第37話 彷徨う子羊
「誰か、いるのー?」
万条はそう言って、部屋の奥へ進んだ。リビングの机のところで、お茶を飲んで座っている人がいた。
「おう、ユイ。久しぶり」
それは兄の京太郎だった。京太郎は、大学生になってから一人暮らしを始めていったため、家に帰ってくることはなかなかなかった。そんな京太郎が家にいたことが、万条は突然だったのでびっくりした。
「え、お兄ちゃん。帰ってたの?」
「まぁな」
「どうしたの急に?」
「どうしたのって……可愛い妹であるお前の顔を見に来たんだよ」
京太郎は、笑って言った。
「そっか……」
「てかさ、ユイ。お前太ったんじゃないか?」
「そんなことないよ!もう!」
京太郎はからかったように万条に言って、万条は顔をしかめて、頬を膨らませながら、京太郎を軽く、叩いた。
「ユイもお年頃だなぁ」
その後、二人はしばらくの間、黙りこくった。万条は、何気なしに、兄に言った
「あ、お兄ちゃん。ご飯作るよ」
「いや。大丈夫だ。もう帰るから」
「え?もう帰るの?久しぶりに帰ってきたのに」
「ああ、別に、ユイの様子を見に来ただけだから、長居する必要もないしな」
「そっか……」
また二人は沈黙した。静かな空間の中、二人のお茶を啜る音が響いた。
「じゃ、そろそろ行くわ。」
そう言って、京太郎はリビングを出ていき、玄関口まで行った。万条も、玄関まで、京太郎を見送りに、付いて行った。
「じゃあ、お兄ちゃん、気をつけてね」
「ああ、ユイもな。何かあったら、連絡しろよ」
「うん……」
京太郎はドアを開けた。ドアを開けた瞬間、京太郎は声を発した。
「あ」
「ん?どうしたの?おにいちゃん」
万条はドアの向こう側をのぞき込んでみた。そこに誰かが立っていた。その誰かは見慣れた人だった。
「母さん!?」
「京太郎じゃないの……」
そこにいたのは母だった。万条と京太郎は突然の母の帰宅に困惑と驚きを抱いた。
「母さん、帰って来てたのか?今日は帰り早いんだな」
「ええ……実は大事な話があるのよ」
「大事な話?」
「ええ。もちろん、ユイにも聞いて欲しいの。とりあえず、中へ入りましょう」
「え、ああ……」
京太郎は母の言う通り、再び部屋の中へ戻っていった。そして、三人はリビングン座った。京太郎がさっき飲んでいたお茶はもう冷えていた。
リビングに入るまで、三人は、一言も会話しなかった。母は終始、不安そうな顔をしていて、京太郎は、その母の姿を見て、何があったのか心配した面持ちであった。万条も、この突然の母と兄との再会に喜びを感じながらも、少し戸惑っていた。
――お母さんの話ってなんだろう……。
万条は、嫌な予感がしていた。京太郎も、同じことを感じていたらしく、座ってから、母の顔を見て、催促する様に聞いた。
「で、母さん。話って何?」
兄の質問に母は、まだ不安そうな顔をして、目線も合わせずに、小さく答えた。
「実はね……」
二人は、息を飲んで聞いた。
「私、好きな人ができちゃったの」
「え?」
二人は同時に、声を発した。万条の嫌な予感は当たっていた。万条はその言葉を聞いて、顔を俯かせた。
「それって……」
兄は、母から目線を逸らして、斜め下を見やり、いつになく動揺していた。
――好きな人ができた。ってことはお母さんに好きな人が出来たってことはつまり、その人と一緒になるかもしれない。だからワタシの……、
「新しいお父さん、できるかもしれないの。それで数日後、うちに来ることになったんだけど、その時に、あなたたちにも会ってほしいの……」
万条は、ずっと下を向いていた。隣に座っている京太郎を見た。京太郎の膝の上に作られた拳は、力いっぱい握られていた。
「ずるい」
「え?」
「母さんはずるい」
「京太郎?」
すると、京太郎は、勢いよく立ち上がって、母を見下ろして言った。
「ズルいよ!母さんはいつもそうだ!突然こんなこと言いだして、それに……」
「それに……?」
「それに……いつだってそんな不安そうな、困った顔してるんだよ!そんなんじゃ、子供は嫌だなんて言えないだろ!」
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
京太郎は、その母の表情を見て、また怒りを抱きながらも、自分を落ち着かせ、再び、その場に座り込んだ。
「オレはまだ一人暮らししてるからマシだけど、ユイだって、いるんだぞ。それ分かってるのかよ」
