STORY5 々(ノマ)(1/8)
1
願(がん)かけ石。
「心に願いごとを念じ、この神石を撫でること三度、更に願いごとを唱えるべし」
次の小説と砂田謙吾のことを考えながら、そう書かれた案内板を右手でそっと触れてみる。
注連繩(しめなわ)が掛かった神石は、雨風を避けた小さな社殿に納められているので目立つ傷みはない。黄昏に鎮座する神々しさに背筋を伸ばすと、本殿に向かう制服姿の女子高生が目に留まり、このパワースポットが縁結びでも知られることを思い出した。
東京から直線距離で850キロ。
同じ境内にある「高砂の松」を、女は右廻りで、男は左廻りで2度廻ると恋が成就するらしい。
平日の夕暮れ。人目はないけど、わたしはそんな「願かけ行為」をためらった。あらゆる体験は原稿書きの種(タネ)になるのに、神出鬼没のプライドがこんなときだけしゃしゃり出る。野間口さんのせいだ。
「佐々木さんは、ユニセックスなところがいいんだよ。それが小説の魅力にもなっている」
ユニセックスな魅力ーー称賛か皮肉か分からない、彼のお決まりのフレーズが、最近、わたしの行動を妙にセーブするようになった。
「ユニセックスって、女らしさがないってこと?」
「いや、男らしさと女らしさのどっちも兼ね備えてるってことだよ」
「男らしさは必要ないでしょ?」
「いや、作家の必要条件だ。女ときどき男。コースイ確率50%。あっ、これ、パフュームの方のコースイね」
学生時代にボート部だった野間口さんは、カフェでの打ち合わせ中、年齢の割に筋骨隆々な体を揺らして笑い、体育会系な見た目と不似合いなメロンソーダを啜った。
「たとえば、佐々木さんの名前が有美(ゆみ)じゃなく、ユウミとか……ユミの『ミ』の字が『実る』のミだったら、読者は男性作家だって勘違いするかもよ」
言おうとすることは何となく理解できた。3年前、わたしの処女作が文学賞をもらったとき、選者だった有名作家は「骨太な文体と物語の構成に底知れぬ勢いがある」とコメントした。一方で、1年後に発表した2作目の書評は「繊細でたおやか。新たな女流文学の誕生」だった。
佐々木有美。こんな平凡な本名じゃなく、野間口さんの言うユニセックスなペンネームでも良かったかも……火の国・熊本の真ん中で、いまさらそんなことを思った。
ともあれ、ギョーカイから置き去りになりそうな自分を省みながら、本殿で両手を併せて帰路につく。
辺り一帯は洞窟の入口みたいな仄暗さで、ライトグレーのスニーカーが色を落としている。
そして、靴紐を結び直して顔を上げたとき、息を呑んだ。
雄壮なシルエットが鳥居の中にぴったり納まっている。
阿蘇山だ。
南北に伸びる横参道の先、裾野をたっぷり拡げ、平らな火口を鳥居の笠木と並行にして、古(いにしえ)も現在(いま)も土地の祭神として奉られていた。
思いがけない景色との遭遇に、わたしはデジタルカメラを構える。一眼レフは絶妙な光量で厳かな絵を創り、誌面掲載にふさわしい写真を記録した。
それから、参道口でタクシーを捕まえて宿泊先に向かった。
ホテルはJR阿蘇駅から少し離れた場所で、往路と同じバスを使うのが正解だったけど、夕方から夜にかけての本数が極端に少なかった。
「この辺はタクシーがなかな拾えないんだよ。ラッキーだったね」
観光客慣れした運転手がルームミラー越しに微笑む。
「お客さん……新聞記者か何かかい?」
鋭い観察眼に、わたしは一拍置いてから旅の目的を告げ、作家と名乗らず、雑誌のライターと身分をぼかしたうえで「どうして、記者と思ったんですか?」と尋ねた。
「髪が短くて、ジーンズ履いて、大事そうにおっきなカメラ持ってるだろ。それにべっぴんさんだから、縁結びは必要ない……つまり、仕事で来たってこと」
サービストークに上手い返しが出来ず、対向車のヘッドライトに目を細めると、黄白色に混じってロードサイドの建物が軽やかに流れていった。
ショートヘアとジーンズ。「ユニセックス」というフレーズがまた浮かび、仕事を言いわけにして縁結びの神様をなおざりにした行動を後悔する。
連載の「聖地おひとりさま巡礼」は、取材費を制作元が負担するかたちで、全国のパワースポットを自由に回れた。パワースポットは「縁」を求める女性の駆け込み寺でもあり、売れない作家のわたしは野間口さんの知人からの依頼に快諾した。
通販会社発行のその掲載誌は、いくつかの記事のほかに、流行りの下着やコスメやダイエット食品をあますことなく紹介し、5万人の会員に毎月郵送されている。
「通販誌としては少ない部数で、作家先生にお願いするのはお恥ずかしいですが」と、担当者は低頭したけど、わたしがこれまで書いた3冊の小説は、全部併せて1万部も売れていない。原稿用紙3枚のエッセイが一度に5万もの人に届くのは、もちろん初めての経験だった。
「連載が貯まったら、うちから本を出せるかもよ」
仲介者の野間口さんは電話口でテンションを上げ、「作家はとにかく書き続けなきゃ。なんてたって、小説のドラマ化が佐々木有美をブレイクさせるはず」と、声を弾ませた。
(2/8へ続く)
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