第42話 終わりのはじまり
万条にはもう一つ悩んでいたことがあった。つまり、それは家のことだった。万条は、ある日、家に帰ると、そこには、母と兄の靴と一緒に知らない靴が並んでいた。母が、数日後に新しいお父さんになるかもしれない人を連れてくると、言っていたが、それはまた急なことだった。万条は玄関で深呼吸をして、靴を脱いだ。万条は緊張しながらも、リビングのドアを開けた。
「あら、ユイ。おかえり」
「ただいまー」
母は万条の帰りを待っていた。母の横には、京太郎もいたが、また知らない大人の男性がもうひとりいた。万条は、その姿を見て緊張してしまった。
「あ、そんなに緊張しないでね。僕は、これから仲良くしていきたいと思っているからさ」
万条のかたさに気を遣って、その大人の男性は言った。京太郎はその言葉を聞いて、嫌な顔をしていた。
「で、母さん。なんなの。知らない人をうちに連れてきてさ」
「ちょっと。京太郎そんな言い方しないの。」
「あはは、いいんですよユキさん。僕はまだ部外者でも、これから変えていけばいいんですから……」
京太郎はまた嫌な顔をした。万条は何もいうことなく、会話を聞いていた。
「紹介するわね。こちら、カズトシさんっていうの」
「こんにちは、ユイちゃん。京太郎君……僕はユキさんと、その……」
カズトシさんは、万条と京太郎の表情を見ながら、躊躇っていた。京太郎は、次第にイライラして貧乏ゆすりをし始めた。
「仲良くさせてもらっています。そして今日、ここにお邪魔したのもその……」
「つまりは、あんたが、父親になるかもしれないんだろ?」
京太郎は、なかなか言われないその先を言った。カズトシさんは京太郎の苛立った様子に困惑しながらも、ぎこちない敬語を交えて言った。
「そう……なんです。だからこれからは京太郎君やユイちゃんの力になれたらいい……と思ってい――」
「やめてくれよ」
京太郎は、我慢できずに遮って言った。
「そういうのやめてくれよ。そんなの、他人に言われたって、オレは受け入れられない」
「京太郎君……のいうこともわかる……けど僕は本気なんだ……君たちの教育費や生活費だって出すつもりだよ……覚悟はしている……」
京太郎は、舌打ちをした。京太郎は、カズトシさんのいうことが、確かに本当なら助かる面もあると思った。母や万条を少しでも楽にすることもそれで可能かもしれない……。
しかし、京太郎はまた怒りを感じていた。そんな都合のいいことを言って、京太郎や万条の気持ちをどこかに置き去りにしている気がしたのだった。それが京太郎は許せなかった。母といい、この男といい……。
京太郎は、堪えて切れずに、憤って言った。
「いい人づらするなよ。オレはあんたを好きになるつもりなんかない。だからオレにもっと嫌われるようなことしろよ!」
「ちょっと、京太郎!なんてことをいうの……お母さんは悲しいわ。あなたたちの暮らしももっと楽になるのよ……」
母は困った顔をしていた。京太郎はもうこの顔を見慣れていた。京太郎は、どんどん怒りが沸いてきて、それをぶつけ始めた。
「だいたい、なんでいつもこうなんだ!母さんはオレらの気持ちを考えたことあんのかよ!それに今頃になって……今さら何ができるっていうんだよこの人にっ!」
「京太郎君……落ち着いて!」
カズトシさんも、顔を俯かせてしまっていた。母はどうしていいか分からずただ、黙っていた。
「やめよう!」
万条は沈黙を破って言った。その声は、部屋中に届いた。
「言い争いとかやめようよ……」
母とカズトシさんは黙っていた。京太郎は、大きな声を出した万条に尋ねた。
「ユイは……どう思ってるんだよ?」
「ワタシは……お母さんが幸せならそれでいい……」
京太郎は万条がそう言ったあとに、嫌な顔をした。京太郎は母にいままでの不満を全部言おうとして、爆発していた。だから、万条のその言葉は、母にとって都合がいいものだった。しかし万条は、そのあとに続けて言った。
「……と、思ってた。でも、ワタシは正直に言って、嫌だ……。いままで、ワタシはお母さんに碌に甘えることもできませんでしたし、一緒にいることすらめったになかったし……」
「ユイ……」
「でも、一番いやなのは、みんなが笑っていないことなの。みんなが仲良くなれる可能性だってあるはずなのに……ワタシ……こんななら、もっと嫌!ワタシは……」