「ユイ……ユイは……どう思う?」
万条は、京太郎のいうことも理解できた。それに母に言いたいことはいっぱいあった。
――ワタシだって、もっとお母さんに甘えたかったけど、忙しそうな姿を見ては、いままで遠慮してたし、お母さんとの時間がもっと欲しかった。もし、新しいお父さんが来たら、また気を使うことになるし、甘えることはもっとできなくなる。だから嫌だ……。
しかし、実際に出た言葉は、思っていたことと全く異なるものだった。
「ワタシは、お母さんが幸せになれるなら……それでいいよ……」
京太郎はその万条の言葉を聞いて、母を見た。母は、固定されたように変わらず閉口した表情だった。それでも、京太郎は母が許せなくなってしまい、こう漏らした。
「子供を巻き込むなよ」
母は、顔を手で隠した。顔は見えなかったが、万条は、それを見て母がどんな顔をしているのか、おおよそ想像が付いた。
「じゃあ、オレはもう行くから。もっと早く帰ってればよかったよ」
京太郎は、そう台詞を吐き捨てて、玄関まで行き、家を出てしまった。
万条は母が泣き止むまで母の背中をさすってやった。
その夜、万条はよく眠れなかった。明日が試験であることも、寝る直前まで忘れていた。万条は、勉強しようとしたが、布団にくるまっていた。
万条は布団の中で、小さく、体を丸めた。万条の頭の中では、突然の母の知らせと、今日掃除当番で大花と会話したが、大花が心を開いてくれなかったことが入り混じっていた。
万条はそのまま鼻をすすって、眠ってしまった。
翌日。テストが始まった。今日の科目は、苦手な世界史がある日だ。しかし万条は、世界史の暗記事項ではなく、昨日の母の言葉を思い出していた。
――新しいお父さんができるかもしれない……。
万条は、複雑な気持ちだった。朝、目が覚めても、昨日のことは忘れていなかった。いっそ、朝起きたら嫌なことを忘れてしまうことができたなら、どんなに楽だろうか。
学校に着いてからもそのことが離れずにいた。学校に着いて、教室に入って、ふと、大花を見かけた。とっさに万条は、
「あっ!オーちゃん……」
と、話しかけるも、大花の反応はなく、空回りしていた。万条は、その大花の対応にも気を少し落とさざるを得なかった。昨日から、大花のことと家のことの2つのことが万条の中で問題化していて、試験の当日だというのにそのどちらもが解決されないままだった。
自分の空回りに気が付いて、教室の自分の席で、静かに、頬杖を付いて、校庭を見ながら、ボーっと座っていた。
「よっ!ユイ!ちゃんと勉強した!?」
すると、ミキが話しかけてきた。万条は、それに気が付くと、一回、顔を横に振り、今考えていることを今は忘れようとした。
「おはよー!ミキはやった?」
「まぁある程度ねぇ。ていうかユイ。今、ボーっとしてたけど、どうかしたの?世界史の教科書開かなくても大丈夫?」
と、笑いながらミキは言ってきた。
「え?」
「いや、さっき、ワタシが話しかける前、すごくボーっとしてたよ?」
「そ、そう?」
万条は、閉口した。いま、確かに万条は、ボーっとしていたが、それは昨日のことのせいであった。しかし大花のことはまだしも、自分の家庭の事情を、ミキに言って何になるのだろうか。加えて、今、ミキに言うことで、ミキのテストの邪魔になってしまうかもしれない……。
「ん?どうしたのユイ?」
「え?なんでもないよー。昨日、夜遅くまで起きてて、ちょっと眠くてさ……あはは……」
「……ふーん……まぁワタシも眠いよ~。でも試験終わったら、存分に寝れるぞ~?」
「ね!はやく試験終わらないかなぁ~」
ミキは、少し万条の様子に疑問を抱いた。今日の万条は元気であるけど、どこか上の空だった。試験なのに、教科書も開かずに、ただ、外を見ている。ミキはこの光景を何か、誰かに似ているような気がした。
ミキは大花の方を見た。大花は、テスト前にもかかわらず、頬杖をついて、窓の外を見ていた。
試験は始まった。試験が始まると、万条は、ミキと図書館で勉強した甲斐もあってか、壊滅的にできなかったこともなかった。が、同時に、試験の出来に手応えをかんじることもなかった。
そうして全ての試験はあっという間に終わった。試験というものは、試験までの時間は長いが、実際に試験が始まってしまったらその後はすぐに時間が過ぎているように感じてしまうものである。
