第16話
森のなかで七日すごせば、自力で里におりていくことになっている。それまで、軍当局との連絡はいっさい、禁止である。もし、七日を待たずして里におりたら、また日をあらためて訓練をやり直すことになるだろう。王女の警護における過密スケジュールを、なんとかやりくりして捻出した一週間である。再訓練の日程を調整するのに、いつまでかかるかわからない。
一週間絶食は論外だ。しかし、サバイバルナイフがあるし、釣り竿ももってきた。食べられる野草の知識、小動物をつかまえるかんたんな罠の作製知識もある。そもそもの訓練の趣旨が、「三日間の食糧で一週間」だから、不足はおりこみ済みなのだ。完全な自給自足は、訓練の趣旨を補完することとはいえ、反することではない。オールシーは腹をくくった。
「森のなかで魚や獣を獲ったり、山菜を採ったりして、やりすごそう。そうと決まれば、さっそくテントの周辺に罠を仕掛けた方がいいな」
人間は水がなければ脱水症状を起こし、二、三日で死ぬ。だが逆にいえば、水さえ飲んでいれば一週間や二週間、死ぬことはない。さいわい、簡易テントのそばには渓泉が湧き出ている。最初は用心し、鍋で煮たあと冷まして飲んでいたが、生水でもだいじょうぶそうである。
空腹の彼は体力の消耗を避けるため、テントにこもり、持参した本を読みはじめた。シリアスなスパイ小説より、ジョン・バカンやイアン・フレミングのような、波乱万丈のスパイファンタジーが好みである。「そんなわけないじゃん」「この展開、都合いいな」「お。伏線がばればれ」「主人公、モテすぎ」などと文句をいい、クスクス笑いながら読むのである。
ハリケーンランプの灯火のもと、わくわくしながらページをめくる――つもりだった。
ところが、ふたつの理由からその計画は挫折する。まず、スパイファンタジーにはどういうわけか、美食シーンが多発するのだ。
エリートスパイは潜入活動と称し、高級レストランやバーで美女といっしょに血のにじむようなステーキ、高価なワイン、気もちよく酔いが回りそうなリキュール、口当たりのよい、さっぱりしたデザートを賞味するのであった。読んでいるうちにオールシーの脳内は、食べものの妄念ではちきれそうになり、口には無駄に生唾が湧く。何かの心理的な拷問に自分から積極的に参加しているようである。
次に、読書に集中にするには森はうるさすぎるのである。昼も夜も、各方向からさまざまな動物、鳥、虫が何か意味不明の叫び、鳴き声を投げかけ合っていた。深夜、すぐそばを小動物が往復する足音にぎょっとし、飛び起きたことがある。一瞬、テントのなかに狐かイタチが侵入したと思ったのだ。横になっていた耳もとで、タタタッという足音がひびいたからである。もちろん、テント内に異状はない。
カナカナカナカナと飽きもせず熱心に羽をこすり合わせる蝉。小川のそばで求愛のコーラスを歌いあげる蛙。キエーキエーと樹間をこえて鳴き声が飛んでいくのは猿か? 峰から峰にむけて警告や脅迫を遠吠えで発信し合うのは退屈オオカミ。そのほか、「キュイキュイキュイヨー」「ケッコロケッコロプー」「ドンピックシュドドンピックシュ」「グラゲッバデレロイガ」など、謎の鳴き声、吠え声が四方八方から聞こえて、落ち着いて本を読むどころではない。森は騒音に満ちていた。
小動物を捕らえるための罠もうまく機能しない。針金や鋼材で組み立てる簡単なキットなのだが、かんじんの餌がないのだ。本来、持参した食糧の一部を餌に利用するのだが、オールシーにはその食糧がない。地面に転がっていたバッタの死骸を使ってみたが、狸も狐も兎も鳥も、完全に黙殺無視。
川にいって魚釣りもこころみた。地面に転がっていたコオロギの死骸を釣り針に刺し、竿をにぎったが、川魚は見むきもしない。
(いっそこの虫の死骸を、おれが食ってみるべきなのでは?)
