2【明】サバイバル訓練
第15話
オールシー・ブライムは飢えている。
王国の北西のはずれは険峻な山岳地帯だ。原生林のすきまを縫うように、急流の河川が複雑な網目を縦横に広げている。彼はこの森のなかで、すでに五日間、過ごしていた。簡易テントのおかげで雨風はしのげ。だが、さしせまった問題をかかえていた。
空腹である。
サバイバル訓練を受けていたのだ。三日間の食糧を渡され、一週間、山にこもるというのが訓練の目的だ。高カロリービスケット、乾燥野菜、ドライフルーツ、チョコバー、パイナップルの缶詰、厚切りベーコン、チーズなどの常備食は、軍で「宇宙食」と呼ばれる。
なかでも、野戦食である高カロリービスケットは、退屈軍で名高かった。形状はチョコバーそっくりで、タンパク質、糖質に富んでいる。ただし、その味は泥に灰を混ぜたような……。だが、パッケージには「パイナップルフルーツ」「ココアミルク」「ポーク&ポテト」「ハーブチキン」「ブルーベリーヨーグルト」などとプリントされているのだ。さまざまな風味を主張するビスケットを口に入れ、兵士たちは顔をしかめながら、同時に首をかしげることになる。
(これはいったい、どういうユーモアのセンスなのか?)と。
好きなスパイ小説やミステリをもちこみ、テントのなかでごろごろしよう、休暇気分で訓練を終えようとオールシーは思っていた。一週間の山ごもりなんて、王女プランタンの相手をさせられているふだんの仕事にくらべれば楽勝であると。
しかし、キャンプ目的地に到着し、樹齢三〇年以上に見える大きなブナの樹の下にテントを設営し、背嚢を開け、所持品を確認したところ、オールシーは愕然とした。
用意したはずの食糧が消えている。
(なんだか、妙に荷物が軽いなーとは思ったけど、食糧がないなんて! まさか、官舎に置き忘れたか?)
記憶をたどったが、背嚢に入っているのをなんども確認した。ぜったいに、置き忘れることなんてない。
(そういえば……そうだ……あのとき、たしか……)
出発する前に、官舎の知人に声をかけられ、その部屋に呼ばれたのだ。
「ブライムくん、悪いんだけど頼みごとが。イギリス軍のクルセーダー作戦における、ロンメル将軍の失策について、教官にレポートを出さなくちゃいけなくて。ちょっと相談にのってくれるかな」
ふだんから、仲のよいやつではない。顔くらい知っている程度の同僚だった。そいつが妙になれなれしく語りかけ、猫なで声でたすけを求めたのだ。オールシーには悪感情がない。どんな感情をもつにも、そもそも接触がない相手である。気軽に「いいよ」と応対し、自分の部屋を出た。廊下を移動し、相手の部屋に誘導される。
そのとき、自室の鍵をかけなかったはずである。どうせ、すぐに戻ってくると考えたからだ。
思い起こせば、そいつの部屋に必要以上に引き止められたような気がする。
「え? マチルダって、ひとの名前じゃないの? 戦車の名前?」
「や。ロンメルってドイツ人? えー。ヒトラーが将軍となってイギリスと戦ったんじゃないのか?」
「対戦車砲と戦車が対決したら、戦車には勝ち目がないって?」
軍人なら常識の範囲のことをわざわざ質問し、オールシーを足止めした。その間に、何者かが彼の部屋に侵入し、背嚢のなかの食糧を取り出すことは可能だった。
それが、誰であれ、同じ官舎の同僚ということになる。
もちろん、証拠はない。推測にすぎない。
だが、オールシーは今まで、このような「いやがらせ」にちょくちょく遭遇してきたのである。逆に、思いも寄らない厚意や好待遇に接することもあった。だから自分のなかでは、いずれ冷遇と厚遇のバランスが取れるだろう、と楽観している。
それは彼のルックスのせいなのだ。ひとはまず、見た目で第一印象を判断する。仲がよくなり、話を交わすことができれば、外見を裏切る内面の印象を相手に与えることができるだろう。だが話す機会がなければ、こちらの外見から相手は勝手に印象を形成するだけだ。それが、オールシーの場合、最高の好印象になるか、最低の悪印象になるか、極端なのだ。
