第35話

「さて、オールシーが戻ってくるまで、被害者の情報を教えてください。警部」

 プランタンは現場指揮官にむきなおる。スメル警部は軽く咳払いし、手帳を取り出し、説明をはじめた。

「このマンションの管理人の証言によりますと、被害者――この部屋の居住者はブラント・ハスラー、四八歳。家族はおらず、独り暮らしです。家事代行業者に頼んで掃除や食事のサービスを提供してもらっていたらしい。

 書斎のファイルを調べた結果、人身売買のブラックマーケットの開催日時や官憲対策、バイヤーの名簿、移送ルート、買春客のリストなどが見つかりました。まちがいなく、ブラント・ハスラーは人身売買斡旋組織のプラットフォームの責任者です。組織は末端まで系統だっており、一種の巨大ビジネスとして利益をあげていたと思われます。会計報告や年次予算報告など、記録が残っています。驚いたのが、顧客リストで……」

 王女は黙って先をうながす。

「マスメディアで顔が知られているような文化人、大物俳優、マスコミ関係者、ベストセラー作家、芸術家、スポーツアスリート……その上、警察関係、司法関係者の名前まで複数あがっております。この情報がマスコミに洩れたら、世間は大騒ぎですよ」

「しかし、隠蔽したらもっと大騒ぎよ」

 自分の情報は都合よく検閲する王女がいう。

「……記者会見で言及します」

「さっさと切り出した方がいいでしょう。ぐずぐずしていたら、コネをつかってもみ消そうとするひとたちが出てきますから」

「はい。そうします……。それと、もっと驚くべきことが……」

「なになに」

「『商品』としてオークションに出展された被害者のリスト――ごく最近のものに、デキシトン・トットルマイヤーの名前がございます」

「えええ! ……て、ごめんなさい。その方、有名な方なの?」

 ついさっき話題になっていた「専門学校生誘拐事件」の被害者なのだが、名前まではおぼえていないのであった。

「八月のコンビニ誘拐事件の被害者ですよ。美術系の専門学校の男子学生です」

「……つまり、誘拐事件の被害者が、人身売買市場に……?」

「そうです。資料を精査し、他の被害者の名前が掲載されていないか、大至急、確認いたします。誘拐事件の被害者の行方が判明するかもしれません」

(無事なのかしら? ……ひどい目に遭っていなければいいけど)

 プランタンは心配したが、ひどい目に遭わないはずがない。トットルマイヤーがバイヤーに買われ、国内外の売春組織で仕事を強要されているなら、たびかさなる暴行、脅迫を受け、アルコール中毒、薬物中毒に陥っている可能性が大きかった。

「あ、忘れるところでした。シニザ教授殺害の犯行現場で、ユアハイネスが東の壁の一部をお示しになり、『ここに何かが飾ってあったはずだ』とご指摘になっておいででした。その後、ひとをやって家族の証言を取ったところ」

 だいぶ前の話である。プランタンはすっかり忘れていた。退屈王国国民の仕事にはこういうところがある。万事がスローペースなのだ。

「わかりましたか?」

「わかりました。南極調査隊のカレンダーだそうです」

「南極? シニザ教授と南極は、何か関係があるのでしょうか」

「数年前にいちど、ロシアの基地を訪問し、氷底湖の微生物の研究に従事したそうです。研究室の教え子が情報を提供してくれました」

「南極の氷の下には、湖があるの?」

「ええ。わたしも驚いたのですが、数万年前から数十万年前の生態環境が凍りついたまま保存されているとか」

「うーむ、それはつまり……」

 と王女は考えを述べる直前に、少年SSが「お遣い」から帰参した。

「警部。南極氷底湖の研究が大学の調査なのか、スポンサーのついた私的なものか、関係者の証言を取ってください。被害者の取引銀行を特定し、口座の出し入れをチェックしてくださいね。オールシー、はやかったわね」

「近所のコンビニに全部そろっていました。同じ品物を買い物した人物が最近いないか、店員に質問したら、昨日夜、二二時ごろ、若い女が同じような買い物をしたそうです」

「でかしたわ! まさかオールシーが役に立つとは……優秀な部下をもって感無量よ」

 「感無量」て、こんな場合に使うことばだろうか? ほめてるんだか、ばかにしているんだか、どうもわからない……と少年は内心、考える。

「その従業員にはあとで警察が正式な質問にくること、店内の監視カメラの映像の提供を求められるかもしれないので昨夜の分は保存しておくことを伝えました」

「ありがとう。ブライムくん、助かるよ」

「お役に立ってなによりです。……しかし、若い女の子とは……」

「ふっふっふ、当然ね。このトリックを成功させるためには、なるべく身軽な方がいいんだから。小柄で体重の軽い、敏捷な人物が容疑者というわけよ。ただし、女性なら大柄でもやせていればだいじょうぶかな……。自分の体重をある程度、支えられる筋肉が必要だし……」

