【解答編】

第10話

 長机の招待客のあいだで、議論が沸騰している気配を察し、オールシーとエリカはパーテションの陰から戻ってきた。ちょうど、プランタンが目に見えない手榴弾を投擲したタイミングである。

「博士はいったいどこに?」

「まだこの部屋のなかですか?」

「やはり透明マント?」

「どどどどどどど?」

 公爵、部長、弁護士、ミステリ作家がいっせいに疑問を口にする。プランタンは「まあまあ」というように、両手で興奮をしずめ、立ちあがり、ホワイトボードの前に移動した。

「みなさん、そちら側に集まってください」

 王女の指示に従い、招待客四人とオールシー、エリカは長机の書棚側に集まる。

「さて」

 とプランタン。

 六人は神妙に、つづくことばを待った。

「さて」

 とプランタン。

 六人は、ちょっといらいらしてきた。

「さて」

 とプランタン。

「まことに畏れながら、王女さま、忙しいスケジュールを万障くり合わせて時間を捻出し、本日の会合に出席した方もいらっしゃることでしょう。なるべくテキパキと進行していただけると、王国の安泰につながるかと存じます」

 うやうやしくオールシーが助言する。

「はったりだよ。ユアハイネスは真相を解明してなどいない。博士の居場所などまったくご存知ないのだ。時間稼ぎのためにむだなことばをくり返しているだけ。これ以上、『さて』とおっしゃったら、わたしは帰ります」

 公爵が挑戦的に宣言した。プランタンは溜め息をつく。

「……残念ですわ。ほかの方々がまだ気のついていない真相に、いちはやくたどりついた喜びをみなさまと共有できないとは。時間稼ぎしているうちに、わたくしと同じように、博士の隠れている場所がどなたか、おわかりになるかと思ったのです。しかし、それはまったく、わたくしの買いかぶりでした」

 何人かの招待客は(けんか売ってんのか?)と、畏れ多くも××した(検閲済み)。

「真相はいたってかんたんで、いま、みなさまの目の前にございます。

 みなさんはマイクロサッカード現象をご存知でしょうか?」

 六人はたがいに顔を見合わせ、首をかしげ合う。

「……ご存知ないようですね。人間の感覚、知覚は恒常的な刺激に対していちいち反応しないように、無化してしまう性質があるのです。

 たとえば、服です。朝、起床して服を着るとき、わたくしたちはその生地の感触を皮膚にかんじ、ふんわりした軽い圧力を肩におぼえます。しかし、こうした感覚刺激はしばらくすると無化され、『服を着ている』という実感が消滅してしまいます。

 あるいは、靴です。わたくしたちは靴を履いていますが、どうですか、いま指摘されるまで、その事実を忘れていませんでしたか? 靴のなかで足の指をそっと動かしてみてください。足に触れている靴の内側の革布を通して、頭のなかに自分の足の輪郭線が明確に浮かんできませんでしたか。でも、そのことは、いま意識するまで無化され、感覚体験のなかから消されていたのです」

「わわわたしは、め、眼鏡をしていますが……鼻にかけたまま、顔を洗おうとしたことが……」

 パウロの台詞に何人か、思わず笑った。投げたボールを探してもって帰った子犬を見るように、プランタンはミステリ作家にほほえみかける。

「そうです。日常的に眼鏡をかけている方は、かけた瞬間、フレームの重さを耳や鼻が知覚しているのに、しばらくするとまったく意識しなくなります。恒常的な刺激を無化するように神経がはたらく――いえ、眠ってしまうのです。

 そもそも、身体がそうなのです。わたくしたちが自分の身体を意識するときは、その身体に何か不具合が生じたときですね。病気、けが、体調不良、老化……。あるいは、楽器の練習をするとき。またはスポーツで新しい技術に挑戦するとき。外国語の発音に舌がうまく動かないとき。こんなときは、自分の身体をありありと自覚するのですが、それ以外では……」

「この能書きはいつまでつづくんですか? 『さて』といわなくても、帰りますよ。まさか、ラファロ博士が身体感覚の無化を通して透明化を成功したというわけではないでしょう?」

 聴音テストで何度、ピアノの鍵盤で「ド」を押しても、「ラ」と答える子どもを見るような、あわれみに満ちたまなざしで王女は公爵に応じる。

「まさか。そんなことは申しておりません。

 この、恒常的な刺激に鈍感になるシステムは、刺激が無害な場合、非常に効率がよいのです。服を着ていること、靴を履いていること、眼鏡をかけていることをいちいち意識せずに、他の重要な作業に集中できるからです。

 しかし、視覚については別です。

 視覚は一挙に、大量の情報が押し寄せてくる感覚器官です。刺激に鈍感になったら、見えない場所――死角がたくさん生まれることになります。生死にかかわる事態が身に迫っても、危機の対象が見えなくなっているかもしれない。生体のサバイバルシステムとしては重大な欠陥となります。

 そこで、わたくしたちの眼球にはマイクロサッカード現象がプログラムされているのです」

「さっきも言及されていましたね、そのマイクロソフト……?」

「マイクロフト?」

「マイクロ・エッカード現象でしょ。発見者にちなんだ名前なのよ」

「カ、カカカクテルパーティ現象ならわかるんだけど」

「ああ。どんなに周囲がざわざわしていても、お金が落ちる音だけは耳に飛びこんでくるという、あれ?」

 招待客が勝手なことをしゃべり出し、座が紛糾した状況が収まるのを、プランタンは目を閉じてじっと待った。末法の世を嘆き、自暴自棄になって乱暴狼藉をくりひろげる下界の衆生を見捨てぬ釈迦如来のおもむきである。

