第44話

 当日、自信満々のプランタンはオールシー・ブライムを運転手に、公用車で元老院議会にむかう。秘書のゾーナは突然、王妃(プランタンの母君)の公務に随行することが決定し、この日は不参加。アフリカの小国の外交使節と面談する予定の王妃ウィンターフェルは、娘の秘書を徴発したのである。ご自分の秘書がインフルエンザで倒れてしまったのだ。

 元老院議会正面玄関には、テレビ局の放送車、インタビュアー、取材カメラ、新聞記者など、マスコミ関係者が参集しているという事前の情報を得ていたので、プランタンの公用車は裏手に回る。そこに地下駐車場への入り口がある。こちらに網を張っている取材クルーは、さいわいいなかった。

 オールシーがハンドルを切り、車はゆるやかなスロープをくだる。コンクリートの柱の間を器用に迂回し、王族の専用駐車スペースにむかう。

 警護の少年は違和感を覚える。

(おかしい。この駐車場はふだん、もっと車の出入りがあるはずなんだが……)

 元老院議員はもとより、陳情のための各種団体、地方自治会の議員たち、修学旅行の観光バスや観光客たち、議会事務職員や警護の人間……さまざまなひとの動き、車両の移動が日常的に見られる場所である。運転する車が議会をぐるりと迂回する際、公聴会の一般傍聴席を求めて公道をうねうねと伸びるヒネモス市民の長い行列を目にしている。頭上ではマスコミのヘリコプターが四機、周辺を旋回し、俯瞰映像を撮影していた。ひとの動きや気配はじゅうぶんに存在するのだ。

 それなのに、この地下駐車場はどうしてこんなに、ひと気がないのか。

「あら。あそこに誰かいるわ」

 後部座席の王女が声をあげ、指をさす。その腕の動きをバックミラーで確認した警護の少年は、視線をめぐらせた。

 王族の専用駐車スペースのまんなかに、たしかにひとかげがある。最初はマスコミ関係者の待ち伏せか、と考えたが、どうもようすがちがう。ひとつのかげは背が高く、もうひとつは極端に背が低い。車が近づくにつれ、背が低いのは椅子に座っているからだとしだいに判然としてきた。車椅子なのだ。

「だれ? ひょっとして暗殺者かしら」

 わくわくした口調で王女がいう。

「危険な雰囲気はありませんね……。ひとりは車椅子の老人。もうひとりはたぶん、その介助の若い女性のようですよ」

 少年のいうとおりだった。王女の公用車に視線をむけ、その到着を静かに待ちかまえている。ハンドルを回し、ふたりのいるスペースに車を近づけた。

 車椅子の老人は高齢の男性である。八〇歳代後半だろうか。頭髪はなく、地下駐車場のにぶい照明がその頭に反射している。額や頬に老人班が散っていた。目の周辺の皺が特に深く、瞳が皺の奥に隠れている。大きな耳が頭の両脇から左右に広がって、どんなささいな音も聞き洩らすまいとしているようだ。きちんとしたスーツ姿で、ネクタイは濃い紫。暗いチョコレート色の革靴を履いている。

 その隣に立つ若い女性は一見、清楚なイメージだ。栗色のストレートの長い髪は艶がよく、こんなに暗めの照明なのに光沢がある。瞳は理知的で控えめな印象。鼻は小さく、口は大きい。全体に清潔でおとなしめな印象を、この口だけが裏切っていた。ふくよかな唇は両端が上につりあがり、挑発的な笑っているようなのだ。口紅の色はダークレッドで、決して派手ではないが、いまにもむずむずと口が動きだし、挑戦的な笑い声をあげそうである。

 そのかんじは、どこかプランタンに似ていた。王女は目、この女性は口が挑戦的なのだ。

 白いブラウスにパステルグリーンのカーディガンをはおり、膝丈の黒のスカートにモスグリーンのハイカットスニーカーを履いている。銀のイルカのペンダントを首にさげていた。肩から大きなバッグをかけている。二〇歳代のなかばだろうか。