 手にしたハサミでゴムホースを一五センチほど切断しながら、王女はいう。もう一本、一五センチほど切り取る。

 二本のゴムホースをロープにとおす。ロープの先端を吸盤フックにしっかり、結びつける。ぐいぐい引いて、ほどけないことを確認する。ハンドクリームを吸盤に塗りながら、

「オールシー、ちゃんと軍手をはいた方がいいわよ。けがしないようにね」

 と話しかける。

「はい。お気遣いありがとうございます。――て、このシチュエーションで軍手をはくって。実験台になってロープでおりるのは、ぼくですか!」

 王女は、きょとんとした表情で少年を見つめる。

「敏捷で身軽、とっさの判断力もある。勇敢で頭の回転がはやい。ひとの嫌がることをすすんでやる正義と義侠心を有する若者――オールシー・ブライムがやるべきでしょう?」

 スメル警部は、すまなそうにいう。

「年齢のせいで最近、どうも腰が痛くてねえ。体重も増えたのでロープを引っぱったら、すぐに吸盤がはがれちまうよ。妻子もあるしなあ。もう数年若かったら……」

(このひと、独身だったんじゃ……)

 警部に対する不信感を深めるオールシーである。

 額に汗を浮かべ、周囲に視線を走らせると、それまでやり取りに注目していた鑑識スタッフがいっせいに、視線をそらせた。

「わかりました。やります……」

 根が素直な少年は肩を落とし、コンビニの袋から軍手を取り出し、両手にはめた。

(ぼくの体重は六五キロ。耐荷重二一キロだから、かける体重が三分の一以下ならだいじょうぶだ。いや、ハンドクリームを塗ったことで、二一キロ以上の吸着力があるというわけか。いったい、何キロくらいまでだいじょうぶなんだ? ま、用心して両足を壁につけ、身体の重さを分散させなくては)

 プランタンは窓の外に手を伸ばした。すでに存在する白い円形の犯跡の、すぐ右側のガラスの土ぼこりをハンカチでていねいに拭き取る。そこに、ハンドクリームを塗りつけた吸盤フックを窓ガラスにぎゅうっと押しつける。ロープの貫通したゴムホースを手に、オールシーに差し出した。

「このホースの部分を握りながら降下するのよ」

「あ! 思い出した。たしかこれ、映画『007は二度死ぬ』で使われた降下方法ですよね。タイガー率いるニンジャ軍団が敵の地下秘密基地に侵攻するとき、ロープをつたっておりるんだ。撮影時にゴムホースを使ったって、特典映像のインタビューで制作スタッフがいっていました」

「そうそう。前にそのエピソードをわたしに、オールシーが教えてくれたのよ」

(そうだったそうだった。あれ、待てよ?)

 王女に007映画のトリビアを披露したころ、別の誰かにも同じ話をした記憶が、うっすらと残っているのだ。

(なんか、すごく若い女の子に同じ話をしたような気がする……誰だっけ……誰だったかな……)

 栞をはさまずに、数週間放置した小説の読みかけのページを探すようなものだ。まったく思い出せない。

(うーん……うーん……)

 悩んでいる少年の肩を外に押し出すように、プランタンが右手をそえた。根が素直なオールシーは、そのまま窓枠に足をかけ、窓の外に身をのり出す。真下に目をやると、歩道で近所の居住者らしき婦人が犬の散歩をさせていた。

 この周辺はマンション街である。赤ん坊を乳母車にのせた若い母親。友人たちと駆けてくる小学生たち。エコバッグに日常品を入れた買い物帰りの男子学生。生活感のある通行人が歩道を右往左往している。目の前にはプラタナスの街路樹。風がないせいか、手のひらのような大きな葉をぶらさげ、じっとしている。車道では、宅配便の車やタクシーがたまに通るだけのようだ。幹線道路からはずれた道なのだ。

 むかいの建物もマンションだ。ベランダの窓からオールシーを見つけ、目を丸くしている老婆がいた。見あげると、どんよりとくもった空がヒネモスに蓋をしていた。空気は湿り気を帯びているが、まだ雨は降らない。

「犯人は、飛び降りる前に、なるべくこの窓を閉めておいたのだろう。すきまが一〇センチ程度だった。ブライムくんも、同じようにしてみてくれ」

 と警部が要請する。

「やってみます」

 体勢を反転する。背中を道路側に、顔を窓側に。右足を窓枠にのせたまま、左手で窓の端をつかみ、慎重に閉じていった。左足は宙に浮いている。

(三分の一……三分の一……)