「……みなさん、ご存知ないようですので、あらためてご説明申しあげます。

 マイクロサッカード現象とは、眼球の微細な運動です。わたくしたちは無意識に、左右の眼球をかすかに動かしているのです」

 プランタンは両手の人さし指を立て、両目の前でワイパーのように軽く左右に振った。

「これは、まばたき同様、まったく意識せずにおこなわれています。だから、一般に知覚され、意識にのぼることはないのですが、おかげで視野に死角が広がることをふせいでいる。視覚刺激が単調にならないよう、受容器官の眼球の方をつねに動揺させているわけです」

 この現象がほんとうに存在するかどうか、確認するのはかんたんです」

 ホワイトボードの下辺は銀色のレール状の受け皿になっている。その上に置かれているマーカーを王女は手にした。

「特定の一点をじっと見つめることで、視線は固定化し、眼球の微細動は停止します。つまり、凝視によってマイクロサッカード現象は消滅します」

 話しながら、ボードの任意の箇所に小さな黒い丸印をポツンと描く。そして、その印の周囲に、半径六〇センチ程度の円をフリーハンドで描いてみせた。











「中心の黒い印をじっと見つめてください。コンタクトレンズの方は申し訳ございません。まばたきができず、眼球表面が乾燥し、つらいかもしれませんが……。ゆっくり、一〇までかぞえてください。周囲の円のラインが消えていくはずです」

「……!」

 六人は驚嘆した。

 王女の説明がいい終わる前に、円のラインは消失してしまったのだ。プランタンが円を描き、視線を中心に戻してすぐに、ラインは消えていた。

「あ。みなさん、反応が早いですね。それには理由がございます。

 ラファロ博士が今日、わたくしたちに紹介したかったメザメールの失敗作こそ、マイクロサッカード現象を停止させる効果をもつ化合物だったからです。

 そんなクスリの影響を受けていなければ一般に、ラインはゆっくり、部分的に消えていきます。そのときに驚いて眼球を動かしてはいけません。じっとがまんし、中心の黒丸を見つづけます。そうすれば消失範囲がどんどん広がり、ラインを完全に消すことができます。

 コツがつかめれば、もっと複雑な図像でも、消えます」

 王女は円のそばに、かんたんなネコの絵をさらさら描いた。王国の基幹産業である天然ガス企業「ネコガス」のキャラクターだ。王女のいうとおり、黒丸を凝視することでそのネコの絵がすぐに消えることを、六人は確認した。

「信じられない……。つまり、わたしたちの目はいま、正常な状態ではない……ということか……?」

 弁護士があえいだ。

「集中力を増強する化合物をつくる過程で、マイクロサッカード現象を止める作用の化合物が生まれたのね」

 開発部部長が推測する。

(ミステリ小説では「見えない人」トリックがあり、あれは心理的なトリックだと思われているが、こんな生理学的な根拠が背景にあったのか……!)

 パウロがこころのなかでうめいた。

 プランタンは、開発部部長のカイゼムに同意する。

「そうでしょう。ラファロ博士はさきほど、ポストイットの発明経緯に言及していました。粘着性の化合物をいろいろつくっているうちに偶然、『はがれやすい接着剤』が生まれてしまった。あれは謎解きのヒントだったのです」

「わたしたちの視野はいま、穴だらけだというのか……。しかも、そのことに気づいていない? そんなばかな!」

 ラチエンスキー公爵が疑問を表明する。何度、「A」の発音を「エイ」と教えても、「ブー」「ダー」としか答えない子どもを辛抱強く見守るように、王女はほほえんだ。

「でも、さきほど服、靴、眼鏡の話をいたしました。指摘されるまで、ご自覚、ございました?」

「それはな……、たしかに王女のおっしゃるとおりだった。しかし、こんな状態では博士がどこにいるか、結局、わからないままだ。探し出そうにも、われわれはある意味、盲目なのだから」

「ううむ。公爵のご指摘のとおりだ」

 と弁護士。

「ユアハイネスには、なぜ博士の姿が視野に入ったのですか?」

 と開発部部長。ふたりとも、もとのぼけなすに戻っていた。

「かんたんしごくでございます。マイクロサッカード現象を意識的につくり出せばよいのです」

「さきほどのお話では、そのマイクロ……現象は無意識におこなわれるということだった。意識的につくり出すことが可能なのか?」

「お手本をしめします」

 そういって、プランタンはこきざみに首を左右に振ってみせた。六人全員がいっせいに、王女の動作のまねをする。部屋中の人間が、首振り人形のようになった。

「どうですか。視界が回復しましたか」

 六人はしかし、きょとんとした表情である。

「いや、あまり変化をかんじませんが……」

「わたしも特に……」

「妙ですね」

 プランタンは、もういちど首を振るよう、うながす。

「いいですか。もっと大げさに、激しく振ってください。そうでなければ錯覚から逃れられないのでしょう。これ、個人差も大きいと思いますが」

 いわれたとおり、みな頭を振り回す。ヘッドバンギング状態である。

 するとしだいに、何人か気づきはじめてきた。自分たちが見ていたのが、非常に狭い視野であり、ほとんどピンホールから外を覗いている状態だったのだと。ホワイトボードの前に立っている王女の姿も、「見えている」と思っていただけで、ただその声を聞いていただけだったのだ。周辺の視界が劇的に回復してきた。

「……うう!」

「なんてこと!」

「……むむ!」

 六人は腹の底から驚愕を出産する。

 ホワイトボードは縦一メートル、横二メートルほどの大きさだ。移動のための車輪のついたプラスチックの支柱二本が、ボードの縦辺両端から下に伸びており、下辺から床まで一メートルほどの空白がある。そのすきまに、六人は今度こそ見たのだ。グレイの麻のパンツに包まれた二本の脚を。

 ラファロ博士は、ホワイトボードのうしろに立っていた。

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