STORY2 再現ドラマカフェ(8/8)

「あんた……逃げられると思ってるわけ?」

女の持つ傘の先端が照明で鋭利な光を放ち、小百合はたじろいだ。

雨音がおもむろに強まっていく。

「何しに来たんだ!」

「……ふざけないでよ。あたしを捨てて、こんなとこで暮らしちゃって」

「もう、全部終わったことだろ」

侵入しようとする女を小突いて、男は怒声を上げた。素人くさい演技がかえって生々しく、セリフのたどたどしさが臨場感を増している。

脱いだハイヒールを振り上げて応戦する尾畑。小百合が夫に恐々(こわごわ)と加担していく。台本に忠実な動きだ。

「あんたは向こうに行ってなさい、泥棒猫!」

「泥棒猫?」

「あたしの男を奪って、挨拶のひとつもないわけ?」

女は鬼の形相で妻の前に立った。

「挨拶って……あなたこそ何よ?いきなりおしかけて」

「あたしと彼の間におしかけたのはあんたじゃない!ふざけんじゃないわよ!」

「まぁ、待ってくれ。落ち着いて……座って話そう」

割って入る砂田を、今度は尾畑が力づくで押し退け、ハイヒールで小百合の側頭部を叩いた。

雨が激しくなり、雷鳴が轟く。

ゴロゴロゴロ、ピシャー!

場内の電気が一瞬点いた。

女性客が「きゃあ」と驚き、うずくまった小百合がこめかみを抑える。ハイヒールの爪先が軽く触れる演出だったのに、踵の尖った部分が直撃した。

「いたっ……」

「大丈夫か?」

フィクションとリアルをないまぜにして、砂田が小百合を覗き込む。その様子を尾畑は仁王立ちで見下ろし、息を深く吸い込んだ。

よろめく小百合の視界に根元が映り、客席全体が水を打ったように静まり返る。

「あんた……あたしの男を取りやがって……知らなかったとでも思ってるわけ?」

尾畑の甲高い声が、小百合を固まらせた。

台本と違うセリフだった。

「謝りなさいよ」という短い言葉が長いアドリブに変わっていた。

小百合は、1メートルの距離にある相手の瞳を覗き込んだ。再現ドラマカフェにアドリブはあり得ない。

ベテラン女優のアーモンド型の目が憎悪の色を湛え、ローズカラーの唇は微かに震えている。小百合は後ずさり、視線を板張りの壇上に落とした。

「なんで黙っているのよ。何か言いなさいよ!」

セリフが台本に戻り、砂田は尾畑のハイヒールを奪い取った。そこは、稽古でやり直した場面だったが、痴話喧嘩の成り行きをスムーズに再現した。

こめかみの痛みに、小百合は演技を忘れて顔をしかめる。

「あんたには天罰がくだるわっ!」

吐き捨てられたセリフの終わりと同時に、小百合が尾畑の頬を右の掌でひっぱたいた。容赦なく、手加減せず、ありったけの力を込めて。

肉と肉の衝突が、低く重く鈍い音を立てた。


「サユリちゃん、ごめんなさいね」

控室に戻ると、尾畑は小百合のこめかみに、水で絞ったハンドタオルをあてた。

「ヒールの踵がぶつかっちゃって、それで、私のセリフも飛んじゃったのよ。いきなりのアドリブで驚いたでしょ?」

「……いえ、大丈夫です。わたしの方こそ、叩いてすみません」

「まぁ、あれですっかりリアリティが出たわね。私たち女優は客席の空気を読んで、演出以上の芝居を見せるのが大切よ」

台本のト書きは、「妻が女の肩を小突く」で、「妻が女を平手打ちする」ではなかった。

感謝でも謝罪でもない、かたちだけのお辞儀をして、小百合はハンドタオルを先輩女優に返した。

尾畑のドーランが左頬の部分だけ擦れ、殴打の跡を見せている。

「しかし、ホントにすごいビンタだったわね。演技での上手い叩き方を覚えるといいわ。根元監督がいたから、あなた、頑張っちゃったのかしら?」

座長の妻が温度のない微笑を残してフィッティングルームに消えると、小百合のそばに何人かの劇団員が寄ってきた。

「すごい芝居だったよ」「まさに再現ドラマだな」「観ててハラハラしたぜ」

矢継ぎ早の感想が、彼女には嘲笑や侮蔑に聞こえ、控室から離れた化粧室に逃げ込んだ。

取り返しのつかない、醜い舞台だった。役柄をなおざりにし、尾畑の掌の上で、素の「高梨小百合」が顔を出した。

手洗い場の鏡は留め具が錆び、ガラスの上部がドライアイスの煙を映したように曇っている。

指をかけた前髪から長い毛が抜け落ち、開け放った水道水に抵抗しながら排水口に纏わり付いた。

そうして、突然の嘔吐感で便器に突っ伏し、セラミックタイルの床に両膝をついた。

えずきながら泣いた。足の指をぎゅっと丸め、声を押し殺して。

誰かの靴音が近づき、何事もなく遠ざかっていく。

長く息を吐き、天井を見つめると、壁面との境にある珈琲色のシミが水中の土砂みたいに滲んだ。

根元は、父親は、どう観ただろう。暴力シーンが妙に生々しかった。そんな実感を周りの者に伝えるだろうか。

重ね折ったトイレットペーパーで涙を拭う。

それから、努力こそが才能やタイミングに勝るものと信じ、小百合は乱れた呼吸を整えた。



おわり

(STORY3へ続く)

⬛連作「ギョーカイ冷酷夏物語」

STORY 2「再現ドラマカフェ」by T.KOTAK

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