「でもユイ、みんなが仲良くなれることなんて、今さら……もうほんとうの父さんはいないんだ」
京太郎は、悲しそうだった。両親が離婚をしたのは、万条がまだ幼い頃だった。しかし京太郎は万条と3歳半年上だったので、当時の両親の記憶が残っていた。
両親が、幸せそうに仲良くしている姿。妹の万条が生まれて二人とも喜んでいた姿。しかし次第に、喧嘩が増えていき、2人の距離は離れて行ってしまった。その過程の全部を見ていた。だから、京太郎にとって、「仲良く」という言葉に、たしかにそうあって欲しいと思いながらも、疑いを持っていた。
万条は、京太郎の苦しそうな表情を見てから、優しく言った。
「たしかにそうかもしれない……でもおにいちゃん。ワタシは、それでも、みんなが幸せになれる選択を捨てたくはないよ……」
万条の言葉にカズトシさんは、しばらく黙って何かを思っていたような様子だった。そしてそのあと彼は、申し訳なさそうに、決心した様子になった。
「ごめんね、ユイちゃん……京太郎君……。僕、バカだったよ。ユキさん。こんなにいいお子さんたちに迷惑は掛けられないよ。少しことを急ぎ過ぎたんじゃないかな……。別にそんな急ぐことでもないと思うんだ……」
「カズトシさん……」
「あんた……」
「これから時間はあるでしょう。ユキさん、もう少しこの件は保留しましょう。ユイちゃん……京太郎君……いきなりごめんね……でも何かあったら僕は協力するよ。いつでも頼って欲しいんだ……この気持ちだけは分かってほしい」
そう言って、電話番号の書いてある名刺をそれぞれに渡された。2人は無言でそれを受け取った。京太郎はすぐにポケットにそれを入れた。カズトシさんはそれを見ていた。そして、万条の母の肩に手を置いて、言った。
「ユキさん。もう少しユイちゃんや京太郎君と、一緒にいてあげなよ」
「……うん」
母は、静かに頷いた。京太郎は万条の頭の上に手を置いて、無言で撫でた。
京太郎はそのまま、家を出て行った。その後、カズトシさんも帰り、母と二人きりになった。長い沈黙が続いた。さっきまであんな話をしていたせいか、2人とも何を話していいのか分からないでいたのだった。
しかし万条は、母の前に座った。そして、母の目を見て、言うのはいましかないと思った。
「お母さん……」
「……なに?」
「えっと……」
万条は少し躊躇った。先に言おうとしたことは、今まで言ったことはなかったし、言うつもりもなかったことだったからだ。
「ワタシ、家に帰って来て一人でいるのすごく嫌だった……」
「……ユイ……」
「それに、授業参観とか面談でいつも予定が合わないのも嫌だったし、お兄ちゃんが必死に勉強してた時だって、お母さんはいつもお兄ちゃんを見ないで他のことをやってた。お父さんと喧嘩して、離婚する時だって、急だったし、今回だっていきなり、知らない人連れてくるし、ワタシ、言いたいこといっぱいあったの。不満がいっぱいあったの」
「……ごめんねユイ……」
「でもねお母さん」
「え?」
「でも、不満だけじゃないのもたしかなの……これからも元気でいてね」
「ユ、ユイっ……」
母は、万条の顔を見て、泣き崩れた。娘がこんなにも立派に成長していたんだと、痛感した。小さい頃、万条はお兄ちゃんに頼ってばかりで、何もできないで、甘えん坊だと思っていたのに、こんな立派なことを言えるようになっていたことに母は感動した。そして、自分が、いままで万条や京太郎にやってあげてきたことの少なさを痛感して後悔した。
母は、喜びと後悔を抱いて、ただただ泣いていた。万条は、母の涙に少し悲しくなったが、眉を下げて微笑み、言った。
「まったく世話が焼けるなぁ、お母さんは」
家の問題は完全に解決することはできなかった。結局、家庭環境は変わることはない。しかし、万条は思ったことがあった。人生で生きていれば、嫌なことはある。落ち込むこともある。でもそれでいいのだと思った。それでもいいけど、そんな時に笑っていたいと思った。どんなに辛いことがあっても、そんな辛いことを吹き飛ばしてしまえるように、あとになって笑い話にできるように。そうなればいいと思ったのだった。
万条はまた思った。自分の言いたいことを言って、自分の一緒にいたい人と、楽しく笑顔で過ごすことことはとても難しいこともあるということを。
