九人の議員諸君は審議を終えていますか?」
議員代表が答える前に、プランタンが声をあげた。
「議長。わたくしの方から釈明がございます。よろしいでしょうか」
その場にいた全員が王女の声の調子に、はっとした。休会直前の打ちのめされた印象ではなく、気力を回復したようすなのだ。
「どのような内容です」
銀髪の議長が冷静に質問する。
「さきほどの、ラチエンスキー元老院議員の質問にお答えする内容です。一〇月一五日の件、わたくし思い出しました」
おおっとどよめきが沸く。公爵は、驚いた表情で王女を見返す。
「口頭で申し述べてもよろしいのですが、親切な友人が動画を送信してくださいました。わたくしも元老院議員と同じように、証拠の映像をスクリーンでみなさんにご覧いただきたく存じます」
期待と不安が小委員会で交錯した。ラチエンスキーは眉をひそめる。
王女は、オールシーのコミュニケーターの針状のメモリースティックを指先でつまんで示した。担当者がそれを受け取り、スクリーンに接続されたPCのレセプターに挿入する。
「『退屈ミステリ大会/一〇月一五日』というタイトルの動画です」
探し当て、スタートさせた。
うなり声があちこちからあがる。
スクリーンにはドレス姿の王女が映し出されたのだ。きちんとした礼装で、ライラックカラーのドレスは、腰から下が広がらないシンプルなもの。首にはブルーサファイアのネックレス。上品でおだやかな微笑を口もとにただよわせていた。ラチエンスキーは目を見張る。
「録画状態が悪く、こちらも音声が再現できません。ですが、画面の左下の日時をご覧ください。一〇月一五日二〇時になっています。この日、一八時からホテル・ゾクゾクで国内のミステリ作家の懇親会が開かれたのです。わたくしは退屈ミステリ大賞の特別選考委員を拝命しております。そのご縁で、貴重で名誉なこの会合に招待されたのです」
著名なミステリ作家、ベストセラー作家がつぎつぎと画面に映り、王女とあいさつをかわしていく。みな、プランタンに丁重に敬意を表し、「ご来駕」に感謝を述べているようだ。いかにも王女らしい状況、王女らしい立ち居ふるまい、王女らしい服装である。
公爵は奥歯を噛みしめる。
プランタンが犯罪捜査などの急用で公務を欠席するとき、「カプセル姫君」が出動することがある。王国(時には国外)から集められた王女のそっくりさんだ。本人の同意が得られれば、整形手術をほどこし、プランタンにより似せることができた。
現在、「カプセル姫君」は三名存在する。コードネームはウィンダム、アギラ、ミクラス。みな、王女にそっくりだが、判別方法があるらしく、プランタンには見分けがつく。ただ残念ながら、声まで似せることはできない。したがって、カプセル姫君が発言すると「にせもの」だと露見してしまう。そのため、彼女たちには秘書のゾーナ・オレスケが必ず同行する。
「まことに申し訳ございませんが、本日、王女さまにおかれましては、朝から咽喉の調子がお悪うございまして、
つまり、カプセル姫君とは、王女の「シャドウ」なのだった。
「これは……どういうことだ?」
「王女が……ふたりいる? 片方は犯罪者の集会で扇動演説、もう片方はミステリの懇親会で作家と親睦を深めている……」
「ふたりいるはずがない。どちらかが、よく似た他人だ!」
「庶民の格好で犯罪組織を前にマイクをもっているのが王女か。有名人の作家の前で優雅にあいさつしているのが王女か」
「考えるまでもないな」
周囲の喧騒をよそに、プランタンはパウロのメッセージを思い出していた。動画データのほかに、文書データも送られていたのだ。それは次のような内容だった。
親愛なる王女さま
七月以来、ご無沙汰しております。パウロ・アルマビーヴァです。
地上波テレビで公聴会のもよう、拝見しておりました。それで気がついたのです。「一〇月一五日にお会いした王女さまは『影武者』だったのか!」と。どおりで、ごあいさつ申しあげても話がかみあわないはずです(ラファロ博士邸でお会いした記憶がないようでした)。
