STORY5 々(ノマ)(7/8)

わたしは言葉を返せない。

ドラマについては、たしかに不満はあるけど、「仕方ない」という気持ちも芽生えていた。

文学と映像のドラマは別世界のもので、それぞれに適した表現方法があるはず。テレビ局も、けして手抜き仕事で作品に接しているわけじゃないだろう。小説の執筆が行き詰まるにつれ、そんなふうに状況を客観視するようになっていた。

「あの脚本……すごく苦労してまとめたカンジだよな。原作のディテールをなんとか残そうとして」

「わたしもそう思ったわ。主人公を男にしたから、ラストも変えなきゃならなかったのよ」

わたしたちは池の輪郭に沿って歩く。気温が下がっているのか、吐息がだんだん白くなっている。

「調べてみたら、脚本家は僕と同い年で、これがほぼデビュー作らしい。名前だけだと男の人か女の人か分からないけど……遅咲きだね」

野間口さんはため息とともに続けた。

「いっそ、銀幕のネズミが脚本まで手がければ良かったのにな」

「銀幕のネズミ?」

「ドラマを撮る根元純夫(ねもとすみお)だよ。彼はシナリオも書くからね」

わたしは制作の舞台裏を忖度する。原作になるべく忠実であろうとする脚本家。撮影前にシナリオを書き換えたい監督。その狭間(はざま)で腐心するプロデューサー。

「佐々木さん、ボートに乗らない?」

いきなり、野間口さんが発した。視線の先に看板がある。

「……寒くない?」

「そうだね。でも、真冬のボートもおもしろそうじゃん。今日は……なんたって初デートだからさ!」

「デート」という響きにとまどうわたしを尻目に、野間口さんは砂利道をどんどん進んでいく。

弁天堂の参道にある露店を抜けると、建物の裏手に乗り場があった。

「せっかく乗るんだったら、やっぱりローボートだな」

「わたしはうまく漕げないわ」

券売機の前で言った後、野間口さんが学生時代にボート部だったことを思い出して、一連の積極的な行動を得心した。

池のほとりでは、色とりどりのスワンボートが顔を陸側に向けて行儀良く並んでいた。混雑時は休む時間もないはずなのに、現在(いま)泳いでいるものは数えるほどしかない。サイクルボートとスワンが30分の利用時間に対して、ローボートは1時間。この寒空の下、水上にそんなに長くいるのは想像出来ないけど、「まな板の鯉」のわたしは、ボート部OBに付いていくだけ。

久しぶりの来客なのか、発着場の熟年スタッフが、満面の笑みで手招きしている。


「久しぶりだなぁ」

「ボート部だったんでしょ。わたしは知ってのとおり運動オンチだから、よろしくお願いします」

「こういうのはあまり乗ったことがないけど……なまった体にちょうどいいや」

正面に座った野間口さんが、右手と左手のオールを器用に操ると、あっという間に岸を離れた。腕の動きに併せて水面をスムーズに滑(すべ)る様は、ディズニーランドのアトラクションに似て意外に心地いい。幸い、風も止み、太陽のシルエットがわずかに見えた。それでも、地上に届く光線はなく、辺り一帯の水は日影のアスファルトみたいに、重たい色で平らに留まっていた。

池を見下ろす2棟の高層マンションが視界を動き、わたしひとりではとても戻れない場所まで進んだ。

「作家って、何のために小説を書くのかしらね……」

握っていたバッグを足もとに置くと、胸中の澱(おり)が思いがけず口をついた。

「うーん……考えたことないなぁ。出版社の人間として申し訳ないけど」

野間口さんは思案顔で、わたしを直視した。

小休止したオールの羽根が水中でぼんやり揺らめいている。

前方を黄色いサイクルボートが飛沫(しぶき)を上げながら横切り、助手席の女性がペダルを漕ぐ恋人に睦まじく寄り添う。

「……前にも言ったけど、佐々木さんは作家としての才能があるよ」

「才能はないわ。あるなら、もっと書けてるはずだもん」

「じゃあ、才能じゃなく、適性って言えばいいかな……たとえば、いまこの景色を佐々木さんは頭のどこかで描写してない?」

そのとおりだった。

水の色・スワンボートの形状・カップルの服装ーーそんな絵を自然に文字に置き換えている。原稿書きの仕事をしているからじゃない。子供の頃からそうだった。九州のオジサンのプレゼントを開けるときも、病床の母の寝汗を拭き取るときも、意識の隅で映像を文字に変えていた。

図星を悟った野間口さんは、満足げな笑みでオールを胸元に寄せる。

「書きたくなければ、書かないでもいいと思う。別の仕事でメシを食えばいい。でも、佐々木さんはきっと書くよ。そういう性(さが)だから」

「『何のために』じゃないのね」

「そう。でも、プロの作家である以上、使命を感じてほしいな」

気まぐれな風が皮膜をめくるように幾重もの弧を水面に描く。乗り物から離れるにつれ、その同心円は波紋と一体になり、おもむろにかたちを消した。

「使命?」

「そう、使命。作家・佐々木有美が人物や情景を描写して物語を書く。それは世の中にとって意味があることなんだ。意味がある以上、責任を負っている。つまり、使命があるってこと」

子供のはしゃぎ声を避けて、舵が左に切られた。

辺りには誰のボートもなく、発着場を遥か彼方に置いて、野間口さんは手を止める。

「それで思い出したけど……佐々木さんの、漢字の佐々木っていう真ん中の字、何て言うか知ってる?」

唐突な問いかけに、わたしは首を傾げる。

「ふたつ目の『さ』の字のこと?」

「そう、代々木なら二番目の『よ』、日々の『び』、人々の『びと』って読む文字だよ」

「分からないわ……それ自体の読み方があるの?」

「ない。踊り字のひとつで、正確に言えば、漢字じゃなくて記号だよ。『ノマ』とも呼ばれるんだ。カタカナのノにマをつけたかたちだろ。だから、ノマ」

「記号?ノマ?」

初めて聞く。考えたこともなかった。自分の名前の一文字で、日本語を商売道具にしているのにちっとも知らなかった。野間口さんの創作話にも思えたけど、向き合う眼差しに偽りの色はない。

「『野間口』のノマじゃないのね?」



(8/8へ続く)

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