第47話 あかね、着想


 〇


 立川ビルのエレベーターに乗り込むあかねの足取りは軽やかだ。気分は実に爽快で、いま彼女の気持ちを翳らせるものはなにひとつない。


「おはようございまーす!」


 あかね出勤恒例の挨拶も、いつにも増してハリがある。


「あかねちゃん、おはよう。もう体調はいいのかい?」

「はい、筒井さん。おかげさまで! ご迷惑おかけしました」

「誰でも調子崩すことはあるからね。でも、テストが近いんだったら、言ってくれたらシフト調整したのに。無理しちゃだめだよ」

「はい、すみません……」


 エプロンを結んでさっそくフロアに出る。一日休んでしまった分、ふだんに倍する働きをせねばと鼻息荒く意気込んでいるが、現状あかねの仕事は立ち番以外に何もない。しかしそれでも、彼女の瞳には、一年前、はじめてゴールデンタイムを訪れた時のようなきらめきが灯っている。


「おはよう、あかねちゃん。倒れたって聞いたけど、その様子だと、もう大丈夫そうだね」

「おはようございます、渡辺さん。もう万全です!」

「俺はあおいちゃんに叱られて塞ぎこんでるって聞いたぜ?」

「いいや違うよ。あの新人の女の子と喧嘩したんだろ?」


 あかねの不調は、あの時店にいた客のみならず、誤解や曲解、尾ひれがつきながらも、常連の知れ渡るところとなっていた。フリー客のみならず、一部のセット客にも伝わっているのだから、大したものである。

 原因が原因なだけにこっぱずかしい気がしなくもないが、なにはともあれ、みながあかねの復帰を祝ってくれているのが、素直に嬉しかった。


「そういえばましろさんはどちらに? 今日シフトでしたよね。……もしかして、ましろさんも体調不良とか……」

「ああ、あいつはいま買い出しに出てるよ」

「ましろさんのご実家、お寺って聞いたんですけど……」

「そうだよ。あいつ本人は、あんまり知られたくないようだけどね」


 やはり僧侶なのに賭け事をしてお酒をたらふく飲んで、しかも絡み上戸のことに、負い目を感じているのかしら。

 の話を直接本人から詳しく聞いてみたかったのだが、それはまた今度の機会にしよう。


「おはようございます、東出さん」


 そして、今日も今日とて本走の東出にも、復調の挨拶。あの時も東出は本走中だったが、彼のことだから、きっと心配してくれていただろう。


「おはよ、中井ちゃん。あれ、前髪切った? それに、ヘアゴムの色も変わってる」

「なんでそんなところ気付くんですか、キモいですよ……」

「見れば誰だって分かるだろ、そんなの!」


 東出の指摘通り、学校が終わってから出勤までの時間に美容院で前髪に手を入れ、ヘアゴムも新しいものに替えている。ゴールデンタイムで働きだしてから長らく使って傷んでいたのもあるが、むろん心機一転の意味合いもある。


「でも東出さんに気付いてもらっても、全然嬉しくないなぁ」

「言うようになったじゃん、中井ちゃん……」


 どっと同卓者からも笑いが漏れる。それに満足いったように、大いに頷いた。


「中井ちゃん、何かいいことでもあった?」

「そう見えます?」

「なんていうか、楽しそう? 今までもそりゃあ笑顔だったけど、お仕着せっぽかったからさ」

「えへへ、女の子はですね、恋をするとかわいくなるんです」

「え、うそ!」


 信じられない、という表情の東出に、あかねは挑戦的な笑顔で以て応える。


 恋をする、なんて嘯いてみたが、あながち間違いという訳でもない。当然、気になる異性ができた、ということではなく、強いて言うとするならば、メンバーという。今までも、ゴールデンタイムで働くことは好きに違いなかったが、その好意はあくまで麻雀に担保されたものだった。麻雀が好きだから、メンバーの仕事も好き、という、屋烏の愛とも言うべき慕情。


 いま、あかねは麻雀というくびきを外して、雀荘のメンバーという仕事を、好きになったのだ。


 華は、お客さんに麻雀すべてを楽しんでもらいたいと言った。

 あおいは、自分の好きなようにしなさいと言った。

 ましろは、人に与えることから始めなさいと言った。

 あかねもまた、紆余曲折の末にひとつの決断に至った。


 自分の大好きなゴールデンタイムにおいて、メンバーもお客さんもぜんぶひっくるめて、

 娯楽サービスなのだから、当たり前といえば当たり前。華もあかねも口を酸っぱくして言っていた。いまはそれでいい。


 縁だの徳だのという言葉は、あかねには難しい。意識して実践しようと思っても、空回りするだけだろう。しかし、が、それらに通底していると、あかねは信じている。

 そして、人を喜ばせ楽しむにあたって、自分がつまらない顔をしていては恰好が付かないし、なによりニコリとも笑わない人間と一緒にいて、面白い訳がない。


 だから、まずは自分がめいっぱい楽しもう。それで、その楽しさをおすそ分けができたら、本望だ。結局は自分のやりたいようにやろう。いまはそれでいい。


 お店の利益云々は、ひとまず置いておこう。そもそもあかねはいちプレイヤーに過ぎず、経営者の視点で物を語るなどおこがましいにも程がある。分相応、けれどその範囲の中でできる精一杯で、やっていくべきなのである。その結果、利益が増えれば、それでもう十分。


 あかねは、この結論がまったく正しいなどとは夢にも思っていない。またどこかで、――それは一年後かもしれないし、半年後かもしれない。あるいは、一週間後かもしれない――壁にぶつかって、うじうじ悩む羽目になるだろう。けれど、その都度、軌道修正していけばいい。先輩に叱られ、友達に甘え、後輩に慰められながらやっていけばいい。


 壁を穿ち、穴を開ける武器を、あかねはもう持っているのだから。それは、ゴールデンタイムに入って一番に教わって、そうしてそれを軸に一年間なんとかやり過ごし、後輩にも伝えたもの。


 笑顔。この境地に至って、笑顔でお茶を出す、というあおいの言葉が、三たび胸の深いところに落ち込んで、根を張った。


 笑っていればどうにかなる、とは思わないが、笑ってなくちゃどうにもならない。

 これがあかねの思い至った仕事に対する姿勢。哲学とさえ呼んでもいい。


 あおいのように洗練されている訳ではなく、まだまだ粗削りで、

 ましろのように達観している訳ではなく、まだまだ独りよがりで、

 東出のように野望に燃えてる訳ではなく、まだまだ目の前のことで手いっぱいで、

 華に突っつかれるだけで、簡単にボロが出かねないような有様で、


 けれど、これがあかねが選んだひとつの答えである。


「あかねちゃーん、ラストー!」

「はーい!」


 あかねのメンバー奮闘記は、まだまだ続く。

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