そして実際に、母に今まで思っていたことを言ったことは、万条にとって大きかった。
万条は、ある日の放課後、走っていた。元気に笑いながら、生き生きとし、ある場所へ向かって走っていた。ここ何日かで、万条は世界の見え方が変わっていた。それは万条自身が変わり、またそのきっかけを与えてくれた人たちがいたからだった。それは道楽部だった。
万条は、道楽部の部室を開けた。
「こんにちわー!」
そう言った瞬間に、パーンという音が、部室内を駆け巡った。
「え?」
「おっ!ユイちゃん!待ってたぞー!」
「万条ちゃん。是非来てくれたね」
万条は、驚いて目を瞑った。その音の正体は、クラッカーだった。クラッカーの中から飛び出た細長い紙きれが万条の頭の上に乗っかっていた。目を開けて、部屋の中を見ると、カラフルなとんがり帽子を被った小池さんと堀口さんがいた。2人は万条を歓迎して迎えてくれたのだった。
「入部おめでと!歓迎するよユイちゃん!」
「万条ちゃん。これからもよろしく」
「はいっ!」
万条は、元気にそう答えたあと、
「あっ!」
「どうしたのユイちゃん」
「実は今日、お2人に会わせたい人がいるんです!!」
「え?」
万条は、開いたままの部室のドアの後ろへ行った。そして再び、もうひとりを連れて、部室へ戻ってきた。
「こちらです!ワタシの友達のオーちゃん!」
「ユイ。その呼び方はやめてくれないかしら?」
万条は大花を紹介した。大花は、慣れない状況の中溜息をついてから、自らでも自己紹介した。
「大花ミカです。ユイとは同じクラスで――」
「おーー!よろしくね!オーちゃん!」
「オーちゃん。是非よろしく」
大花が先を言う前に、2人は、大花を歓迎した。大花は、はじめて来たこの部室に、居心地の良さを感じた。そのあとに、本棚を見た。そこには、堀口さんが読んでいた本が多く並べてあった。大花は、その前に行き、興味深そうに見て、言った。
「この部活、普段は、なにをやっているのですか?文芸部ですか?」
その質問に小池さんと堀口さんと万条は顔を合わせてニコリと笑った。万条は、大花に言った。
「オーちゃん、楽しいことをするんだよっ!」
それから、道楽部は4人になった。4人は色々なことをやった。
パフェ屋へ行ったり、山登りしたり、海へ行ったり、花火をしたり、クリスマスパーティーをしたり、そして道楽部の部室で何気ない日常を過ごしたりしたのだった。
万条にとってそれは忘れられない思い出となっていった。
時は、あっという間に過ぎていった。小池さんも堀口さんも無事、卒業することができた。卒業式。万条は、2人との別れにとても悲しくなり泣いてしまったが、小池さんに「道楽部をよろしく」と言われ、万条は涙を拭いた……。
そしてまた、新しい春がやって来たのだった。
――高校2年 始業式
生徒達は、体育館へ始業式のために向かい、体育館へ続く廊下に、蛇のように長く続く列を作っていた。その日、寝坊して、その列に入り損ねた万条は大急ぎでその列へ向かって走っていた。
すると万条の前方に、体育館の近くにある、風に乗って散りゆく大きな桜の木を立ち止まって見ていた男子生徒がいた。万条は進行方向にその男子生徒がいることが、分かり、思わず叫んだ。
「あっ!!!!危ないよぉ!!」
「ちょっ!?」
しかし時はすでに遅し。万条は走って、止まることはできずに、前にいた男子生徒と衝突してしまった。桜の花びらは満開に咲き乱れていた中で、お互いに体勢を崩して地面に転がった。
「っ!なんなんだ!?」
「ごめんね。怪我ない?」
万条は起き上がり男子生徒に手を差し伸べて言った。彼が顔を見上げてから、答えた。
「ああ、大丈夫だ」
そういって万条の手を借りて起き上がろうとしたが、男子生徒の足に痛みが走った。
「っ!?」
制服のズボンをめくると、膝に小さな擦り傷があった。
「ごめんね!すぐ保健室に行こ!君、名前は?」
「いいよ。これくらい」
「ダメだよ!ほらいいから!」
「……」
「で、君、名前は?」
男子生徒は答える気配もない。ただ、少しの間、黙り込み、こう考えていた。
――何故、知らない奴に名前を教えないといけないんだ。ノートに名前を書かれて殺されてしまうかもしれない。ここは偽名を使おう。
男子生徒は偽名を使うことにした。平然とした顔で彼は嘘をついた。
