第40話 決意


 万条は、まだ、そのノートのページをめくっていた。


「どう?」


 小池さんは笑って万条に尋ねた。万条は、何か、小池さんに近いものを感じた。そしてこの道楽部活動記録ノートがいいものに思えた。


「なんていうか……とっても素敵なノートですね!」


「そう?」


 小池さんは、疑うようにしかし、嬉しそうな表情で言った。万条はその小池さんの表情を見た後に、さらに、ノートのページめくっていた。読み進めていくと、それから、小池さんは、その日に帰ってすぐにおかあさんと仲直りして、数日後、道楽部に入部して、学校も行くようになった、ということが書いてあった。

 一通り、読み終えた万条に気が付いて、小池さんは少しだけ恥ずかしがりながら言った。


「って感じよ。どう堀口と出会ったのかは。アタシ、そのノートにバカみたいに書いてるでしょ?堀口はあんまり書いてないのにねー。まぁ堀口もさ、普段はふざけてるけど、道楽部に来るまでは、引きこもりだったらしくてさ。それで、それを見かねた咲村先生が、アタシとあの変な道楽部、つまりはここに集めたのよ。まったく。お節介なのよ、先生は。まぁきっと咲村先生は、アタシたちに青春を無駄にしてほしくなかった、まだ間に合うと思ってたんじゃないかなぁって今は思うけどね」


「……」


 万条は、急に口を噤んでしまった。小池さんは万条がしゃべらなくなったのを見て、尋ねた。


「どうしたの?ユイちゃん」


「ワタシ……じ、実は……」


「ん?」


「実は……ワタシの家も不仲なんです……」


 万条は、気が付くと、ついそんなことを口にしてしまっていた。言うつもりはなかった。いままで、他人に言ったこともなかったし、言いたくもなかったはずなのに、小池さんの姿を見て、小池さんの話を聞いて、口が勝手に動いていた。小池さんになら言えると思ったのだった。万条は少し後悔し、固まったように体を動かさないでいた。

すると意外にも、小池さんは静かに、心配したように万条に続けて言った。


「あー。でも、そんな感じはしてた」


「え?」


 とっさに、小池さんの言葉に驚いた。

 小池さんはいつものサバサバした物言いではなく、真剣に、親身になって万条に言葉をかけていた。万条は、小池さんの目を見て言った。


「実は前から気になってはいたんだよねぇ。昼ご飯もいつも購買のパンだし、なにより……」


「なにより?」


「なにより、時々、寂しそうなときがあるんだよねユイちゃん」


 万条は自分で、それに気が付いていなかった。


「そ、そうですか……ワタシ周りの友達には誰にも言ってないんです。言いたくても、相談したくても、言えなかったんです……内容も内容ですし……でも、今はなんでか分からないですけど勝手に口が動いちゃって……」


「そっか……大変だったね……」


 小池さんは静かに言った。


「ユイちゃん寂しかったね……かわいそうに」


「……大丈夫ですよ……」


 万条は続けて勢いよく、自分に言い聞かせるように言った。


「……そう。大丈夫です!ワタシ!」


 万条は、いつものように元気に答えた。

 家庭でのことは確かに嫌なことはあった。しかし、それも受け入れていかないといけないとも思っていた。自分がそれを受け入れられなかったら、それはまた母と兄に迷惑はかけてしまうと思っていたし、自分にも良くないと思っていた。

小池さんは、万条のその姿を見て、少し、眉を下げて言った。


「ユイちゃん……」


「……はい」


「アタシはね。すっごい寂しかったよ」


 小池さんは、当時の記憶を思い出してのことなのか、それとも万条の健気な姿を見てのことなのか、寂しそうに言った。


「我慢しないでいいんだよ……」


 万条はその小池さんの言葉と姿を見て、急に体中が震えた。すると、今までの家での生活が勝手に蘇ってきた。


――離婚してから母が笑わなくなったこと。兄が自分と遊んでくれなくなったこと。帰った時の暗い部屋。机の上に置いてある置手紙とお金。


 万条の目からは、小池さんを見たまま、瞬きもせずに、目から頬を伝って、机の上に滴ったものがあった。小池さんは、黙って万条にハンカチを渡したが、ずっと、目から涙が止まらないで流れているにもかかわらず、万条は体が動かなかったため、受け取ることができなかった。


小池先輩は続けて万条の顔を見て言った。


「アタシ、ユイちゃんはすごいと思うよ。家が幸せとは言い難いのに、いつも可愛い笑顔で、人にも正直に接してさ。でもさ。あんまり無理しちゃダメよ。辛いことがあっても、それを見てくれる人が必要だと思うよ。アタシね。昔は色々悩んでたけど、その分、人に優しくできるようになったのよ。道楽部にはね、近くにいる人が悩んでるときに、ちょっとした何気ないことを言ってあげられるような……そんな人に来てほしいんだ」


