STORY2 再現ドラマカフェ(1/8)
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カード会社の請求明細に、高梨小百合(たかなしさゆり)はため息をつく。
今月もぎりぎり。このままなら、実家の援助で作った定期預金に手をつけなければならない。
代官山のショッピング、青山のレストラン……。
ショッピングは必要経費と言うべき洋服で、レストランの食事は仲間との付き合いだ。けして無駄遣いはしていないから、「¥」に連なる数字が恨めしい。
27歳。年齢もぎりぎりだった。女優を諦めて、普通の仕事に就くべき? でも、いまさら、丸の内のOLにはなれないし、派遣の仕事だって自信がない。もうちょっとだけ頑張ってみようーー自問自答を繰り返して、小百合は明細書をバッグにしまい、誰もいない部屋で仲間を待った。
「おっ、サユリ、いたのか。今日も早いね」
「電気くらいつけろよ」
やがて、座長とふたりの劇団員がやって来て、暗がりに座る同僚に驚いてから、スポーツバッグや手荷物を壁際の長テーブルに置いた。
座長の荒川は小百合の紫色のレギンスをちらりと見て、一言も発しないまま、ホワイトボードに今日の稽古メニューを書き始める。
荒川一平太(いっぺいた)。大学時代に劇団「寿限夢×2(じゅげむじゅげむ)」を立ち上げ、小劇場ブームに乗って名を成した「土佐いごっそう」だ。かつては、精悍なマスクと8頭身の体型で女性人気を集めたものの、テレビドラマの撮影事故で脚を悪くし、自分の劇団でも裏方に徹するようになった。脚本家が彼のために用意する「ここぞの出番」を除いては。
「寿限夢×2」の稽古場は、防音壁に囲まれたレンタルスタジオで、劇団員が集う一室に、ベテラン女優の尾畑(おばた)京子が「ドーナツを買って来たわ」と現れた。
荒川の妻でもある彼女は、つい3ヵ月前に育児休暇から復帰したばかりだ。そこらのママさんタレントよりも明るい笑顔を振り撒き、劇団を引っ張っている。
目の前の夫婦のツーショットに、小百合は身をすくめたーー座長・荒川との過ち。もう終わったことなのに、けして消えない過去が暗く長い影になってつきまとう。
大陸から南下してきた低気圧の影響で、雨風がガラスを叩くなか、いつものように、12人が輪になって、準備運動が始まった。屈伸・跳躍・アキレス腱伸ばし。その外側で、荒川はホワイトボードを見つめ、劇団と公演の収支を考え続けている。次のホールは使用料が高く、短期間の興行では儲からない。制作費をきりつめて、効率良く稽古に取り組まねばならない。
「それじゃ、今日はシーン6から行こう。サユリとケンタロウが山小屋に駆け込む場面だ」
荒川は左脚を引きずりながら役者たちに近づき、台本を忙しくめくった。
「サユリぃ、お前……なんか気持ちが入ってねぇな」
休憩時間に、小百合と同い年の団員がアンシンメトリーのヘアスタイルを手鏡でチェックしながら、「女は月のモノがあって大変だろうけどさ」と続けた。
小百合は相手の勝手な思い込みを否定しようとしたものの、何も言葉を返さず、台本に集中していく。
「気持ちが入らない」のは確かだ。
自分に充てられた役や生活の困窮が理由ではない。尾畑京子の劇団復帰以降、荒川の態度が自分だけによそよそしく、対話や動作の間合いが変わっているのだ。体の関係が終わっても、尾畑が戻ってくる前は、演技指導や何気ない会話に相応の愛情があったはず。私服を褒めてくれたし、ふとした瞬間のボディタッチもあった。しかし、最近は明らかに視線さえ避けられている。
「甘い物はいかが?」
小百合の背後から、尾畑が差し入れを向けてきた。ドーナツの箱はすでに半分が空になり、グラニュー糖の粒やトッピングの甘味料が底面にうっすら付いている。
「……いただきます」
「いくつでもいいわよ。たくさん召し上がって」
鼓動の変化を隠して、小百合は片隅のフレンチクルーラーに手を伸ばしたが、柔らかくぬめりとした感触に胃の中の物を戻しそうになった。
雨が窓ガラスを忙しく滴り落ちる前で、座長の妻は別の団員にもドーナツの箱を向け、おしゃべりの合間に朗らかに笑った。
小百合は彼女の背中を正視する。
荒川との発端は、ありきたりなものだった。妻の妊娠中に性欲のはけ口を求めた男と失恋に傷心していた女の接触事故。
湿度の高い夜。ふたりきりの食事。適量のアルコール。つかまらないタクシー。行き当たりばったりのシティホテル。
偶発的に終わるはずの秘め事は、思いがけなく長く続いた。恋愛感情の沸点で体を欲するカップルではなく、熟年夫婦が日常生活の凝固点で抱き合うように。
荒川に贔屓にされれば、女優の道が拓けるかもしれない……ベッドでそんな卑しい思いに囚われるたび、小百合は頭(かぶり)を振った。そうではない。そんなんじゃない。
当時の刹那的な行動を、彼女はいまさら後悔し、あの夜、ホテルのフロントでこうなる状況を想像するべきだったと、手にしたドーナツを口に入れず、ティッシュで包み隠した。
(2/8へ続く)
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