「山田耕作」
「そっか!なんか聞いたことあるような名前……そんなことよりも、保健室に……」
「いいよこれくらい……てか今、治ったわ。はい。てか急いでたんじゃないのか?それにもう始業式始まるだろ」
「あ!そうだった!じゃあ、悪いけど……ワタシ先に行くね!ごめんね!じゃあまたね山田君!」
万条は、急いで走った。そのあとで男子生徒は一言、呟いた。
「まぁ、またはないだろうけどな。名前も知らない元気な奴……」
新しくクラス。万条は抑えきれないドキドキと期待に反して、席に静かに座っていて、周りの生徒のみんなも、静かに、誰かが最初の何かのアクションを待っていたようだった。そんな緊張の中、結局は何も起こらずに、担任の先生が入って来た。
「は~い。入るぞ~」
そう軽く言って、その新しい学校の新しい担任の先生は、万条たちのクラスA組の教室に入って、黒板に字を書き始めた。
「咲村裕子です。えー、なんていうかこれから、お前らの担任になったので、よろしく」
生徒たちは、特に反応もなく、咲村先生が話すことを、聞いているのか、聞いていないのか、分からないけど、とにかく、先生の顔をじっと、睨めっこのように見ていた。先生の話を聞いていると、万条も進級したのだと、実感し始め、急に気持ちがそわそわしていた。
「……と、まぁ、そんな感じなので、学校生活を楽しむように――」
先生の話が終わって、先生は、高校2年A組の初出席を取り始めた。知っている名前や知らない名前が呼ばれていった。
「八橋」
「はい」
万条は、その名前にふと、反応した。その名前が呼ばれた生徒を見ると、そこには、今朝、体育館の桜の木の下の前でぶつかった男子生徒だった。万条は、その生徒を見て、その時やっと、山田耕作が偽名であることが分かった。万条は、それが分かり、自分は騙されたので少しだけ怒りを抱きながらも、同時に変わった人だなぁと興味を持ったのだった。
そんなとき、去年のことを思い出した。
大花と初めて話した時のこと。道楽部に誘われたこと。小池さんと堀口さんとパフェ屋に行ったこと。ミキと図書館で勉強したこと。大花と仲良くなったこと。母とちゃんと話したこと。多くの記憶が蘇ってきた。万条は、その「八橋」という名前を聞いて、なぜだかワクワクしていた。万条は小声で呟いた。
「積極的にいこう」
――現在。 道楽部の部室にて。
陽は暮れ始めていた。オレと立花と冨永と大花は、万条が部室から出るのを待っていた。しかし一向に、出てくる気配はない。
「おーい、万条。いつまでそれ見てるんだよ。みんな待ってるぞ」
オレは万条があまりにも遅いので、部室まで迎えに来た。
「あ、ハッチー」
万条は、さっき話していた、アルバムを見ていた。その表情はにこやかだった。おそらく万条は、そのアルバムからたくさんのことを思い出していたのだろう。オレには全然分からない過去のことを。万条はオレが来たことに気が付いた後で、オレの顔を見て、急に変なことを言った。
「なんでハッチーのこと勧誘したと思う?」
オレはその質問がよくわからなかった。
「何でクイズ形式なんだよ……だるいな……まぁでも確かに、どうしてオレのことを勧誘したのか、疑問には思っていたけどな」
「そっかっ!」
「え、答えは教えてくれないのかよ……」
「だってハッチーのせいなんだからねっ!」
「は?何言ってんの?そのアルバムで変なことでも思い出して混合してるんじゃないか?」
「うん!そうかも!」
万条は元気にそう言った。オレはいつもの万条の笑顔を見て、呆れながら言った。
「……相変わらず元気な奴だな……まったく」
そのあとに万条は、いたずらにボソッと小声で言った。
「ハッチーは全然覚えてないんだろうなぁ」
「え?何か言った?」
「なんでもないよっ!」
と、万条は子供のように嬉しそうに笑った。
「ていうか、みんな待ってるから早く行こうぜ」
「うんっ!いこっ!ハッチー!」
誰にでも過去がある。オレにだってある。良かったことから嫌だったことさまさまだろう。そんな過去が万条にもあったのだろう。そんな過去をオレは無理には詮索はしない。なぜならば、今の万条の姿を見れば、詮索する必要はこれっぽちも感じないからだ。
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