懇親会当日の録画がございます。一緒に送信いたしますので、この動画を有効にお使いください。「あの日、ごあいさつしたのはたしかにプランタンさまだった」という証言を確約するメールが、作家仲間からぞくぞく届いております。ベストセラー『ななつ数えて目をつぶれ』『深淵に踏み出し、飛べ』のガイエル・ギミラウス、退屈ミステリ大賞受賞者のメロリン・クロッカスからも応援のメールをいただいております。証言が必要でしたら、連絡を取りますよ。
以下は私事にまつわる、ざれごとです。よろしくご笑殺ください。
わたくしがミステリ小説を書かない/書けない理由は、トリックが思い浮かばない才能の不足のせいでもありますが、より直接的には読者のひとりからいわれた次のようなことばのせいです。
「あなたは、ひとの死をかるがるしく扱いすぎる。わたしの父親は路上で殺害された。ささいな口論がけんかになり、刃物で刺殺されたのだ。あなたの小説のようにかんたんに人間がばたばた殺される話を読むと、『ひとの命はこんなに軽いのか』と暗澹たる気分になる。ミステリなんか、この世から消えてなくなれ!」
出版社に送られてきたこの手紙を読み、わたくしはショックを受けました。
わたくしも犯罪被害者です。妹が飲酒運転事故に巻きこまれました。ひとの生命やその死を、軽率に扱っているつもりはまったくありません。もちろん、どのように書いても、ミステリという形式が本来もっているゲーム、遊戯の構造は、命を軽視している印象を生み出すのでしょう。また、ひとの命をかるがるしく扱っている作品はミステリ以外の、一般文芸にもあります。しかし、この投書はわたくしを深く傷つけました。なによりもまず、死んだ妹に申し訳ない気もちにさせたのです。
わたくしが苦しんだ複雑で暗鬱な悩みのかずかずは、また機会があればくわしく申し述べることにいたします。今日、公聴会のテレビ中継を拝見し、わたくしが「あ」と衝撃を受けたのは、王女さまの次のことばでした。
「この世界で起こるどんなできごとも、自分と無関係とは思えない。そのなかには美談もあれば殺人事件もある。そうしたできごとについて、世界をよりよく変えることができるのなら、積極的に協力すべきではないか」
このとおりの表現ではなかったかもしれません。しかし、わたくしはご発言を以上のように理解しました。
紙の上のキャラクターの死は、現実の死とちがいます。もちろん、読者はキャラクターに感情移入し、その死を「ひとの死」と「実感」することがある。しかし、感情移入がなければキャラクターの死を「記号的な死」とおうおう、みなすだけです。わたくしはその「記号的な死」を通して、この世界にまだ協力できることがあるのではないかと考えるようになりました。要するにどのように描くか、リアルとフェイクのバランスの問題です。
作家としての再生のきっかけを、王女さまから与えられたような気がいたします。深く感謝いたします。
公聴会、がんばってください。公爵は、なんだかうさんくさいやつですね。ぜひ、打ち負かしてください。応援しています。
パウロ・アルマビーヴァ 拝
この手紙を読み、王女の反撃スイッチがようやく、カチリと入った。
学校でも社会でも、目的にむかって活動していると必ず、障害や軋轢が生じるものだ。「敵」はわかりやすく、眼前に厳然と立ちはだかる。そして、自分の戦いぶりをただじっと見ているだけのひとびとがおおぜい、いる。そのひとびとは暗い背景に隠れていて、敵か味方か、はっきりしない。悪戦苦闘や悪あがきが、えんえんとつづくのみ。その戦いには終わりがないように思える。
しかしあるとき、自分の戦いぶりに感動した誰かが、さっと手を差し伸べてくれることがある。それは、まったく人知を超えた奇跡的な瞬間だ。期待も予期もしなかったときに、そんな瞬間がおうおう訪れる。このとき、ひとは「むくわれた」と思う。そこで再起動できる。激戦にむけ、戦闘モードにふたたび突入するのである。
パウロにもプランタンにも、その一瞬が前後して訪れたのだ。
(やってやる! ラチエンスキー、反逆貴族。逆賊め! 反撃してくるがいいわ!)