 ふたりが待ち受けているすぐそばの駐車スペースに公用車を止める。エンジンをかけたまま、オールシーは運転席の窓を少し開けた。

「あの……何かご用ですか」

 車椅子の老人の両頬が深くえぐれた。笑ったのだ。

「王女さま、お久しぶりでございます」

 その声を聞き、プランタンの記憶がよみがえる。

「オールシー。このひとたちはだいじょうぶよ」

 そういって、後部座席のドアを開け、外に出た。警護の少年が止める間もない。

「まあ。伯爵……グルテンダー伯爵ではございませんか。お久しぶりでございます。お元気そうでなにより……」

 車から降り、近づきながらそういいかけて、プランタンはいぶかしがった。

(たしか伯爵と最後にお会いしたときは、もっとお歳を召していてこんなに若々しくなかったわ。あれはわたしがまだ、幼い子どものころだったはず。このおじいさんは、わたしが直接お会いした伯爵のご子息かしら……?)

 老人はうれしそうだ。

「ああ……。おぼえていてくださいましたか……。光栄至極でございます。あのころは王女さまもまだお小さくて、わたくしの膝の上でクッキー味のアイスを食べておりました。はははは」 

 この台詞を聞いて王女は

(やっぱり。まちがいない。このご老人は、わたしの知っている「あの」グルテンダー伯爵なのね。それにしても、どうしてこんなにお元気で若々しいの。あの当時すでに九〇歳をこえていたはずなのに……?)

 不信と疑惑を深めた。片手を差し出すと、老伯爵はその手を押し頂き、甲に唇を近づける。となりの女性は腰をかがめ、宮廷風にあいさつした。

「この子はわたしのひ孫です。王女さまのお近づきを得ようと連れてまいりました」

 プランタンに一歩近づき、床に片膝をつき、頭をさげた。

「グルテンダー伯爵家のオートムヌと申します。お会いできて光栄のいたりでございます」

 王女は鷹揚にうなずく。

「オートムヌさん、頭をあげてください。わたくしの方こそ、お会いできてうれしく思いますよ。どうか老伯爵をよろしく頼みます」

「はい。かしこまりました」

 一見、常識的な王族と貴族の娘どうしのあいさつなのだが、プランタンは何かそぐわない、不調和な印象を抱く。このふたりがグルテンダー家の人間だというのはまちがいないだろう。危険な暗殺者だったりテロリストだったりするわけではない。しかし、こんなひと気のない駐車場で自分を待ち伏せし、何をしようというのか。ただ久闊を叙すことだけが目的とは思えない。

 オールシー・ブライムも釈然としない面もちで、車のそばにひかえていた。まだエンジンを切っていない。

「や。こんな場所でお待ち申しあげて、さぞ、ご不審でしょうな。たまたま急に思いついて出かけてきたものですから。ご不快ならいくえにもお詫び申しあげます」

 老伯爵は車椅子の上で身を折る。

「実はですな、王女さまにぜひ、お贈りしたいものがございまして」

 オートムヌが肩のバッグから何か取り出す。四角く平たい物体である。車椅子の老人に手渡す。プランタンはまじまじとその物体に注目した。

 一冊の本である。

 かなり時代をかんじさせる、革表紙の装丁だ。

「わが国、近世の傑作のひとつ、『月雨物語』です」

「学生のころに読んだ記憶がございます。怪異譚の短編集でした。たしか、幽霊や妖怪、異形の者が登場する直前、月が出たり雨が降ったりするんですよね」

 老人の皺の奥で何かが光った。おそらく、目をあげ、王女の顔をよく見ようとしたのだ。

「ユアハイネスはよくご存じでいらっしゃる。いまどきの若いものは欧米の書物や映画にうつつを抜かしており、わが国の古典文学など見むきもしないというのに」

 同意を求めるように、となりに立つ「ひ孫」に顔をむけた。清楚な顔立ちのなかで、大きな口がぬらぬらと動きはじめる。

「大おじいさま。わたくしもようやく先日、読み終えたばかりでございます。

 たしか、冒頭に額縁物語があり、政治闘争に敗れ失脚した王族の末裔が登場するのです。彼は都を追放され、どこか遠くの山奥に幽閉されている。そこへ伝説的な『月の詩人』が訪れる。かつての太陽の末裔はいまや落ちぶれ、政権を掌握している月の貴族への呪詛をとなえ、聖職者でもある『月の詩人』に調伏される」