 小池さんは今度は、ハンカチを渡さずに自分で持って、万条の目元を拭いてあげた。そのあと、無言で万条に近寄って、抱きしめてから、頭を撫でて言った。


「ユイちゃんは、えらいよ」


 万条の動かなかった体は、無意識に小池さんに抱き着いていた。そして小池さんの胸の中に顔を埋めて、泣きじゃらした。そして今まで誰にも言えなかったことを小池さんの胸の中で叫んだ。


「わだしさびしかったぁ!」


「うん」


「もっどあまえたがっだぁ!」


「うん」


「こいげさぁあん!」


「カワイイ顔がくしゃくしゃだぞ」


 小池さんは、優しく、ハンカチで出続ける涙を綺麗に、拭いきながら、返事をした。

 しばらくの間、万条は小池さんにしがみついていた。そして、少し落ち着いた後、万条は小池さんの顔を見た。小池さんの表情は優しかった。その表情を見て、万条はまた泣きたくなったが、それを堪えた。万条はいままで思っていたことを小池さんに打ち明ける決心をした。深呼吸をした後に、万条は、鼻をすすって言った。


「……グスン。ワタシ、じつは……新しいお父さんができるかもしれないんです……。でも誰も言えなくて……ずっとモヤモヤしてて」


「そっか……それはまた重いね……」


「どうすればいいか分からなくて……」


 小池さんはすぐに何かを言おうとはせず、考えてから言った。


「……アタシもわからないけどさ。思ってること言っちゃいなよ。アタシも昔、そうしたけどさ。衝突もするだろうけど、やっぱりそれが一番だと思うよ……ユイちゃんのためにもさ。我慢し過ぎない方がいいよ」


「思ってること……」


「そうだよ。一回、言ってみな……ね?」


「はい……」


 万条は、真摯に話を聞いてくれていた小池さんを見ていた。そして、また万条は小池さんに、自分のことを話したら、少し気が楽になった。万条は自分は幸せ者だと思った。周りにこんなに話をしっかり聞いてくれる人がいることが嬉しかった。そして、小池さんや堀口さんと一緒にいたいとも思った。


―― 一緒にいたい……?


 万条は、ふとそのときあることが分かった。そしてそれをそのまま小池さんに、言った。


「あとワタシ……ずっと、何か高校生になってからモヤモヤしてたんです。それは多分、家のこと……とも関係してると思うんですけど、いまわかりました。それが何だったのか」


「そうかそうか」


 万条は今まで悩んでいたことを弱弱しく言った。しかし同時に、万条は何かを決めたかのような顔つきだった。小池さんの話を聞いて、やりたいことが見つかった気がしたのだ。高校生活でやりたいこと。それは、


 一緒にいたいと思える人たちと何気なく、過ごすこと。そして何より笑顔で楽しいことをすること!


 だった。万条は、そう思いながら、それを言葉にした。


「小池さん。ワタシ、きっと小池さんと堀口さんを見て、羨ましいと思っていたのも、ずっと居場所が欲しかったんです。何もやりたいことも、やることがなくたって一緒にいたい人と、くだならないような日々を過ごすことが、嫌なことがあったとき、相談できるような、心から安心して笑っていられることがどんなにいいことだろうって」


「そうだねぇ。そりゃいいねぇ」


「ワタシには小池さんにとっての堀口さんみたいな人はいるのかな……」


「意外と近くにいるかもよ」


 万条は、小池さんの言葉を聞いたあとで、目を擦って、ニッコリ笑って言った。


「はい!」


「それに、みつかるよ。見つけたら速攻、アタックだ!ユイちゃん!」


 万条は笑った。もう万条の目には涙はなかった。万条の涙が乾いたとき、5限の予鈴のチャイムが聞こえてきた。このシュチュエーションは、もう三度目のことだった。2人は顔を合わせて笑った。2人は教室に戻るために、部室を出た。部室の鍵を閉めたときに、小池さんは、何かを思い出して言った。


「あ、そう言えば、話があるって言ってたけど、何?」


 万条自身も忘れていた。思わず、笑ってしまった。自分は道楽部に入部するもりがないという話をしようと思っていたことを思い出した、しかし、そんなことも今の万条にとっては、どうでもいいことだった。


「なんでもないです!なかったことにしてください!」


「そっかっ!」


 万条は教室へ向かった。

 万条は、今二つの問題を抱えていた。一つ目は家のこと。二つ目は大花のことだった。万条は、この二つの問題に立ち向かうことにした。万条は、まず、大花のことを考えた。

 しかし、そもそも大花に無理矢理、関わる理由は実際なかった。大花は心を開かずに、誰かと接することを避けていることは確かであって、なんの理由があって、万条がお節介をする必要があるのだろうか。

 万条は、そんなことは考えていなかった。万条はただ、大花と仲良くなりたい。そして、放っておけない何かがあった。そんな一心でお節介をするのであった。万条の頭の中では、小池さんに教えてもらった教訓「積極的に」が頭の中をぐるぐる回っていた。

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