思春期のころ、ジュニアスクールで彼は異性の注目の的だった。メモや手紙、携帯端末メールで愛情告白されることは頻繁である。まったく知らない、赤の他人から一方的に好意を寄せられるのだ。かと思うと、理由もなく一方的にケンカをふっかけてくる少女もいた。からかったり、けなしたり、とにかく接触してくる。
最初はとまどった。どう対応していいのか、わからない。非常にプライベートな問題であり、誰かに相談することもできないと思った。「女難の星」のもとに生まれたものと観念していた。
その事実は周囲の洩れ知ることとなり、今度は、同性からの反発や嫉妬に苦しめられた。「ナンシーの気持ちをもてあそぶな!」「オリガに何しやがった!」「おれのソフィアを返せ!」などなど。一方的にいいがかりをつけられ、暴力沙汰になった。さいわい、相手の自尊心を傷つけない程度に反撃し、双方ケガなく、退却できる状態にもちこめるほど、オールシーの武術の心得は高水準だった。そのころすでに、要人警護のための特別な訓練を彼は受けていたからだ。父親が王宮省の役人であり、息子を後継者にしようと考えていたのである。
そのうち、どちらの側からのアプローチにも、超然とした態度を取れるように自分を訓練した。もちろん、この「超然」も、ひとによっては「け。お高くとまりやがって」とみなす姿勢である。しかし、そういう反感にも「さらに超然」と対処することで、ややこしい人間関係をやりすごした。その結果、思春期の彼には友人らしい友人はできなかったが。
こうした一連の体験から、オールシーはひとつの教訓を得た。
「男性でも女性でも、美しく生まれつくということは、トランプで配られた自分のカードにジョーカーが混ざっているようなもの、しかも、そのことが周囲には完全に知られているようなものだ」
問題はふたつ。ひとつは、どんなゲームをするのか。もうひとつは、ジョーカーをどう使うか。
実際のゲームとちがい、実人生では自分で自分のゲームを選べる。ジョーカーを最高のカードとして利用できるゲームもあれば、それにいつまでもこだわりつづけると自滅するゲームもある。配られたカードに文句はいえない。変更もきかない。与えられたカードで最高のゲームをするだけなのだ。
父親が急死した彼はハイスクールを中退し、王宮省に配属され、すぐに働き出した。頭の回転が速く、機転がきき、ルックスもよく、射撃も武術もそうとうの腕前であるということから、特に選抜され、王女プランタンの警護をすることになる。これが同僚の嫉妬を買っていることに、彼は気づいていた。
また、スパイ講座では外国語四つ以上が必修であり、たまたま選んだスウェーデン語の美人講師が妙になれなれしい態度をとることも。もっとも、最初はぼけっとし、気づかなかった。
「ブライムくん。顔色が悪いわよ。具合がよくないんでしょ。むこうにベッドがあるから、少し休んでいったらどうかしら?」
と講師にいわれたとき、(おかしなこというな。ひょっとしてリスニングを失敗しているのか? ぼくはまったく平気だけど)と内心つぶやき、「いえ。だいじょうぶですよ」とニコニコ、拒絶した。ふたりとも、授業中の会話はすべてスウェーデン語である。
しかし同じ台詞――「休んでいけ」を連発したり、無意味に手、手首、肘、肩をべたべた触ってきたりすれば、いくらぼんくらのオールシーでもその意図を想像するのに、ことばの壁は決して高くない。
あるとき、「具合が悪そうだから、脈をはかってあげる」といわれた。手首を握ってくるのかと身がまえていたら、床にひざまずき、足首を握ってきたので仰天である。
「足首には動脈があって、スウェーデンではみな、足首で脈を取るのよ」
さすがに
(うそだろう)
と見当がつく。
彼女は足首に触れたあと、しだいに手の位置をあげていく。内股に這わせはじめた。驚いたオールシーは反射的に脚を動かす。
「う」
美女の頭に膝げりがヒット。
「わわ。す、すみません!」
謝罪をくり返す彼に、相手の女はしばらく無言だった。それから、あまりなれなれしくしてこなくなり、少年は胸をなでおろす。
どうやら、この件も周囲に洩れ、同僚の反感を買っているらしい。脚のきれいな美人講師は、官舎で人気だったのである。
「……やられたか? 一週間、どうしよう……」
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