グノス・ラチエンスキーは仲間の告訴人たちと、早口で何やらやり取りに忙しい。表情は真剣で、深刻だった。プランタンが示した証拠の動画の攻撃力、影響力を評定しているのだろう。
議長が口をひらく。
「ラチエンスキー元老院議員。さきほどのご自分の動画と、いま王女さまが提供なさった動画と、どちらが真実か、ご意見をうかがいたい」
青ざめた表情の公爵がプランタンに目をむける。さすがに最前までの余裕はなさそうだ。
「……わたくしの動画の方がほんものです。動画の女性は王女さまと同じネックレスをつけています」
プランタンは悠然とほほえむ。
「アクセサリーは大量生産品でございます。同じ品物を別人がつけていてもおかしくありませんわ。おほほほ」
必要とあれば、堂々とうそをつける王女であった。
「……わ、わたくしの動画の方が、参考人席の王女さまに似ております」
苦しそうに声をしぼり出す公爵である。
誰かが失笑する声が聞こえた。顔や姿の似具合は、ふたつの動画では互角なのだ。
(おのれ、プランタン! おれの方がまちがいなくほんものの王女の動画なのだ。あっちはおそらく「影武者」だろう。だが、一般大衆がイメージする「王女らしさ」ではたしかに負けている! なんということだ、真実が虚偽に敗れるとは)
とはいえ、公爵の主張も決して「真実」ではないのだった。
(「声」を聞かせれば、一聴瞭然なのだ。だがあの、カリスマ的な歌声を聞かせると、おそらく王女は味方を増やすだけだろう。あの歌声には魔力がある。音楽のよさがまったく理解できないおれでさえ、王女の歌声の魅力にはひざまずいた。「敵」でなければ、ファンになっていた。おそらく、おれの動画がほんものだと頭で了解しても、九人委員会は王女に有利な評決を下すおそれがある……。だめだ。それに今さら、音声の復元が可能だなどとはいえない……)
ラチエンスキーは、こぶしを硬く握りしめる。
「では、九人はこの公聴会の結果、事案を憲法裁判所に提起するかどうか、話し合い、評決を出してください」
決定権をもつ九人の議員の代表が立ちあがる。やや猫背の老女だった。
「議長。わたしたちはすでに評決を出しています」
「や。そうですか。では、どうぞ発表してください」
マスコミ関係者の動きが目立つ。現場リポートのキャスターがマイクで何ごとかささやいている。代表の女性護民院議員、ラチエンスキー、プランタンにカメラがそれぞれむけられた。
「わたしたちの決定は、全員一致しています。王女さまの嫌疑は晴れました。公爵の解釈はやや無理があり、強引であるという結論です」
プランタンの緊張の糸がぷつりと切れた。傍聴人席からは拍手が湧き起こる。何人かの議員が王女のもとに歩み寄り、お祝いとねぎらいのことばをかける。壁際で待機している警護の少年も胸をなでおろし、溜め息をつく。
ラチエンスキーは苦虫をかみつぶしたような表情で立ちつくす。取材のマイクをむけられるが、「ノーコメント」を連発し、足早に小委員会室を出た。ほかの告訴人たちもそのあとを追う。
護民院の若手議員が王女のそばに近寄り、祝意を述べた。プランタンは丁重に返礼する。
「ほんとに記憶になかったのですか」
「ええ。うっかり失念しておりました。一か月半前のことですもの。おほほほ」
「公爵の提供した動画の女性、畏れ多いことでございますが、ユアハイネスにそっくりでございましたね」
「そうでしょうか。自分ではなかなか、わからないものでございます。でも、よく似た他人は世間に三人いる、五人いる、七人いるとか申しますわ。ほんとうは何人なのかしら。うふふ」
「わたしにも司法関係に知人がおりまして、人身売買組織の手入れのようすを耳にしたんですが、カラオケバーがアジトだったらしいですな」
「まあ、そうですの」
「わたし、目がいいので画面の端にちらっと映ったミラーボールを確認しました。あれはね、扇動演説じゃない。あの女性はカラオケで歌っていたんですよ」
「興味深いお話ですこと」
「わたしの考えではあの娘、おそらく拉致被害者です。ステージに出され、バイヤーに『出品』されたんですよ。それなのにまあ、楽しそうによくカラオケなんか歌えたもんだ。あはははは」
「……む、おほほ。おっちょこちょいのお嬢さんもいらっしゃいますからね……」
にこにこ笑うプランタンのこめかみに稲妻型の血管が浮きあがる。
「いやいや、まさにまさに。しかしいくらなんでも、これから奴隷として売り飛ばされるっていう自分の立場がわかるでしょうに。おっちょこちょいにもほどがある」
王女はにこにこ笑いつづける。
「いや、あえていわせてもらいましょう。バカ娘ですな。あっはっはっは」
「……おほほほほ」
左手のこぶしが握りしめられた。指の関節は真っ白だ。よく見ると、かすかにふるえている。
「まったく、親の顔が見たくなるとはこのこと……あ!」
王女の背後に視線をやり、護民院議員は何かに気づいたように拝謁の姿勢を取った。
「王妃さま。ご機嫌うるわしゅう存じます」
(え、母上?)と、王女も驚き、振り返る。
「プランタン。どうやら無事に終わったようね」
