第25話

 ヒネモスの西、四〇キロほど離れたニドネ市には、退屈王国最大の水族館がある。年間来館者数、四〇万人。国外の観光客の来館も多い。なにしろこの水族館でしか見られない、退屈エイ、退屈ザメ、退屈タコといった固有の魚類が飼育されているのだ。だが、見物客の意見は賛否両論。「なごむ」「いやされる」という意見の反面、「死んだような目をしたサメが、ぐるぐる水槽を泳いでいるだけ」「うつろな表情のエイが、ただぷかぷか浮いているだけ」と手きびしい声もある。

 退屈国民に人気なのは、なんといってもクラゲである。

 天井とフロアをつなぐ十数本の円筒形の水槽に、白いクラゲがふわふわとただよう。水槽の周辺部の天井に設置された照明のため、光の柱が立ち並んでいるようである。その、太く垂直の輝くビームのなかに、半透明な白いクラゲが傘状の身体を開いたり閉じたりしながら浮いているのだ。退屈国民にはこの光景が、ひどく神秘的で幻想的に思えるのだった。家族づれも恋人どうしのカップルも、まばたきを忘れ、口を半開きにして水槽の前で立ちつくす。熱心なリピーターも生まれ、終日、水槽の前で呆然と立ちつくす男性、女性が散見された。

 浮遊するクラゲの光景は脳内の麻薬様物質の分泌と関連がある。こうしたリピーターは「クラゲ依存症」とでもいうべき精神病にかかっており、保護、治療の対象とすべきだ。ある心理学者は、そう主張した。

 実際、半開きの口の端からよだれを垂らし、うつろなまなざしでクラゲを見つめる数名の男女には、水族館も対応に苦慮していた。しかし危険薬物とちがい、奇怪な言動、暴力的行動につながることはない。光の柱の周辺をただうろつき、立ちつくすだけである。世間は彼(女)らのことを「クラゲ廃人」「クラゲゾンビ」と呼んだ。


 スゲン・サントソは夜間巡回中だった。今年で三四歳になる。数年前、飲酒運転が発覚し、前の仕事である警官を懲戒免職されたのだ。妻と三人の子どもを抱えたまま職を失い、途方に暮れた。だが不祥事の原因は自分自身にあり、弁解のしようがない。

 ところが、すでに定年退職し警備会社に勤めていた元上司が、苦境に同情し、再就職の便宜を図ってくれたのだった。収入は激減したが、なんとか親子五人が食べていけた。ただ今年から、長男は中学生である。何かと出費が必要になり、貯えを切り崩しながら対応している。この先、ふたりの子どものことを考えると、このままこの仕事をつづけていてだいじょうぶか、という不安に襲われる。

 働くのを辞めて、王国の潤沢な福祉行政にいっそ頼るべきだろうか。無収入の申告をし、生活保護手当を支給してもらった方が、いまの余裕のない生活より年収が増える。

 スゲン・サントソは溜め息をつく。深夜の水族館フロアで彼の足音だけがカツカツと反響する。

 仕事はアイデンティティとプライドを保障してくれる。なるほど、グータラして過ごすのも悪くない。世間体や外聞なんかクソ食らえ。また、それによって家族が貧窮の水面の上に顔を出し、息をつげるのなら、申し分ない。

 だが、彼の脳裡には、職場に出没し徘徊するクラゲ廃人が明滅するのである。あの連中はまちがいなく、生活保護を受給している。開館から閉館までほぼ毎日、クラゲを見つめて過ごしているのだ。まともな社会生活を送っているはずがない。彼らの収入源は、王国の潤沢な福祉予算にちがいない。こっちは低収入で青息吐息なのに、彼(女)らは働かず、自分たちのようにまっとうな労働者のサービス提供を享受しているのだ。不公平この上ない。歯を食いしばって働き、どんなに苦労しても、オレはあんなやつらの仲間に入らないぞ。

 そんなことを考えながら、午前二時ごろ、クラゲの水槽に近づいたせいだろうか。

 サントソはぎょっとし、立ちつくした。フロアを何気なく照らしていたハンドライトを高く掲げる。

 円柱の水槽のそばにひとかげが見える。中年の男だ。むこうもハンドライトをもっている。

(誰だ? こんな時間に客が残っているはずはない。それとも、閉館時に帰りそこねた廃人か? 夜間照明だけでは、水槽のなかは見えづらいだろうに……?)

 スゲン・サントソが近づくにつれ、男の顔がはっきりしてきた。ぼんやりした闇のなかから、ライトの照明が浮きあがらせたのは、サントソ本人の顔だ。ぼんやりした瞳、弛緩した表情、半開きの口……。全身は脱力し、まるで生きる屍のようだ。

 彼は声にならない悲鳴をあげた。

 その瞬間、相手の正体に気づいた。鏡である。

 誰かが、フロアに姿見を放置したのだ。

 クラゲの水槽のそばで鏡を利用したアトラクションがあったので、そのとき使用したものをしまい忘れたのにちがいあるまい。

 サントソの心臓は激しく鼓動する。背骨に沿って冷たい汗がたらりと流れる。まるで洞窟潜水で迷走した素もぐりダイバーがようやく水面に顔をだしたときのようだ。

(落ちつけ落ちつけ……。こんな時間に外部の人間が入りこんでいるはずがない)

 冷静さを取り戻そうと努力したせいで、発見が少し遅れた。だが、サントソもいずれは気づかぬわけにいかない。かたわらの水槽のようすが、ふだんとちがうのだ。

 円筒形の水槽にライトを慎重にむける。

 絶句した。

 クラゲたちは傘状の身体を開閉することをやめ、水槽の下部に群がり、かさなっているのだ。浮遊しようという意思がまったくない。というか、これは――

(まさか、死んでる……?)

 スゲン・サントソはあわてて、ほかの水槽にも光線をむけた。クラゲたちはみな、円筒の基部にかさなり、動きがない。腰の無線機に手をやり、本部を呼び出し、報告した。


 八月一二日、二時四分。ニドネ市の水族館マリンパーク・ヒラメ。水槽内のクラゲは全滅していた。

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