第15話 初野あおいという人⑤


 〇


 六杯目のビールも飲み干して、七杯目にありつきながら、


「いたんですけど、ゴールデンタイムで働く時に、喧嘩して別れちゃいました」


 思わぬ回答が飛んできて、あおいはたちまちドキリとした。

 あかねを見くびっている訳ではなかったが、いかにも世間ずれしていなさそうな、純朴そうな彼女のことだから、片思いの男性はいても、そういう関係にまでは至っていないなどと、勝手に推測していたのである。しかも、喧嘩別れしたのもつい最近の話で、ナイーブな話題に触れてしまったのではないだろうか。


「その……喧嘩の原因とか、聞いてもいい?」


 お茶を濁すようにあおいは話を促す。深く訊くべきではないと思いながらも、少々、いや相当気になっている。


「彼が麻雀とかそういうのに結構偏見がある人で、私が麻雀にハマってるのもあんまりよく思ってなかったんです。それで、私が雀荘で働くってこと言ったら、もうひどいヒステリー起こしちゃって」


 淡々と、まるで業務連絡を伝えるかのような調子で――あるいは、ゴールデンタイムにおける業務連絡の方がもう少し感情豊かかもしれない――話す彼女に、あおいは空恐ろしいものを感じた。


「未練とかはなかったの?」


 おそるおそる、腫物に触るような口調で、更に続きを促す。


「まぁ、もともと向こうから告白してきて、私も、そこまで好きな訳でもなかったけど、まぁいいかなって感じで付き合いましたし、それに、彼、セックス下手でしたし」


 ハンマーを後頭部に思い切り振りぬかれたような衝撃だった。ずがんと、やられた。七杯目を空にしつつあるあかねの飲みっぷりを眺めながらしばらく呆然として、ジョッキがカウンターを叩く音で我に返った。


「……おしっこ行ってきます」


 ふらりと立ち上がるあかねの足取りは、案外危うげだ。顔にこそ出ていないからあおいも丸川もあまり気にならなかったが、実際彼女は既に結構な量のビールを胃に流し込んでいる。心配そうにその背中を見送るが、トイレの扉が閉まったところで、ふっとため息。


「最近の若い子って、進んでるのね……」

「あおいちゃんもそう変わらんだろ」

「私があの子の年の頃は、恥ずかしくてキスもできなかった気もするんだけど」

「それは、あの細目の兄ちゃんにか?」

「だから、彼とはもう別れたってば」


 恨めしそうに向ける視線も、どこか弱々しい。


「なんで別れたんだ? いまも飯行くくらいには仲は悪くないんだろ?」


 あおいは返答に窮した。も一度、恨みがましい目をやると、丸川も諦めたように手を挙げて、肩をすくめた。


「ま、それにしたって凄まじい子ではあるな。麻雀と彼氏を天秤にかけて、麻雀を取ったか」

「そんな子が、本走で負け続けて給料が出ないなんて、不憫で仕方ないわよ」


 ふだんのあかねが、どのくらい飲み食いするのかは知らないが、今日のがっつきぶりと、以前東出の教えてくれた通りであれば、ロクに食事も摂っていないのだろう。

 だからといって、あおいが毎度毎度彼女の食事の世話を焼く訳にもいかないし、こんな風にごちそうするのも月に一度が精いっぱいだ。


 やはり、彼女に麻雀を強くなってもらうほかない。基本はあるのだから、あとは、麻雀というゲームの理屈では量りきれないところ、人間と人間が卓を囲んでいるということを理解すれば、すぐに上達することだろう。


「そんなに負けてんのか、あの子」

「まぁ、丸川さんと知り合った頃の私くらいには……」


 さしもの丸川もひきつった笑みを浮かべるほかなかった。


「麻雀ってのは、単なる絵柄合わせのゲームじゃないからな。難しいもんだ」

「そうなのよね。両面リーチが常にカンチャンに勝つでもないし、配牌イーシャンテンが、必ず和了れるでもないってこと、実感としてわかってもらえればいいんだけど」

「あとは、あれだな。『印象操作』」

「なにそれ?」

「例えばだな――」


 と、その時、トイレから、何か大きなものが落ちる音。振り返って、しばし顔を見あうあおいと丸川。


「見てくるわ」


 ノックを二度三度、しかし中から反応はない。顔を青くして、乱暴に何度も扉を叩いたところで、ようやく中から返事のような、間延びした声が聞こえて、ひと安心。


「あかねちゃん、大丈夫? お水、飲む?」

「だいじょうぶれす。ちょっと、ちょっと、ふらっとしただけ――」


 直後、とても女子大生が発していけないような声が扉越しに聞こえて、あおいは、呆れたように、ほっとしたように大きく嘆息ついて、丸川に水を注文する。


 女子大生あかねの雄たけびが、トイレ中に響き渡る。……

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