STORY3 銀幕のネズミ(1/8)


「なぁ、チュウ……お前はよ、銀幕のネズミと浦安のネズミのどっちが大事なんよ?」

高速道路から一般道に入る信号で、助手席の監督がサイドブレーキを引いて言う。

感情を押し殺した濁声(だみごえ)。今日いちばんのマジモード。運転する僕は、声の主をチラ見して愛想笑いする。ハンドルを握ってないのに、お節介にサイドブレーキを操るのはこの人……根元純夫(ねもとすみお)くらいだ。

職業/映画監督。通称/銀幕のネズミ。トレードマーク/色の薄いサングラス。趣味/映画製作。

マスコミが冷やかしでつけた「銀幕のネズミ」という愛称を本人は気に入っているようで、たまに自分自身をそう呼ぶ。「根純」と書いて、「ネズミ」と読む。

「わしはなぁ、スクリーンっちゅうでっかいチーズをガリガリ齧る動物なんや」

大好きなアイリッシュ・ウィスキーを暴飲すると、銀幕のネズミはそんなことを声高に宣った。

一方で、他人(ひと)から「監督」と呼ばれるのを嫌い、みんなは「根元さん」、あるいは「ネズさん」と呼ばなければならない。

「職業で人を呼ぶのはおかしいやろ。『監督』は、野球にも工場現場にもおるしな。歯科医に向かって、乱暴に『医者!』と呼ぶようなもんやで」

いつかの飲み会で、そう弁舌を奮っていた。

で、出世魚よろしく、「根元さん」が「ネズさん」になるには、それ相応のつき合いが必要だけど、僕は初対面のときに「『ネズさん』と呼べ」と命令された。

いまから思えば、きっとハナから僕を運転手役に決めていたのだろう。親し気な呼び名を免罪符に、ギョーカイの新入りを身内にしたわけだ。


100メートルほどで、また赤信号にひっかかった。

信号待ちの対向車も後続車もない。ペンキの剥げた横断歩道にも人影はなく、ママチャリヘルメットの中学生が立ち漕ぎしていくだけ。都心からたった60キロの距離なのに、ひどく牧歌的な風景だ。

「銀幕のネズミ」と「浦安のネズミ」の天秤をはぐらかして、僕は青信号をおとなしく待った。監督はディレクターズ・チェアと同じ姿勢で脚を組み、ダッシュボードを小突くカンジで貧乏ゆすりを続けている。

運転手の僕は、チュウ。

これはマスコミがつけたんじゃなく(有名人じゃないから当たり前)、学生時代からの呼び名だ。国定忠治(くにさだちゅうじ)っていう昔の人にちなんで、祖父が孫の僕を忠治(ただはる)って命名したけど、「ただはる」なんて古臭い名前より、ネタ元の「ちゅうじ」の方が新しいから、そう自称している。メアドも「chu」の3字。学校の成績も、仕事の出来も中(ちゅう)ぐらい。まぁ、そんな人生だ。

そう、ネズミとチュウは日本語的には親戚関係だけど、監督は近しさや親しさで括れるような生易しい存在じゃない。


「あー、あかん。眠くなってきた」

ネズミというよりタヌキみたいな格好で抹茶色のセーターを捲り、監督はメタボリックな下腹を掻いた。

それに、もうひとつ厄介なことがある。

根元映画村(ネモトシャシンムラ)の住人たちは、「銀幕のネズミ」がそばにいないときは、誰もが「監督」と言っている。「根元さん」も「ネズさん」もNG。映画ギョーカイのしきたりの古さは相撲部屋も顔負けで、照明さんも大道具さんも記録さんも、間違っても「銀幕のネズミ」なんて口にしない。僕の知る限り、そのルールを破った衣装係がいたけど、1ヵ月もしないうちに彼は撮影スタジオからあっさり消えた。これは、飲み会の席でもタブーな都市伝説。消えたのか、消されたのか、それは誰にも分からない。

だから、僕も、当人不在のときと内なる声では、敬意を込めて「監督」って呼んでるけど、根元純夫本人の前では「ネズさん」に変換する。ややこしい!

そんな「監督」が助手席でたばこのハイライト(hi-lite)に火をつけた。マッチならではのツンとした匂いが車内に伝わり、同乗者の内藤さんが窓を開ける。

後部座席には、僕のダッフルコートと監督のMA1のジャンパーが脱ぎ捨てた洗濯物みたいに丸まり、その横で内藤さんはピーコートを肩から膝に掛けて睡魔と闘っている。原稿書きで昨晩はほとんど寝てないらしい。

監督が二口目のたばこを毒ガスのごとく吐き出したので、僕と内藤さんは同じタイミングで窓を全開にした。

宣伝担当の僕……チュウが、根元映画村でネズミさまにチュウジツなのは仕方ない。しかし、内藤さんは監督より年上で、名のあるジャーナリストで、村の住民でもない。それでも毒ガスに文句を言わないのは、持って生まれた寛容な人柄と監督へのリスペクトがあるからだ。

「ああ、浦安のネズミさんは人気もんでええなぁ。恋人のミニーちゃんも若いしなぁ」と嫌味を言う監督に、ミッキーもミニーも1928年生まれで、もうすぐ100歳だと、僕はささやかな抵抗を試みた。

「なんや、お前はそんなジジババにわざわざ会いに行くんか? 物好きやなぁ……モリさん、いくら還暦のあんたでも、ジジババはノーサンキューやろ?」

後部座席に振り返り、監督がサングラスを外してウゲウゲ笑った。ガマガエルが沼底から人間を蔑む笑い方。ルームミラーの端っこで、内藤さんは何も応えずに口をすぼめた。



(2/8へ続く)

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