STORY5 々(ノマ)(6/8)

「役者もたいへんだよなぁ。メジャーなところはまだしも、世の中の多くの劇団員はアルバイト生活だろ」

「……好きじゃないと続けられないわね」

心ここにあらずの応えを途中駅の発車メロディに被せた後で、売れない作家と役者のどちらが辛いかを考え、砂田啓一郎の立ち振る舞いを思い出す。

背が高く、ハンサムで、芝居はぎこちなく見えたけど、他の出演者にはないオーラがあった。

吊り革がスピードの緩急でまったりと揺れ動く。

幼い男の子がこちらに足裏を向けて窓の景色を眺め、子供の靴を持った若い母親が愛情いっぱいに語りかけていた。


わたしの母は、最期まで砂田謙吾のことを語ろうとしなかった。

慰謝料代わりの家に住み、引越しも再婚もしなかった。夫の帰りを待っていたから?……違う。母はそんな人間じゃなく、病床でも弱音を吐かず、夫がいなくても、別の伴侶がなくても、この佐々木有美を成人させてくれた。むしろ、砂田謙吾の帰りを待ち望んでいたのはわたしの方だった。「九州のオジサン」に会いたかった。


上野駅のエスカレーターで、野間口さんが一段後ろのわたしに振り返る。

「佐々木さん、いつもの店じゃなく、公園に行かない?」

「公園?」

「上野公園。動物園でもいいけどさ、とりあえず、公園。うん、決めた!」

昨日の電話で、「デート気分だけど、仕事の話もある」と言っていたので、思いがけない提案に面食らいながら、わたしは改札を抜けていくジャンパーに従った。

1年のいちばん寒い時期に、駅を出た人たちが美術館や博物館を目指していく一方、建物と逆方面は人影がまばらだった。

公園は、あと2ヵ月もすれば桜でにぎわい、新緑でたくさんの家族やカップルを迎え入れるものの、いまは活力を蓄える冬眠期で、売店も自動販売機も開店休業状態だ。

舞台の緞帳(どんちょう)を下ろしたような静けさが、厄年のわたしにシンクロしている。

散策を選んだけれど、野間口さんは現在地が分からないようで、結局、地元のわたしが案内するかたちになった。

西郷隆盛像から動物園通りを横切り、不忍池方向へ。

正式名は都立上野恩賜公園。敷地の形状は横たわるカバに似て、「上野公園」と言えば、不忍池周辺を連想する人が多いけど、それはカバの頭の部分でしかない。心臓の位置に大噴水、背中に動物園、お腹側に国立美術館があるのだ。

「たまにはいいね。こういう公園を歩くのも」と野間口さん。

「晴れてれば、冬でももっと気持ちいいんだけど……今日は、わたしと同じ曇りだから」

「佐々木さんと同じ?」

「どうも、最近、書けないのよ」

野間口さんは立ち止まり、会話に一拍置いて、紺色のショルダーからミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。横からの風がわたしのコートの襟を遠慮がちにめくり上げる。

「小説の方?」

「そう。パワースポットの連載はおかげさまでスケジュールどおりに原稿を渡してるわ。来月分ももう書いたし」

薬剤師みたいな編集者の眼差しに「書けない」と告白するのは初めてだった。

「そうかぁ……でもさ、そういう時期もあるんじゃない?あまり深刻にならない方がいいぜ」

「パンダ焼き」の売店を左に折れて、カバの下顎をなぞる順路で、わたしたちは歩みを進めた。ベンチに座るタイミングと場所に恵まれず、公園の西端まで行き着いてしまう。

右手には3つに区分された不忍池の「蓮池」が拡がっていた。しかし、そこに緑はなく、枯れ枝が無数の折れ矢となって水面に突き立っている。

「淋しい光景ね」

「ここが蓮の葉で埋まるなんて信じられないなぁ」

「夏は池の水が見えないほどよ」

ミニボトルの紅茶で喉を潤し、わたしは、「冬眠」という言葉をもう一度浮かべた。

「どんな生き物にも、植物にも、元気な時期と充電の時期があるんだな。いま、佐々木さんは、モノ書き仕事の充電期間かもよ」

肩を並べているので表情は分からない。でも、その口ぶりから、編集者の穏やかな感情が伝わってきた。

数メートル離れた鉄柵にユリカモメが2羽止まっていて、わたしたちが少しでも動けば、すぐに飛び立ちそうな姿勢でこちらを見つめている。


「有美……昔はここにユリカモメはいなかったのよ。時間が過ぎて、人も景色も変わっていくのね」

この場所で、母は言った。

体を悪くする少し前のことだ。当時、結婚を考えた男と別れたばかりだったわたしは、片親の環境を恨めしく思ったりした。

「君はいつか熊本のお父さんに会うべきだよ」

良家で不自由なく育った男は、スターバックスコーヒーの席で、初対面の占い師みたいに別れ話をそう切り出した。


野間口さんがわたしに歩調を合わせる。

「砂田謙吾が入院してるの」

自ずと零れ出た。

「……ミスター砂田が?」

「うん。本人のツイートで知ったのよ。リハビリ中らしいわ」

驚きを隠さず、野間口さんが口をすぼめる。

「何の病気か、わたしは知らないけど」

事実をあえて突き放す言い方で、訊かれる前に答えた。

それから、どちらが決めたわけでもなく、わたしたちは来た道をそのまま戻り、進路を違えたユリカモメが、淀んだ空を低く飛んでいく。

野間口さんは『ミスター砂田』について根掘り葉掘り訊かず、「知ったかぶりゴッド」のテレビ局とのやりとりを話し始めた。

キャストが追加された脚本も見せてもらうこと。書店キャンペーンの後、なるべく早く放送してもらうことーーそのふたつを要求し、プロデューサーの了解を得たと胸を張った。

「主人公が男に変わるのも僕らは納得してないって釘を刺しておいたよ」



(7/8へ続く)

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