試験最終日は、すぐにやって来た。試験最終科目の終わりの時間がどんどん近づいていた。試験終了まで、あと1分。時計の針の動く速度が、とても遅く感じられた。
「はい、やめ!解答を回収します。」
「終わったーーー!!」
「やったぁーー!」
「こら!お前ら!あまり騒がない!試験が終わったからと言って、節度を持って行動するように!」
試験は、そうして終了してしまった。最後の科目である英語が終わり、生徒たちは歓喜した。帰りのホームルームが終わったあと、周りの生徒たちは、試験後の開放感に浸り、次の休日に何をして遊ぼうとか、部活動の話をして盛り上がっていた。
万条もその中の一人だった。万条は、苦手なテスト勉強が終わって、ひとまず、安心した。しかし、万条は、急に不安になった。テストが終わって、安心したと同時に、考えなくてはいけないことが浮き彫りになってしまったのだった。
「ユイー!今日、パフェ屋行かないっーー!!甘いもの食いたくはないか!」
万条は、ミキの言葉が耳に入っていなかった。
「ユイ?聞いてる?」
「え?うん!聞いてるよ!全然、テストできなかったよー」
「ユイ……。全然、聞いてないじゃん……」
ミキは、呆れた顔をしてから、笑顔を作って、万条に体をくっつけて言った。
「どうしたんだ~?ユイ?もしかして、英語の最後の大問間違えたのかぁ~?あからさまなひっかけ問題だったよね~?」
「え!」
「え!ほんとうにひっかかったの?ま、まぁ、そんなことよりもユイ。パフェでも食べに行こうや!」
ミキは言ってはいけないことを言ってしまったと思い、都合よく、話題を変えた。
「うん!行こう!」
万条とミキは、一緒に教室を出ようとした。
「おい、万条。ちょっといいか。すぐに終わる」
すると、咲村先生が万条に話しかけてきた。万条は、ミキに、「先に校門で待ってて」と言い、咲村先生と話した。
「はい!なんですか?せんせ!」
「いい返事だな。で、要件なんだが……」
「はい、なんですか?」
「試験も終わったということで、保護者も交えた、次の三者面談のことなんだが……」
万条は、「保護者」という言葉を聞いて、動揺した。からだは小刻みに震えはじめた。
「どうした?万条?」
「せんせい……」
「なんだ?」
万条は、咲村先生に、家のことを言おうと思った。
「あの……」
「ん?」
しかし、いざ、言おうとしてみるとその先は、なかなか言えないものだった。
「いや、なんでもないです!母と話し合ってから日程を決めてもらいます!」
その様子を見て、咲村先生は怪訝な顔をして言った。
「そうか……。それにしても、あの道楽部はどうだった?」
「あ、はい。先輩たちは面白くて、楽しいです。でも……」
「入部までは決心がつかない……ってことか?」
「はい……とても楽しいんですけど……」
「じゃあ、なぜだ?」
「その……あそこは小池さんと堀口さんの場所というか……」
「う~ん……そうだろうか……」
「はい……。ワタシが小池さんや堀口さんの居場所をお邪魔しちゃう気がして……それに今は……」
「今は……何だ?なにかあったのか?言ってみろ」
万条は、咲村先生に、家のことを言おうとした。しかし、自分から言うことは憚られた。万条はついに、思った言葉を飲み込んでしまい、他の言葉を発した。
「いえ……また今度言います」
万条の言うことを、咲村先生は真面目な顔して、聞いていた。そして、そのあとに笑って、万条の頭をポンっと撫で始めた。
「まぁ、万条。そのうちにもう一回道楽部に行ってみろ。入部しないにせよ、その旨を一言、挨拶でもして、言ってこい」
「はい……」
「大丈夫だ、万条。お前は強い。じゃあ、私は行くぞ」
咲村先生はそう言って、その場から去って行った。万条は、しばらくの間、その場に佇んでいたが、ミキが校門で待っていることを思い出して、急いで、校門まで駆けていった。
「ごめんねー!ミキ!」
「あー、ユイー。遅いよー」
「ごめん、ごめん」
「じゃあ、行こっか!」
「うん!」
パフェ屋に行く途中で、万条はやっぱり、家のことを考えていた。そしてさらにさっき咲村先生に言われた、三者面談のことも考えていた。家のこととなると、自分一人で解決できないので、それに歯がゆさを感じていた。その万条の悩ましい様子は、ミキにも鮮明にわかるほどで、ミキが話しかけても、万条の返す答えは「うん」だけだった。ミキは、万条のこの様子を見かねて、歩きながら、言った。
