STORY3 銀幕のネズミ(6/8)

中庭に面したガラス戸に、心もとない淡い陽射しが張り付いている。

垣根の緑を背景に、空(から)のハンガーをぶら下げたステンレス製の物干し台があり、片方の支柱に寄り添うかたちで三輪車と子供用の自転車が並んでいた。

その光景を人指し指で監督にそっと伝えると、老人は僕らの視線にすんなり気づいた。

「息子の成長する姿をあたしは見られんかったんで、引越しのときも自転車を捨てず、ああして置いてるんですわ。雨ざらしで、もうすっかり錆びついてますがね」

「そうですか……当時の警察の取り調べはどないでした?」

「だいたい、ご想像のとおりでっしゃろ。ただ、ホンマもんの警察のやり方はえげつなかったで。テレビドラマの方がよっぽど緩いですわ」

脚を組み換える老人に、僕らは相づちさえ打てない。

カラスの鳴き声がどこか遠くから聞こた。

「警察の目的は真犯人をみつけることやなく、疑わしい者を捕まえ、事件をとっとと終わらせること。そのために、取調官たちはあたしを落とすのに全力を尽くしたんや」

「ひどい話やな」

監督は考えるのも忌まわしいといったカンジで頬の吹出物を指で擦(こす)った。

「密室での取り調べで、暴力はあったんですか?」

内藤さんがジャーナリストのナイフで真実に切り込む。

「当然、外傷の残るような暴力はせんかったよ。真綿で首を絞めるみたいに時間をかけて追い詰めていく。精神的に執拗に苦しめよる。で、こっちの心が壊れそうなところでパッとその日の調べを止めて、次の日に持ち込むんよ」

「常套手段やな」

「次の日も、またその次の日も朝からや。そんで、このまま自白せんかったら、死ぬまで続くんちゃうか、よっぽど嘘ついた方が楽になるんちゃうかと思い始めた」

そこまで語ると、老人は腰を上げて席を外した。

背中で隠れていた場所に木製のキャビネットがあり、その上に写真が飾られていた。

老人の脇に、着物姿の女性とスーツを着た男性が立っている。ふと、玄関の三脚を僕は思い出した。この家のどこかで撮ったのだろうか。3人に笑顔はなく、他人に強いられたカンジのぎこちない家族写真だった。

「こんなもんしかありませんが、よかったらどうぞ」

老人は紙皿に移した柿の種を持って来て、「まぁ、全部済んだことですわ」と、薄い笑みを浮かべた。

「無実なのに刑に服しているときは、どんなお気持ちだったんですか?」

一呼吸置いての内藤さんの問いに監督が身を乗り出し、僕以外の3人の視線が絡まる。

「実刑が出てからは、あたしはとにかく時間が早(はよ)う過ぎることだけを願ったな。妻からの手紙や差し入れの本を読んだりして」

悟りを開く僧侶みたいに老人は目をつむった。

柿の種とペットボトルと紙コップがおいてきぼりになり、全員が口を閉ざした。

「……いつも、こうして皆さんで取材してはるんですか?」

沈黙を嫌う様子で、老人がまじまじとこちらを見つめ、静かに問いかける。

「いや、普段はわしひとりです。作家の内藤さんは、今回の映画作りを追いかけてるんですわ。取材から撮影までずっと。長いつき合いで、わしのことは何でも知っとりますが、こうして仕事で一緒に動くことはめったにない……で、アシスタントのこいつは片腕みたいなもんで」

「なるほど……アシスタントさんはまだ20代やろか?」

僕は自分の年齢を正しく伝えた。

「いいですなぁ。これからいっぱい仕事ができる。あたしの人生で虚しいのは、社会の中で、仕事っちゅうもんがロクにできんかったこと。50を過ぎて保護観察下で仮出所して、まともな仕事にはありつけなかった。世間の冷たい目が、あたしに仕事を与えるはずがなかった。無罪放免の後でさえね」

老人は再び黙り、やがて、右膝をさすりながら「仕事があるっちゅうのは幸せなことや」と継いだ。

僕は適当な返事ができないまま、おぼつかない思いを絨毯の上に這わせる。

壁のアナログ時計が短針と長針を重ね合わせ、僕ら来訪者は電車の網棚に放られた荷物のように縮こまった。

それから、「裁判で無実を立証するのは難しかったのか?」「裁判官や刑事を恨むことはなかったのか?」「加害者への憤りはどれほどのものか?」といった監督の続けざまの質問に、老人は過剰な言葉を乗せず、身振り手振りで肯定や否定を繰り返した。

「甲斐さんの仮出所中に真犯人が名乗り出て、いちばんとまどったのは、事件担当の刑事や裁判官やろな」

監督が新聞記事を出して、ニコチンの切れた体を苛立たしげに揺らす。

「いや、いちばんとまどったのはあたしですわ。起訴した検事も、判決を下した裁判官もあたしが犯人だと根っから信じはって、予定どおりにコトが済んだ……おかしなことに、催眠みたいなもんでな、当のあたしも、もしかするともうひとりの自分が事件を起こしたんやないかって思うこともあった」

「ひどいな。まったく許せんわ!」

老人の告白が途切れた瞬間、監督が声を荒げた。

しばらく、誰も何も言わない。

それぞれが気持ちを胸の内に押し留め、網棚から降りるきっかけを待っている。

「……まぁ、他人様(ひとさま)はひどい話と思うやろな」

肉の薄い頬を撫で、老人が最初に心中を表した。

「まったくひどすぎるで。甲斐さんは死ぬまで殺人犯の十字架を背負うとこやった」

「そやな。でもな、監督さん。あたしは、ムショで過ごした時間よりも、妻と一人息子を失くしたいまの時間の方が辛いんよ。過去の記憶以上にな。こんなあたしの人生に関わった家族に終(しま)いまで何もしてやれず、先に逝かせてしまった……」

突然に、目の前の瞳が潤み、声が掠れた。

「……わしも家族がおるので分かります」

さっきとは別人になって、監督がテンションを低めて応えた。

「そうですか。理解してもらい、うれしいですわ」

「甲斐さん、裁判員制度についてはどう思われます?」



(7/8へ続く)

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