STORY3 銀幕のネズミ(7/8)

監督の質問が意外だったのか、老人は緩めていた表情を真顔に戻して、飲み物を口に含みながら熟考した。

10秒、20秒……無言の時間がこれまで以上に長く重なる。

「……裁判官であれ、一般人であれ、人が人を裁くには間違いの起こる可能性があるっちゅうこと。それを忘れてほしくないな。人はどんなときも過ちを犯す生き物やから」

「わしもそう思います。人間は全能やない。それを勘違いしてしまう輩が多いんや」

「監督さん、今日いろいろ話してみて分かったけど、あたしは、こうしてひとりで生きなあかんのがいちばん辛いんやな」

蛍光灯の明かりが老人の目尻と額の皺に深い陰影を作っている。

僕らは身動きせず、続きを待つ。

「裁判のことも獄中生活も、もちろん忘れられん。せやけど、問題なんは、現在(いま)や。命より大切な家族がこの世からいなくなってしまった。残されたあたしにできるんは、庭の植物に水をやり続けることくらい……一所懸命に咲いとる花がいちばん愛しいな」



老人は別の部屋から家族のアルバムや奥さんの日記を持ち出して、僕らを引き止めた。けれども、監督はいまひとつ気乗りしない様子で、写真をぼんやり眺めながら、「そやな」「なるほどね」といった生返事を繰り返した。

玄関を出ると、北から吹きつける風が植木鉢の花々を揺らしていた。

アスファルトに伸びる影が冬の深さと夜の近さを知らせ、老人は「映画の完成、期待しとります」と一礼して、僕らのドアミラーに収まった。


住処(すみか)に急ぐ野良猫が路地裏を駆けていく。

リクライニングさせた助手席でしばらく黙っていた監督は、暖房が車内に温もりをもたらした頃、「長生きせなあかんな」と、ポツリとつぶやいた。

CDを再生しようと思ったけど、僕はなんだか妙に人の声が恋しくなり、FMラジオを車の走行音にかぶせて、来た道を戻った。

後部座席では、行きと同じように内藤さんがピーコートを肩から膝に羽織って外の景色を眺めている。

豪勢な住宅がクリスマスのイルミネーションを点して、赤や青や緑の電飾の連なりを後方へ流していく。その光景に、テレビで見たディズニーランドの雑踏がなぜか重なり、ミッキーマウスの姿で愛嬌を振りまく人も、実はこうした町の片隅でひっそり暮らしているのではないか?と思った。


「都内に着いたら、起こしてくれや」

45度の角度で、監督が運転席に背中を向ける。

高速道路のジャンクションから首都高に入る頃には、背後からも微かな寝息が聞こえ、僕は運転席で独りになった。

行き交うテールランプに、東京に出てきてからの取るに足らない毎日が呼び覚まされ、ラジオから流れる懐メロに感傷的な気分が寄り添う。

ーーいいですなぁ。これからいっぱい仕事ができる。あたしの人生で虚しいのは、社会の中で、仕事っちゅうもんがロクにできんかったことーー

ふと、老人の声が甦った。

やがて、出口表示の見えたところで助手席がもぞもぞ動き出し、「まもなく一般道に入ります」と告げると、監督は窓を拳分だけ開けて小さく伸びをした。

速度のついた風が車内に潜り込み、僕の頬をさっと撫でつける。内藤さんもいつの間にか眠りから覚めていた。

「……あのな、チュウ。お前は、浦安のネズミに会いに行ったらええよ」

首を静かに回して、監督が唐突に言った。

「にぎやかな場所に喜んで行けるんは若い連中の特権やからな。そういうとこ、歳取るとだんだん行くのがしんどくなるんや」

車線変更のウィンカーを出して、僕はコンマ数秒だけ助手席に顔を向ける。

「それに、今度のシャシンは、もうちょい中味を詰めなあかんしな……来週のロケハンは延期や」

独り言のように監督は続けたが、僕はうまく言葉を返せない。

車は、段ボールを積んだ軽トラックと二股に分かれ、一般道に繋がるスロープから都会の街中に紛れ込んだ。

マクドナルドの前でタクシーが客を拾い、牛丼屋が「冬の大盛キャンペーン」の幟をはためかせている。

高速を下りて最初の信号で停まったとき、空を舞うものに気づいた。

低気圧が都心部に停滞し、道行く人たちは急ぎ足でコートの襟を立てていた。スーパーマーケットから出てきた母親が街灯に照らされた宙を見上げ、白いものを掌で掬う。女の子の赤いニット帽に気の早いホワイトクリスマスが降りていた。

「……雪か、どおりで寒いはずや」

監督が窓をきっちり閉め、内藤さんは「積もらなければいいですけどね」と、ため息をついた。

――東京の子供は雪への気持ちの移り変わりとともに大人になってしまうんだ――

折りしも、ラジオの饒舌なゲストが、聞き役のパーソナリティに語りかけた。

――子供の頃は雪がうれしいけど、大きくなれば、鬱陶しくなっていく――

会社員は交通手段を気にし、「空からの贈り物」にはしゃいだ純粋な心を忘れてしまうのだとトークした。

九州生まれの僕は、20歳(はたち)をとっくに過ぎているのに、子供と大人の中ぐらいの気持ちでヘッドライトに踊る雪を見つめる。

ふたつ先の信号まで同時に切り替わり、「赤ちゃんが眠っています」のステッカーを付けたワゴン車が僕らの前でスピードを落としていく。

「……充電切れや」

舌打ちした監督が携帯電話をポケットに突っ込み、ラジオを大城戸栄のCDに変えた。

そして、「携帯を貸します」という僕の申し出に短く思案してから、「テキトーなとこでいったん停めてくれ。ちょっと電話かけてくるわ」と、財布からテレホンカードを取り出した。



(8/8へ続く)

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