 覚悟を決めた彼が、いよいよ降下を開始する直前である。王女が思い出したように、つけ加えた。

「そうそう。天井装着荷重量は二一キロでも、壁装着時は五~六キロになるから。念のために教えておくわ」

「え? えええ? わ! わあああああ……!」

 すでに少年SSの身体は自由落下状態である。

(五~六キロって、三分の一じゃない! 十分の一じゃないかああぁぁぁ……)

 落ちる落ちる落ちる――と思って反射的にゴムホースをぎゅっと握ってしまう。だが、その瞬間に、「吸盤が剥がれる!」という恐怖に襲われ、手の力をゆるめてしまう。

(ど、どうすればいいんだ。わ! わわわ……ん? あれ?)

 靴底が何かに引っかかり、落下が止まっている。目をさげ、確認すると、四階の窓枠の上縁だ。壁から直角に五センチほど突き出ており、靴の先の方が都合よく、その上にのっかっている。オールシーは安堵の溜め息を洩らす。

(たすかったあ……。おそらく犯人もこうやって降りていったにちがいない。一階ずつ、この窓枠を利用して負荷重量をコントロールしたんだ)

 たとえ軍手をはめていても、ホースがなければロープとの摩擦熱のため手が痛み、反射的に強く握ってしまう。その結果、吸盤フックは体重に耐え切れず、窓から剥離するだろう。しかしホースを握っている限り、摩擦で手が痛むことがない。おかげで握りの微調整がよりゆるやかで、スムーズにできるのだった。

 見あげると、窓ガラスに顔を近づけた警部と王女が心配そうに見おろしている。目が合ったので、彼は片手をゴムホースから離し、サムアップした。解放されたホースが、するする落ちていくので、あわてて確保する。

(さ。コツはつかんだぞ。たいせつなのはタイミングと力の加減だ)

 ふたたび宙に身を躍らせる。

 足が三階の窓枠上部に近づいたら、ホースを握る両手をそっと絞る。落下速度が落ち、足が窓枠をとらえる。五階の窓ガラスの吸盤はフックによって引きさげられ、やや紡錘型に変形するが、剥離はしなかった。

「オールシー。その調子よ」

「さすが優秀なスパイ工作員だ。要人の身辺警護だけに使うのはもったいない」

 五階のふたりの発言など聞こえない彼は、順調に二階、一階と窓枠を足で踏んでいく。

(さあ、あとは地上に着地するだけだ! あ、う……?)

 一階の窓枠をクリアしたあと、足がなかなか地上に届かないのだ。下を見た少年SSは自分がまだ、かなり高いところにいることに気づく。

(地上一階だけは、ほかのフロアにくらべて天井が高いんだ。まずい、このスピードでは足の骨を折ってしまうぞ!)

 反射的に、両手のゴムホースをぎゅっと握ってしまう。五階の窓ガラスの吸盤フックが「すぽん」といい音をさせ、剥離した。オールシーの身体は一瞬とまり、直後に墜落する。

 しりもちをついて、転倒した。

 ちょうど通りかかった買い物帰りの女子大生が、天から降ってきたスーツ姿の美少年に仰天する。

「いてててて……」

 五階の窓が、ガラリと開き、プランタンは身をのり出し、地上で腰をさする少年に叫ぶ。

「実験成功よ、オールシー!」

 王女が指で示す窓ガラスには、双子のようにそっくりの、丸い乳液マークが残っていた。少年は五階にむかい、よわよわしく手を振る。落下のショックと痛みで、うまく笑顔をつくれない。

「だ、だいじょうぶですか。おけがは、ありませんか」

 顔を赤く染め、話しかけてくる女の子に「平気ですよ」と説得力のない応答を返すオールシー・ブライムの額を、誰かが濡れた指で軽く弾いたようだった。

地面に座ったままの彼は、周辺のアスファルトを見回す。黒く、大きめの丸い沁みが点、点と広がり、その数を増やしていく。女子大生は持参した雨傘を開く。

(とうとう降ってきたな……)

 五階の窓に雨粒が降り注ぎ、ハンドクリームの犯跡が形を崩す。みるみる溶けて流れていく。そのようすをオールシーは確認する。

 ふっと目の前が暗くなる。誰かが自分に傘をかぶせたのだ、と気づいた。

「濡れますよ。雨粒が大きいから」

 微笑する女の子の赤い髪を、彼はじっと見つめる。

(思い出した。赤毛の天使だ! ゴムホースの使い方、パパゲーナに話したんだ!)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る