「ねぇ、ユイ」
「うん」
「最近、様子おかしくない?」
「うん」
「あなたの名前は?」
「うん」
「ちょっとユイ~!!!」
ミキは万条の体を揺すった。万条は、すると、我に帰って、驚いた。
「わっ!ミキ!どうしたの?」
「こりゃ、重症だわ……ユイ、最近、様子がおかしいよ?」
「え?そう?」
「うん。どう見ても、おかしいよ。どうしたの?」
「その……」
万条は反応できなかった。家のことをミキに言ってもミキに心配をかけてしまうだけかもしれないし、言っても暗い話になってしまいそうであったからだ。万条は、その先を何も言えずにいた。そのどっちつかずな態度にミキは何かを悟ったのか、急に大きな声で言った。
「あ、わかった!もしかして……好きな人でもできた?」
「へっ?」
万条は顔を赤らめた。しかしミキの答えはかなり見当違いだった。それを釈明しようと万条は否定した。
「違うよミキ!ワタシは……」
「あれ~怪しいな~これは」
「ほんとに違うよ!」
万条とミキはパフェ屋に着いた。万条は以前、小池さんと堀口さんと来ていたことは言っていなかった。ミキは、パフェ屋の前に着くと、すごくテンションが上がり始めた。ミキは店頭にあるメニューを見始めて、どれにしようかと迷い始めた。
「みてー!ユイ!どれにするー?」
「そうだなぁ……」
万条はメニューを見ないで、ぼんやりとどこを見るでもなく、ボーっとしていた。店内に入って、ミキは既に、注文するものが決まっていたらしく、店員さんがやって来てからすぐに頼んだ。
「スペシャルミラクルプリティイチゴパフェひとつ!ユイは?」
「えーっと。ワタシはチョコバナナパフェ」
「かしこまりました。では、ごゆっくりどうぞ」
店員さんはそう言ってその場から、去っていった。ミキは、万条に、いきなり尋ねた。
「ねぇ、ユイ。で、誰が好きなの?」
ミキは完全に、万条に好きな人ができたものだと思っていた。万条は、それを否定はしたものの、ミキは聞き入れようとはしていなかった。
もし仮に、万条がはっきりとここで、「好きな人ができたんじゃなくて、家での環境に変化があって、新しいお父さんができるかもしれない」と言えば、ミキは驚くだろう。驚くというのは、その家庭の環境の変化その事象自体に驚くということもあるが、また、元気で、人当たりの良い万条が、そんな家庭だったという事実にもまた驚くだろう。
万条は、正直に言ってしまいたい気持ちもあった。洗いざらいをすべてぶちまけてしまいたいという思いがあった。しかし、万条にはそれができずにいた。
ミキは完全に、万条に好きな人ができたから、最近、ボーっとしているものだと思っている。そっちのほうが、断然に、会話の内容は、女子高生らしく和やかだった。
万条はこういうことを、言語化して頭で思考することはなかったが、なんとなく分かっていた。だから万条は、どうすることもできなかった。
「あはは……好きな人はほんとうにいないよー」
「えー、教えてくれないのかぁー。もしワタシに言う気になったら教えてよ?サポートするからさー!」
「ありがとうミキ……」
万条は、少し虚しくそう言った。決してミキが悪いのではないことはわかっていた。これは万条の問題であったし、巻き込んでもしょうがないのだ。ミキが、万条が何に悩んでいたかを分からなくてもそれはしょうがないことである。ただ、万条は自分に虚しさを抱いていた。
――ワタシが、本当に相談できる人っていないのかも……。
万条の頭の中に、ふと小池さんと堀口さんの顔が浮かんだ。
――あの2人は、お互いに色々なことを相談し合えることができているのかな。もし、そうなら、ワタシもそんな……。
そんなときに、なぜだか、さらにあるもう一人の顔が思い浮かんだ。
「で、ユイさー。あのこの前のアレ見たー?」
「え?なになに?」
「あのアレだよー。この間、見た雑誌に載ってたんだけど――」
そのあと、万条とミキは他愛もない会話をして、パフェを食べていた。
万条たちはパフェを食べ終わってから、それぞれ別れた。ミキは相変わらず勘違いしたままだった。
ミキと別れて、万条は誰もいない家にとぼとぼと歩いて帰った。帰り道は、暗く、街灯がなければ迷ってしまいそうだった。
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