STORY5 々(ノマ)(8/8)
「それは、たまたまだね。僕の苗字は関係ない」
「呼び名があるって……あくまでも記号なのね」
「そう。で、作家っていうのは、そのノマみたいな存在だと思うんだ。いろんな音(おん)……つまり、いろんな表現で何かの意味を創る。『人々』みたいに複数形を作ったり、『佐々木』や『代々木』みたいに前の音を反復して次の文字に繋げたり。ノマの役割はさりげないけど、すごく大きいよ」
かみ砕いた説明を素直に飲み込んでみた。
いまひとつピンと来ないものの、作家が何かの意味を見出すための媒介役で、その何かが、社会や人生だと、わたしは考えてみる。
人はみんなそれぞれのボートに乗っていて、池や川や海が社会であり、人生だとすると、きっと、作家はそのボートのオールの役割を持つ。
「『知ったかぶりゴッド』の読者ハガキで、『小説を読んで、命の価値が分かりました』ってのがあっただろ?」
声色を高めて、野間口さんはまた力強く漕いだ。
10代の読者の声だった。ハガキにはリストカットした経験や離婚した両親のことが細かい文字でびっしり書かれていた。
「……まぁ、ミスター砂田のこととか、執筆に影響するいろんなことがあるだろうけど、焦らなくていいと思うよ。佐々木さんが焦るべきは結婚かな」
一言余計なパートナーに、「わたしの結婚より、あなたの再婚はどうなの?」と無言の抵抗で目線を上げると、進行方向にピンクのスワンボートが見えた。野間口さんがその位置を目視して、接近し過ぎないようスピードを調整する。
スワンには子供がふたりだけで乗っていた。
小学校の高学年と低学年の体格差で、おそらく兄弟だろう。色違いのダウンジャケットを着ている。
「やめろよ。邪魔だ!」
「替わってよぉ!」
にわかに争いの声が響いた。
座席を奪おうとする弟。ハンドルを体で覆い隠す兄。
「やらせてよ。ずるいぞ!」
「どけよ!座ってろ」
斜め横、5メートルほど先で諍いが続いた。狭いボートの中で弟が兄にタックルを繰り返す。
「あいつら、危ねえなぁ…」
野間口さんが口元を歪め、わたしは彼らの保護者が別のボートや近くの岸にいないか、周囲を見回した。
「大丈夫かしら……」
「ちょっと注意しよっか」
野間口さんが舟首の角度を変えた、そのときーー太く鈍い音が走った。
「あっ!」
小さな黒い頭が浮き沈み、ダウンジャケットの2本の腕がパシャンパシャンと水面を叩いている。そばにいた数羽のカモがいっせいに飛び立ち、「うわぁ」という叫び声が響く。血の気が引き、わたしは描写の文字を失い、有り得ない光景に固まった。
わたしたちのボート側の子が半身(はんみ)で乗り出し、溺れた子を掴もうとしたが、バランスを崩した乗り物はいたずらにふたりの距離を引き離した。
「動くな!」
野間口さんが大声を発し、ジャンパーを脱ぐ。
そして、瞬く間に池の中へ飛び込んだ。
ボートが反動でぐらりと揺れ、わたしは木製の縁を両手で握りしめる。
野間口さんはクロールで近づき、あっという間に男の子を抱きかかえた。
1分にも満たない出来事。映画のシーンさながらの現実離れした光景だった。
救い上げた子を立ち泳ぎでスワンボートまで運ぶと、野間口さんは肩甲骨から下を水に浸したまま子供たちに語りかけ、スワンの首を発着場の方に向けた。
ずぶ濡れになった弟が泣きじゃくり、その傍らで、兄が呆然とハンドルを握っている。
「お前ら、ちゃんと付いて来いよぉ!」
わたしのもとに戻った野間口さんが振り返って言い、スワンボートを先導するかたちで、オールの運動を再開させた。
口が渇いて、声が出ない。
「……ったく、人騒がせだよな」
びしょびしょのまま、舌をペロッと出して苦笑いする。
濃紺に染まったジーンズの腿と脛に黒々とした藻が貼り付き、大量の水が雨漏りみたいに舟底に滴り落ちていく。
絶対に離れまいと、スワンはわたしたちのボートにぴったり付いて進んだ。
鼓動がようやく落ち着き、深く息を吸って、わたしは目の前のパートナーを見つめた。
太くはっきりした眉。膨らみのある鼻梁。薄く横に広い唇。芯の通った眼差しに、頼もしい大人の色香を感じる。
……いや、野間口さんは編集者でしかない。ずっと一緒にいたら火傷する炎だ。でも……たとえば……イマジネーションが勝手に膨らんでいく。野間口芳樹のノマは、佐々木有美にくっつくと、どんなふうになるんだろう。いや、佐々木という名前の中には、もうノマがある。
ユリカモメが少しだけ明るくなった空を旋回していく。
「……着替えはないけど……うちに来て、シャワーを使って」
自分の声の上擦りと野間口さんの「ありがとう」にうつむき、わたしはオールが導く静かな運行に身を委ねた。
おわり
(STORY6へ続く)
⬛連作「ギョーカイ冷酷夏物語」
STORY 5「々(ノマ)」by T.KOTAK
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