王女プランタンの母君、王妃のウィンターフェルは嫣然とほほえんだ。公務の途中で公聴会のようすを知り、心配になって切りあげてきたのだ。護民院議員に軽くあいさつし、王女とむかい合う。
黒のフォーマルワンピースにパールのネックレス。プランタンの母君といえば、すでに××歳におなりだろうが、まったく年齢をかんじさせない若々しい外見である(検閲済み)。肩の骨格がしっかりしていて、その中心から優美な首が伸びていた。そこにつながる卵型の頭部はかすかに左に傾いている。切れ長な瞳に平行な細い眉。鼻筋は顔の中心線を形作り、その下の唇は白い歯を見せ、少しほころんでいた。化粧でごまかしていない豊齢線は、自己アピールのようだ。栗色に染めた頭髪はストレートで、肩の上で切りそろえられている。
「母上。よろしいのですか。公務は?」
「いいのいいの、イーノックアーデン。サバンナやキリンのお話も興味深かったけれど、娘の一大事に悠長に耳を傾けてなんかいられないわ。ま、無事に切り抜けて、ひと安心のようね」
王妃のうしろから、秘書のゾーナが面目なさそうに姿をあらわす。
「王女さま、申し訳ございません。一〇月一五日のスケジュール、わたくしが事前にご連絡差しあげ、ご確認いただくべきでした」
「なにをいっているの? 確認しなかったのは、わたくしの落ち度です。ゾーナは悪くないわ」
王女は恐縮する秘書を目の前に、さらに恐縮した。
「それとこちらの記念品をお渡しするのを忘れておりました」
秘書はビジネスバッグのなかから、平たいケースを取り出した。
「いったい、なに」
「懇親会当日、王女さまはミステリ作家組合から記念品を贈呈されたのです。こちらはその実物でございます」
プランタンはたいして期待するそぶりも見せず、ケースのふたを開ける。
なかには、拡大鏡が入っていた。
「古典的な探偵のななつ道具のひとつ、というわけね」
無感動にコメントする。あとでこの拡大鏡のおかげで、命が助かるとは予想もしない。ケースのふたを閉じ、スカートのポケットに入れた。
王妃が両手を打つ。
「さ。何はともあれ、難局は切り抜けたんでしょ。今晩はお祝いね。料理長にごちそうを用意するよう、伝えておかなきゃ。プランタンは何が食べたい?」
「え。急にそんなこといわれても。マ、マーボードーフ」
「は。マーボードーフ?」
「最初に思い浮かんだのです。それと……ケーキ」
「マーボードーフとケーキなんて、一緒に食べたらお腹のなかで中国とヨーロッパが戦争をはじめるわよ」
「だいじょうぶですわ。わたくしのお腹は国際協調路線ですから」
帰りはふたたび、オールシー・ブライムの運転する公用車に揺られながら、王女は幹線道路を退屈城にむかう。移動中、会話はほとんどなかった。公聴会の攻防で、ふたりともすっかり疲れ果てていたのだ。それでも途中、警護の少年は地下駐車場の一件を思い出した。
「グルテンダー伯爵の贈り物、どういう意味があったんでしょうね。謎かけみたいだったな……」
そういわれ、後部座席のプランタンは自分のバッグをごそごそとあさり、『月雨物語』を取り出す。ぱらぱらとページをめくっていたが、途中から熱心に読みはじめた。しばらくして、急に顔をあげる。
「オールシー。近くのコンビニで車をとめて。ちょっと咽喉が渇いたから、飲み物を買うわ」
「かしこまりました」
少年は角を右に曲がり、すぐ手前のコンビニの駐車場に公用車をとめる。運転中、最近いちばんの関心事、シャドウズの赤毛の少女のことばかり彼は考えていた。一台のスポーツセダンがずうっと後をつけていたことに、まったく気がつかない。
運転席のドアを開けようとする少年を王女は制した。
「ちょっと外の空気を吸いたいから、わたくしが買いにいきます。オールシーは缶コーヒーでいい」
「え。いいんですか」
「いいのいいの、イーノ・アッバーブ。いつもお世話になっているから、たまにはおごらせてもらうわ」
おごるといっても、缶コーヒー一本である。
「いや、そんな。そうとうご気分がうるわしいようで」
「そうよ。あぶないところをなんとか切り抜けたんですもの。それに、ラチエンスキー公爵こそが事件の黒幕だっていう証拠も手に入ったの」
「ほんとうですか!」
プランタンは右手にもった『月雨物語』を振ってみせる。
「伯爵のプレゼントよ」
「そのなかに証拠が?」
王女はにこりと笑う。バッグに本を入れた。ちょっと考えて、ポケットのなかでかさばっていた拡大鏡のケースもバッグに入れる。肩にかけて後部座席のドアを開けた。
「雑誌の立ち読みしてくるかもしれないわ。ゆっくりしていてね」
そういって、外に出る。
「了解です」
店の正面に歩いていく王女のうしろ姿を目で追い、少年はコミュニケーターを取り出した。ネットにアクセスし、赤毛のアイドルの画像を呼び出す。
(この子か。この子がパパゲーナなのか)
最近は、あの事件の日のことをよく思い出す。
手元の携帯端末に夢中になっているオールシーは、まったく気がつかなかった。駐車中のスポーツセダンから公爵がおり立ち、王女のあとを追うように、コンビニにむかったのだ。その手には「タケノコ」が握られている。
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