STORY3 銀幕のネズミ(5/8)

夜行性の生き物が闇を覗き込むような目ーージャージ姿のその家主が取材相手に違いなかった。肉の削げ落ちた頬と骨ばった下顎は年老いた野生動物を思わせる。

「どうぞお入りください」

老人はひどく掠れた声で僕らを家の中へ招き、クローゼットから人数分のスリッパを取り揃えた。バリアフリーの玄関にはつっかけのサンダル以外に靴はなく、カメラの三脚とビニール傘がたて掛けられているだけ。別の住人の気配はない。

ゆったりした歩調で老人は廊下を行き、リビングルームの扉を開けた。

「今日はお時間をいただきまして、ありがとうございます」

「気をつけ」の姿勢で監督が丁重に頭を下げ、僕のことをアシスタントと、内藤さんを作家と紹介する。

「こんなところまでわざわざ出向いてくださって、ご苦労さまです。まぁ、上着を脱いでおかけください」

体の奥から無理矢理絞り出したカンジの声で、家主は6人掛けのソファに向いた。頭のてっぺんからつま先までしゃんとしていて、戦争経験者みたいな厳かな空気を纏(まと)っている。

「監督さんのお電話では『ちょっとした話だけ』ということなので……こんな汚い格好ですみません」

発声の難儀さを伝えるふうに喉仏が上下し、老人は左の袖をまくりあげて脂肪分の乏しい肘を掻いた。

リビングを見下ろす位置で、神棚の幣(ぬさ)がエアコンの温風を受けてそよいでいる。

10畳ほどの部屋は程よく温められていたものの、どこか埃っぽく、敏感な気管支を持つ内藤さんが小さく咳込んだ。

「道はすぐに分かりましたか?」

「ええ。車のナビゲーターで、迷わず着きました」

脱いだジャンパーを膝に乗せて、監督は老人の問いかけにきちんとした標準語で答える。

トルコ絨毯・革張りのソファ・大画面の液晶テレビ……家具店の見本展示さながらにどれもが新しく、居住者の息づかいを感じさせるのは、テーブルに置かれた烏龍茶のペットボトルと紙コップだけだった。

「……こちらのお住まいは、どなたかとご一緒で?」

まず、監督が尋ねた。

それは、僕も内藤さんも最初に気にかけたことだ。

固定電話に出るのがいつも本人らしく、「ひとり暮らしかもしれん」と、助手席で監督は言っていた。

ペットボトルに指をかけていた老人が、唇を結んで鋭い眼光を放つ。

「いまは独りです。家族3人で暮らしてたんですが、妻は3年前に、長男はちょうど1年前に病気で亡くなりました」

「……そうでしたか……不躾な質問で失礼しました。映画監督なんて泥臭い仕事をしていると、ついつい無礼になってしまいます」

「いえ、構いませんよ」

老人は平坦な返答を残して、紙コップに烏龍茶を注いだ。

毛玉の付いた濃紺のジャージは体のサイズよりずっと大きく、手の甲の半分を隠している。人差し指の節くれだった関節が小ぶりな梅干しみたいだ。

「甲斐さん、わたしは大阪出身だから関西弁でしゃべりますが、構いませんか?」

コップを手にした監督が神妙に申し出ると、老人は臍(へそ)の辺りから音を漏らす調子で笑った。

「分かってますわ。監督さんのこと、テレビでよう見てますから。『銀幕のネズミ』さんでっしゃろ。あたしも奈良生まれですし。どうぞ普通にしゃべってください」

「おおきに。東京の言葉はよそよそしくてあきまへんわ」

監督を真ん中にして、僕と内藤さんは目配せで安堵の思いを伝え合った。

「昔は取材もぎょうさんあってな。でも、この10年ほどは世の中があたしの存在を消し去ったみたいで……こうしてひっそり暮らしてます。見てのとおりの独居老人ですわ」

ややつり上がった目尻と丸い瞳は高齢者のものでも少年のものでもない。ブラックホールに時間を呑み込む器官があるならこんなカンジじゃないか。そう思い、背中に緊張が走った。

ガラステーブルがちょうど膝の高さにあって、浅く座る僕らには脚を動かす余裕がほとんどない。

「取材と言っても、わしらは新聞社の者やないんで、甲斐さんのお話をそのまま記事にすることはありません。あくまでも映画作りの参考にさせてもらいます」

相手が頷くのを確認して、監督がポケットから手帳を、内藤さんが鞄から取材ノートを取り出し、筆記用具を持たない僕は端の席で畏(かしこ)まった。

「中古のこの家は、国の補償金で買ったんですわ。それを息子がリフォームしましてな」

監督のインタビューを待たずに、老人が切り出した。

「なにせ、あたしは被害者ですから……」

「刑事補償法ですね?」

内藤さんが響きのいいバリトンボイスで発し、万年筆を走らせる。

「そう、ご承知のように、25年もあたしに罪を着せてたわけやから、国にとっては安いもんでしょ。こんな30坪の家くらい」

まばたきせず、続けた。

「事件の経緯については存じてますが、甲斐さんのような不幸なケースが、つまり、冤罪ちゅうやつが法治国家でなんで生まれるんか、今度のシャシンでは……わしらの映画では、そのことを突き詰めたいんですわ」

標準語を関西弁に変えたことで、監督のしゃべりは一気に滑らかになった。メリハリあるイントネーションは人の気持ちを解(ほぐ)す反面、心に土足で上がり込む図々しさもあるけど、老人は意に介さず、顎に手を添えて聞いている。

「冤罪の起こる理由か……調べれば分かるけど、あの時代は多かったんや。疑わしい者を簡単にしょっぴいて、自白を強要させてな」

かつて、取材記者に繰り返し問われていたのか、老人は表情をまったく変えずに語った。

「昭和の、高度成長期の負の一面ですね」

取材慣れした内藤さんが相手の次の言葉をスムーズに促していく。

「そう、不幸な時代ですな。不幸な時代に起きた事件に、あたしが巻き込まれたっちゅうことです」

監督が手帳をテーブルに置いて腕組みすると、老人は遠くに目線を投げて、ふうっと息をついた。



(6/8へ続く)

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