第27話
次に、プランタンは東の壁に注目した。
五〇センチ×六〇センチほどの大きさで、壁の一部だけ色がかすかに濃いのである。
「ここに何か飾ってあったのね。絵画? カレンダー? いいえ、研究成果のデータをプリントアウトしたものかも」
振りむいた王女はぎょっとした。最初、玄関からこの書斎に入ってきたときには気づかなかったのだ。応接セットのテーブルの上に、見おぼえのある物体がのっている。それは高さ一五センチほどで、タケノコのような形をした装置だった。スイッチは切られている。
「警部」
「はい」
「まず、東のこの壁に何が飾ってあったのか、ご家族や関係者に質問してください。それから、応接セットのテーブルの上の小さなオブジェも、たぶん証拠品だと思います。ご家族の確認を取り、昨日以前に見かけたものでないとはっきりしたら、押収してください」
「かしこまりました」
「では、被害者の教授について、現段階でわかっていることを教えていただきたく存じます。関係者への聴取はまだでしょうから」
「ネットで調べられる程度のことですが……。被害者のジェローム・シニザ教授は五五歳。わが国の細菌学の権威で、最近ではWHOの特別機関の一員として、新型インフルエンザのパンデミックの研究に関与していたようです」
話を聞きながら、王女はいまだに東の壁面をじっと見つめていた。そこに、何かでこすったような、黒い痕跡があるのだ。プランタンは壁に近づき、じっと観察する。
(なにか……黒いゴムでグッとこすったような痕だわ……ふーん)
それから視線を下に落とし、少しずつ上にあげていき、今度は天井をにらみはじめた。王女の視線はそのまま天窓まで移動する。
(なるほど。この壁を歩いたのね。そのまま天井を倒立して歩き、天窓から出ていったわけか! ほんとに、なかなかやるわね、この犯人。『でかした!』と肩を叩いてあげたいくらいだわ。特に、クールテックのあの使い方! うっふっふ)
「……南米の奥地やアフリカコンゴ河上流域の未発見細菌の研究、その想定される世界的規模の感染拡大の経路の研究など……」
(まったくなんてことかしら。亡くなったシニザ教授には申し訳ないけど、なんだか何かのサプライズプレゼントをもらったような気分ね。今日一日、クールテックのあの斬新な使い方を思い出して、ニコニコできそう。おほほほ)
「SNSを覗いたかぎりでは、人柄は温厚で争いを好まなかったようで、研究上の敵や利害が敵対する人物、組織はすぐに見つからないでしょう。誰かに恨まれるような性格ではなかったと。ただ、海外出張や長期のフィールドワークがつづくため、研究費、旅費は不足がちだったようです」
「なるほど。
えっと、あなた」
と、王女は緑のクールテックの鑑識スタッフを呼んだ。
「はい。王女さま」
小柄な中年女性がかしこまって応じる。
「この壁の、この部分にも微量の証拠が残っているはずです。粘着ローラーで付着物を採取してください。そして、玄関の外の土を対照サンプルとして保存してください」
女性鑑識スタッフは頭をさげ、承諾した。そばで聞いていた警部とオールシーは同時に、同じ角度で首をかしげる。
「何をおっしゃっているのですか、王女さま」
「そんなところにどんな証拠が残されているというのですか」
長い溜め息をプランタンは吐いた。「まったくこのぼんくらどもは」といわんばかりである。
「あなたたちは、まだわからないのですか?」
「まだわからない……? 捜査は、はじまったばかりですよ」
「いまの段階でいったいどんなことがわかるというのですか」
警部も少年SSも、いぶかしげである。
「この密室の謎、解けました」
そういわれて、部屋中の人間が思考と作業を一時中断した。
「や。いくらなんでも、これだけの情報から不可能状況をさっそく解明するのはご無理なのでは……」
「ユアハイネスのご明察、つねづね尊崇申しあげておりますが、いささか勇み足ではございませんか……」
部屋にいた捜査官、鑑識スタッフの総意を警部とオールシー・ブライムが、困惑ぎみに代弁する。
「ふたりとも世迷言を。こんな謎、初歩です、初歩。二、三分あればじゅうぶんですよ」