「そうだ。そのあとはこの国で起こる、奇怪で恐ろしい怪異現象のリストになっている。太陽のいっさい存在しない世界。月の夜と、ただ雨だけが支配する世界。異形の者たちが跳梁ちょうりょう跋扈ばっこする闇の世界の話だ」

 プランタンはふしぎそうに質問する。

「なぜ、この本をわたくしに?」

「いやいや。年寄りの気まぐれだと思ってください。もう、いつ死んでもおかしくない身の上でございます」

「貴重なものではございませんか。見たところずいぶん、古い本のようです。近世に出版された最初の版では?」

 表紙の革装丁は多くのひとの手づれでなめらかになり、光沢を放っている。王女が一枚目のページをめくってみると、デザイン化され装飾された古風な退屈アルファベットが目に飛びこんできた。

「お気に召さぬようでしたら、ネットオークションにでもご出品ください。では、おいとまいたします。久しぶりにお話でき、うれしゅうございました。公聴会の模様は自宅のテレビでゆっくり拝見いたします。どうぞ、おすこやかにお過ごしください、王女さま」

「伯爵こそ。今度また、ひさしぶりに城においでください。父も母もたいそう喜ぶことと存じます」

 ふたりは儀礼的なあいさつを交わし、別れた。口の大きな娘は車椅子を押し、プランタンとすれちがうとき、頭をさげた。ふしぎなことに、車椅子のホイールはいっさい、音を立てずに回転する。コンクリートの床との摩擦音もない。オートムヌ嬢はまるで空気の塊でも押しているかのように、軽々と車椅子を移動させた。

 地下駐車場を横切る車椅子の老人と介助人のうしろ姿を見送りながら、オールシーは疑問を口にする。

「いったい、いまのはなんだったんでしょうね」

 プランタンは『月雨物語』を警護の少年に押しつけた。

「グルテンダー伯爵は、わたしが小さいころからかわいがっていただいたサンタクロースのようなおじいさんだったわ。死期をかんじて、形見分けのためにわざわざ会いにきたのかしら……。この本、しまっておいて」

「かしこまりました。でも、形見分けという雰囲気ではありませんでしたね。まるで何かの警告か、注意を喚起するような雰囲気でした。そもそも死期をかんじるどころか、伯爵は今もお元気で、いろいろご活躍なさっているはずです」

「あら。すっかり楽隠居しているものとばかり思っていたけど」

「とんでもない。昔から作詞の才能がおありで、ブルース歌手にブルースの歌詞を提供したり、カントリーミュージックの歌詞を書いたり、ヒットソングが結構あって、芸能界の重鎮に数えられますよ。たしか、BTBという名義で作詞していたはず」

「BTB? どこかで聞いたような」

「最近もヒットしていますからね。エンザイ・ガールズの『再審請求』、たしかBTB――つまり、ブラックティンカーベル名義で作詞した作品です」

「ブラックティンカーベル。どういう意味なのかしら」

「さあ。特撮ヒーローものの『月光ライダー』も、たしかグルテンダー伯爵が原案を手がけたとか。月光委員会の幹部でもあったはず」

 月光委員会は元老院、護民院議員をはじめ、芸術家や大学教授、宗教家による保守派の組織である。一種のロビー活動をしており、その影響力は隠然と政界を支配しているという噂があった。

「いったい何歳なの、あのおじいさん?」

「年齢不詳ですよね……」

 ユアハイネスと同じで、とつづけかけ、すんでのところで少年は自制する。こころの動揺をかくすように、渡された本を後部座席の王女のバッグに押しこんだ。

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