第8話

 扉が開き、エリカがワゴンを押して入室した。マイセンの紅茶ポット、カップとソーサー、焼き菓子がのっている。博士が扉に近づき、ノブの下の鍵穴に鍵を差しこみ、施錠した。

 助手のエリカが着席している招待客に紅茶を給仕しているあいだ、博士は部屋の奥に移動し、窓を閉めきった。半月錠をかける。部屋の温度は上昇するだろうが、参加者はみなクールテックを持参しているから、暑くはないだろう。それにしても博士はなぜ、部屋を密室にするのか、と招待客はいぶかしむ。扉を施錠した鍵を、博士は長机の上に置く。まるで「この鍵をみなさんの目の前に置いておきます」と、帽子のなかに仕掛けがないことを観客にあらためさせている手品師のようだった。

「本日はお忙しいところ、お集まりいただき感謝いたします」

 ラファロ博士が招待客にあいさつする。

「お集まりいただいた趣旨は、先日、メールでお知らせしたとおりです。ご存じでしょうが、わたくしの研究分野は神経生理学でして、人間の集中力を高めるクスリ――メザメールという化合物を開発中です。完成のあかつきには、保健福祉省の認可を得て市場で流通させようと考えています。そのため、保健行政に通じている元老院議員のラチエンスキー公爵、薬事法をご専門になさっている弁護士のニキタ・グラゼマ氏、大手薬品メーカー開発部部長のアロマ・カイゼム氏に声をおかけしました。参加をご快諾いただき、恐縮でございます。また、この研究開発については王女さまから予算や人脈の紹介など、格別のご高配をたまわっております。拝顔の栄に浴する機会がなかなかございませんので、この場を借りましてあつくお礼申しあげます。ほんとうにありがとうございます」

 プランタンはにこりと微笑し、博士の感謝を受け入れた。

「しかしまだ、目的のクスリは未完成なのでしょう?」

 弁護士のグラゼマが質問する。

 今回の会合でいちばんの年長者である。サギのようにやせた老人だ。顔のしみや皺のようすから七〇代に見えるが、まだまだ元気で衰えのようすが見えない。やわらかい印象のキートンのスーツに、落ち着いた藤色のタイ。冷静で、抑制的な口調である。

 退屈王国の国民は一般に年齢より若く見られがちだ。温暖な気候や、比較的治安の安定した平和な生活がひとびとの老化をさまたげているのだろう。

 博士はうなずく。

「そうです。しかし、開発途中で興味深い化合物が生まれました。これは、一般的には実験の失敗ですが、これまで多くの新発明、新商品は目的を達成しようとこころみ、失敗したところから生まれてきています。それは当初もくろんだアイディアとはまったく別の副産物なのですが、より斬新で革命的ですらあります。

『はがれやすい接着剤』は本来、失敗作でしたが、スリーエムという会社はこれを利用してポストイットという商品を開発しました。しかし、商品が製作され、ヒットするまで紆余曲折があったのです。ポストイットが生まれた要因にまず挙げられるのは、開発された『はがれやすい接着剤』を社内で公表した点です。本来なら、失敗は恥辱。ですが、開発首脳部はしくじりをあえて披露し、新しい発想をつのりました。およそ一年後、教会で讃美歌集にはさんだ栞をはらりと落とした社員から、商品アイディアがもたらされたそうです。

 わたしは同じことを今日、みなさんにお願いしようと考えています」

「つまり実験の失敗サンプルから、わたしたちに新商品のアイディアを考えてくれ、というわけですか」

 ふたたび、グラゼマが確認するようにたずねた。

「そして、この装置が集中力増強剤――メザメール?――の失敗化合物を散布しているのかしら?」

 机の上のタケノコを手のひらで示し、製薬会社開発部部長のカイゼムが念を押す。

 博士はふたりにうなずく。

「じゃ、閉ざされた室内にいるわたしたちは、そのクスリを胸いっぱい吸いこんでいるのですね。だいじょうぶでしょうか? 人体に悪影響はございませんか?」

 公爵が「ま、そうはいっても、実はおれ、気にしないが」と無頓着なようすで、質問した。

「あ、あのー、ぼぼぼくはなぜ招待されたのですか?」

 ミステリ作家のパウロが手を挙げ、質問する。

「それはしだいにお分かりいただけると存じます。なお、人体に悪影響はまったくございません。ご安心ください。では、ささやかな飲みものでございますが、冷めないうちにどうぞお召しあがりください」

 博士がすすめるので、みな手もとに視線をむけた。気がつくと、いつの間にか紅茶カップが出現しており、びっくりする。小皿の上には狐色のマドレーヌ。甘い香りを放っていた。何人かはカップをもちあげ、かおりを楽しみ、口をつける。そして再び、顔をあげ、驚愕した。