傲然と、王女はいい放つ。驕慢なその瞳は興奮でキラキラと輝いた。
プランタンと初対面の警部は混乱し、疑惑を深める。オールシー・ブライムは「またはじまったか……」と、こころひそかに溜め息をつく。
「……では、僭越ながらお伺いします。まず、外部犯ですか、内部犯ですか。そして、犯行方法はいったいどのようなものでございますか」
警部が疑わしげに質問する。
「外部犯です。室内に落ちていた赤い毛髪がその点を示唆しています。
犯人は被害者を殺害後、この壁を歩いて天井に達し、そのまま倒立して天窓まで移動し、外に脱出したのです」
プランタンの主張が脳に浸透するまで、警部も少年SSもしばらく時間がかかった。
「……ユアハイネスの推理にまちがいなど……
額に汗を浮かべる警部は何を考えているのか、不自然なほど低姿勢である。
「なんなりと」
「その場合、天窓を屋上の外側から閉めることになります。いったい賊はどのような方法で窓をもちあげ、閉めたのでしょうか」
「警部」
王女は、一五ピースのパズルに頭を悩ませる幼稚園児をあたたかく見守る保育士のまなざしである。
「は」
「まだ、名前をうかがっていませんでしたね」
「ソーシュ・スメルと申します」
「スメル警部。天窓を閉める方法は正直、まだ確実に解明しておりません」
(そこはわからないんだ)と警部と少年SSは思う。
「しかし、おそらくこの方法だろうという腹案がございます。どうしても聞きたいですか」
「はい、まことに畏れ多いことでございますが……」
「では、どうぞこちらにおいでください」
王女は警部を、黒い擦過痕のある壁に招き寄せた。
なりゆき上、蚊帳の外におかれたオールシー・ブライムは心配していた。まちがった推理、とんちんかんな理屈のせいで警察の捜査が迷走したら、たいへんな混乱状態になる。正確でも不正確でも、王女の推理は初動捜査に強力なバイアスをかけてしまうのだ。
(壁を歩き、天井をさかさになって移動したなんて、王女さまは何をおっしゃっているんだ? 寝起きで頭の回転がおかしくなっているのでは? 警部が王室の権威をおもんぱかり、捜査人数を無駄な調査に振り分けたり、やらなくてもいい仕事に労力を浪費したりする事態は避けたい。こんなことマスコミに洩れたら、たいへんなスキャンダルだ)
だが、はらはらする少年SSをよそに、スメル警部は熱心に王女の話に耳を傾けていた。それどころか、「おお」「なるほど!」「なんと……」「そうか!」と理解と共感を示す合いの手を入れている。それは演技でなく、こころからの納得と賛嘆の念がかんじられるのであった。
「……というわけで、この場合の容疑者は……」
好奇心から、こころもちぴくぴく動くオールシーの耳にプランタンの声がとびこんできた。
(なに!? もう容疑者までわかるのか!)
数歩、壁にむかって歩きかけた。その気配を敏感に察し、王女はぴたりと口をつぐむ。「だるまさんがころんだ」のように少年は急停止。
「何をしているの、オールシー?」
王女が訊ねる。無邪気で素朴な顔つきである。ひと筋の邪念も存在しない。
「いえ。捜査の協力のために必要な情報をわたくしもちょうだいしたいな……と」
プランタンは悠然とほほえんだ。
「忠義な部下をもって、わたくし、本当にしあわせです。必要があれば声をかけますから、その場でそのまま待機してください」
そしてふたりは少年に背をむけ、まるで密談でもするように声をひそめたのである。オールシーは、あっけに取られた。ぼうぜんと立ちつくす少年の耳には、スメル警部と王女のひそひそ、くすくすという声だけがかすかに届く。
(なんだなんだ、なんなんだ。ぼくだけ仲間はずれ?)
そのとき、ふたりが急に振り返り、少年に顔をむけた。オールシーは、はっとした。しかし警部も王女もその後すぐ、ふたたび背をむけ、内緒話をつづける。ふたりの肩が震えている。くすくすという声が聞こえる。
(なんですか! ……王女さま、まことに畏れ多いことながら……ものすごく、かんじわるいんですが!)
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