その案を真剣に検討した。なかなか結論は出ない。
茸や山菜を採取し、油で炒めたりお湯で煮たりして食べた。さいわい、胡椒や塩、化学調味料は荷物のなかに入っていた。
霧のたちこめる五日目の朝、浅い眠りから目ざめた。深夜の騒音と空腹のせいだ。林間の空き地の湧き水で顔を洗う。頭がぼおっとしていた。両手で水をすくい、ごくごく咽喉を鳴らす。ひんやり冷たい清潔な泉水は、口当たりがよく、市販のペットボトルのミネラルウォーターよりうんとうまい。だが、空腹を満たすには腹もちが悪すぎる。
(うーん。なんとかして栄養価の高い食べものを手に入れなければ、下山する体力を確保できないぞ)
ふらふら、とぼとぼ簡易テントに戻る途中、彼は色あざやかな幻覚を見たと思った。
一〇歩ほど先の地面を、一五センチほどの体長の鳥が歩いているのだ。頭部から尾羽にかけて鮮明なブルーで、体側に黄色がかったオレンジが滲むように広がっていた。腹部は純白である。首を左右に振り、草むらに頭をつっこみ、何かを探している。おそらく、寝起きで動きのにぶい虫を朝食にしようとしているのだ。
ルリビタキという野鳥だが、オールシーには、きれいな色をした食い物にしか見えない。
「ピーピー」とも「チーチー」ともつかない高音で鳴き出した。あいまに「グゲゲ」「グゲ」と咽喉を鳴らす。
少年SSはそっと接近した。(体重が落ちて、だいぶ身体も軽くなっている。もう紙のような、空気のような重さしかないはずだ)と自己暗示をかけ、忍び足で近づく。
このとき、奇妙な連想が浮かんできた。
(餌の虫を探す鳥――その鳥を餌にしようと近づくぼく――そのぼくを餌にしようと……何かが……背後から……たとえば退屈グマとか……)
つい、立ちどまり、振り返ってしまった。朝もやが草原をただよっているだけだ。安心してふたたび獲物に集中しようとしたとき、ルリビタキはさっと飛び立った。
「あ……! 待て」
さいわい、近くの茂みに飛びこんだだけである。よろめきながら、オールシーは追う。
その茂みは、意外に草深い。太ももほどの高さのエノコログサが一面に生え、小さく可憐な白い花をつけた植物が群生していた。ところどころでブナや白樺がにょっきり立ちはだかり、枝の間から「チヨチヨビー」とか「チャー、チーヒャラヒャラヒャラ」とか、ひとをバカにしているような鳥の鳴き声が降ってくる。
草をかき分け進むうちに、「バカカーバカカー」「コノヤローシンジマエー」「ジゴクニオチロー」といった美しい高音の鳴き声まで耳に飛びこんできた。
(なんてユニークな鳥なんだ。まるで、人間のことばのように聞こえるぞ。九官鳥やオウムの仲間かな……)
意識にもやがかかり、冷静な判断力を失っているオールシーは、よろよろと足を踏み出し、地面が突然、消えていることに気づいた。
(え? あ……)
転倒した。
さいわい、高い崖ではない。一メートルほどの段差をすべり落ちたのだ。
そこはちょっとした窪地だ。中央に大きなハルニレが生えている。オールシーはその木の立派さにおどろいた。高さは三〇メートルほど。いたる方向に幹から枝を伸ばし、楕円形の葉をしげらせている。無数の枝には小鳥たちがびっしりと止っていた。ツグミ、ムシクイ、ヨシキリ、セッカ、エナガ、センニュウ、セキレイ……。ヒッチコックの映画のようだ。彼は鳥の種類も名前も知らない。ただ、数え切れないほどの小さな目とくちばしが、自分にいっせいに振りむけられ、ぎょっとしたのである。まるで、闖入者である自分をつまはじきするようだった。
次に驚いたのは、ハルニレの根もとに立っている少女に気づいたときである。
燃えるような赤毛を後頭部でしばり、ポニーテールにしていた。鬢のほつれ毛が風になびき、顔の周辺を炎のように縁取る。ニレの葉の形をした瞳は栗色で、驚いたようにオールシーを見つめている。小ぶりの鼻は何かのスイッチのようで、誰かが押すと急にしゃべりだすのかもしれない。頭髪が赤いせいで、頬の薔薇色は目立たなかった。唇はかすかにほころんだ薄紅色の花びらで、前歯が二本、にょっきり覗いていた。
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