「あ。は、博士は?」

「や。さっきからそこに立っていたはずだが……」

「博士がいない。どこにいった?」

 ラファロ博士は扉の前に立ち、あいさつしていた。だがいま、そこには誰も立っていない。ほんの一瞬、全員の視線が離れたすきに、煙のように消え失せたのだ。

 みな、室内をきょろきょろと見回したが、見える範囲にその姿はない。

「盛りあがってきたわね」

 プランタンはオールシーにそっと目配せした。

「ミステリ作家のパウロを呼んだ理由、さっそく示してくれたわ。つまり、人間消失トリックを解いてみろ、というのでしょう?」

 オールシーはうんと声をひそめて応じる。

「……なぜ、パウロを? ミステリ作家なら他にもおおぜい、いるはずですが?」

 プランタンも少年の耳に口を近づけ、小声である。

「いちばんヒマだからじゃない」

「なるほど、きっと何人かに声をかけ、応じたのがパウロだけだったんですね」

「そうそう」

 ミステリ作家が咳払いした。

「き、聴こえていますよ。ししし集中力増強剤メザメール失敗作、すすす、すくなくとも聴力には悪影響がないようです」

 あわてた王女はそくざに切り返した。

「そ、その点を確認したかったのです。すると、このクスリはやはり視力にかかわるもののようですね」

(ほんと、頭の回転は速いよなー)とオールシーは感心する。

「ただ、さっとすばやく動いて、あのパーテションの陰に隠れているだけなんじゃないかしら」

 カイゼム部長がまっとうな意見を述べる。

「ホワイトボードのうしろにはいない」

 弁護士のグラゼマがチェックする。

「机の下にもぐりこんだとか……」

 元老院議員が椅子に座ったまま、机の下を覗きこむ。つられて何人かが同じ姿勢を取り、博士がかくれていないことを確認する。

「机の下にもぐりこむのは、タイミング的にむずかしかったのでは? やはり、わたしはパーテションの陰があやしいと思います」

 なるほど、そうかも、とみなが立ちあがり、動きはじめた矢先、

「あ! 窓の外にひとかげが……」

 と、助手のエリカが声をあげた。

 全員の視線がいっせいに窓にむく。だが、窓ガラスのむこうは澄んだ青空とヒネモスの街並みが見えるばかり。

「何か、ごらんになったのですか?」

 とオールシーがエリカに問いただす。

「はい。人間の姿をした影がさっと横切ったのです。でも、思いちがいかしら。鳥の影だったかもしれません」

 議員は「窓を開けて確認すべきか?」と独り言めいてつぶやいたが、その意見に同意する発言はなかった。窓は部屋の内側から錠がかけられている。不用意に開錠すべきではないと誰もが考えていた。

「おや? ここにもいない」

 パーテションの裏をのぞきこんだカイゼムが口にする。他のメンバーも席を立ち、彼女のあとにぞろぞろと従った。めいめい首を差し出し、のぞきこむ。

「ほんとだ」

「うーむ」

「これはふしぎ」

 そこにはデスクとPCやプリンターがあり、サイドテーブルの上に資料やファイルがのっているだけである。博士はこのスペースで論文執筆や業務上のメールのやり取りをしていたようだ。奥の壁にも窓があるが、やはり半月錠がおりている。

 弁護士のグラゼマ、開発部長のカイゼムがパーテションの奥の空間に入りこみ、椅子を引き出し、デスクの下の空間をあらためる。もちろん、何もない。サイドテーブルの下は成人男性が隠れるスペースが、そもそもない。

「こういう場合、ミステリ小説だとどんなトリックですか?」

 オールシーもパーテションの裏側を覗きながら、パウロに質問した。テーブルの脇に無造作に置かれたガラスの花瓶に目がいく。高さは一五センチ、幅は一〇センチほど。全体はあざやかな藤色で、大きなイヌサフランが浮き彫りされていた。エミール・ガレが好んでモチーフにした花だが、猛毒である。

「ミミミ、ミステリの場合、に人間消失だと、じじじ情報操作が多い」

「情報操作?」

 パウロによると、「目の前からひとが消えた」と驚く登場人物の錯覚や誤認について、地の文の記述を通して真相を読者に悟らせないようにしているのだという。アンフェアにならないよう、描写が工夫される結果、作者による情報操作という印象が生まれるわけだ。

「なるほど。しかし、この件では、それはどんなふうに当てはまるんでしょう」

「けけ見当もつかないね」

 ミステリ作家は首を傾ける。

「透明マントでも発明したんじゃないのかね?」

 弁護士が面白がるように、気軽に口にする。高齢のご老人の口から「透明マント」ということばが語られたことに、みなちょっとびっくりした。

「集中力増強剤の開発途中で透明マントが発明されることは、まずございません」

 カイゼムがあっさり否定する。

「そうそう。博士の専門は神経生理学だった……」

 全員、もとの長机の椅子に戻り、紅茶を味わいながら、のんびり議論しはじめた。

「人間ひとり、閉ざされた空間のなかから物理的に消失するはずがない。これはおそらく、なんらかの詐術のせいで、存在するはずの博士の姿がわれわれの目には見えなくなっているだけだろう」

 と弁護士のグラゼマ。まっとうな意見だと、みなうなずく。

「それこそが、このメザメール開発副産物の効用だというわけか……?」

 と元老院議員。

「しかし、いったいなんの役に立つ?」

「ぐぐ軍事利用、ス、スパイ活動……」

 パウロが応じる。

「犯罪?」

 ずうっと沈黙していた王女がぽつりと発言したので、みなが注目した。

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