第46話 あかね、共想
〇
「先にどうぞ、華ちゃん」
「いえいえ、あかねさんこそ、どうぞお先に」
つくづく間が悪い。双方、せっかく決意を振り絞り機先を制したつもりだったのに、とんだ肩透かしを食らって、またしても黙り込んでしまう。
こうなってしまうと、いよいよ性質が悪い。向こうが先に話し出してくれないかしらと、どちらも顔色をうかがいあう。
膠着状態において我慢強いのは、明らかに華に軍配が上がる。じっとあかねの鼻先を見つめて離さない。たまらず、あかねの目は泳いだ。
と、その先で、ふと華の差し入れてくれた桃に目がとまった。
「桃、剥いてくるね」
手のひらに収まりきらないくらいの桃の果実をつかみ取り、キッチンへ向かう。一見、なんの変哲もない行動に見えるが、これでこの場の空気の主導権はあかねが握ったもの同然である。
不慣れな手つきでなんとか皮をむき、種をくりぬくのに悪戦苦闘しながらも、なんとか皿に盛りつけた、不格好なれども瑞々しい八つ割の果実。テーブルの上に供して、
「さ、どうぞ。って、私が言うのも変な感じだけど」
「……いただきます」
一口で食べきるにはすこし大振りに切り分けられたそれを、しかし華は大口で以て放り込んだ。大きい桃ほど美味しいとよくいうが、瑞々しすぎて、すこし水臭い気がした。
「それで?」
あかねの問いかけに、華の咀嚼が止まる。しかし、口の中に物が入っている以上、反駁の余地も、弁解の余地も(元からそんなものは存在しないが)ない。そして飲み込めばすなわち、
「やっぱり怒ってますか……?」
おそるおそる繰り出した言葉を、しかしあかねはすぐに否定しない。むろん、これっぽちも華に対して憤りなど覚えているはずもない。続く言葉の先を、聞きたかった。
「入って間もない私みたいなのが口を出して、気を悪くされてるんじゃないか、って」
「そんなことないよ。私だって、あおいさんやましろさん、東出さんに比べたら、ペーペーの新人なんだし。私は華ちゃんが反対意見を言ってくれて、かえって嬉しかった。ああ、そんな考え方もあるんだな、って。むしろ、私こそ華ちゃんが気を悪くしてるんじゃないかな、って思ってたよ。情けないところ見せちゃってごめんね」
「とんでもないです。でも、そんな風に言ってもらえて、ありがたいです」
華の顔がほころんだ。つられて、あかねも口元を緩ませる。ほっと一息吐くついでに、桃切れをぱくり。
「ちょっと水臭いね」
「ですね」
「塩振ったりしたら引き締まっておいしくなるかも」
「それはスイカだけですよ」
つまらない冗談だが、重苦しいさっきまでの空気を払拭するには、十分に違いない。華に足を楽にするように促して、あかね自身も、態を崩してベッドの淵に寄りかかる。
「でもさ、このままうやむやにしておいてもいいことじゃないと思うの。あおいさんが言ってくれた言葉の意味も考えなきゃ」
「というと?」
「『そういうこと』って、どういうこと、なのかな」
「たしか、ゴールデンタイムが好きとか、お客さんが好きとか、そういう話でしたよね」
特に最後の、自分がお客に好かれているかどうか、という問いが、ますます謎を深めている。少なくとも、店とお客が好きならば、身を粉にして彼らのために働くべき、だという話でないことは分かる。
そもそも、あかねはその次元で立ち止まっていたのだ。ゴールデンタイムが好きだから、もっと店の利益になるようなことがしたいし、けれどお客のことも好きだから、彼らの利益にも与りたい。
しかしこのふたつは必ずしも一致せず、またどちらかがどちらかを包括している訳でもなく、相反する部分さえある。その板挟みに遭って、あかねは苛まれ苦しんでいたのだから。
「これは私の考えなんですけど、」
と、断りを入れてから、
「雀荘の業態というのは、サービス業。その本質は、お客様に楽しんでもらう、こと。そのためには、お客様それぞれのことをよく知っておく必要がありますよね」
同意である。これは、客のことが好きかどうか、というところと通底している。
「例えば、東出さんも、局が終わった後のおしゃべりなんかも、人を見てしていると思うんです。昨日、森さんや佐藤さんと同卓している時には、いちどもしてません」
森、佐藤はどちらも無口な男性で、ひたすらに麻雀の知的ゲームとしての側面を楽しんでいる客である。何度か同卓したことのあるあかねも、局と局の間のおしゃべりはもちろんのこと、点数申告とポンやチーなどの発声以外はほとんど聞いたことがないほど。
「でも、だからといって、仮に東出さんがそのおふたりと同卓している時に、ちょっとした雑談をしたとしても、怒るようなことはないと思いませんか。反対に、原下さんのようなお客さんと打っている時に、一切の会話なく、淡々と局を進めても、不興を買うようなこともないと思います。ちょっとは残念がるかもしれませんけど」
なるほど、一理ある。とすると、華の考えというのは、
「お客さんに好かれてさえいれば、なにをしても許されるってこと?」
「そこまで言い切ると暴論ですけど、そういう接客術もあるんじゃないでしょうか」
上から目線接客、とでもいうのだろうか。理解はできるが、相手の好意を逆手に取っているようで、納得しがたい。とはいえ、あかね自身覚えのない訳ではない。ましろがゴールデンタイムで働き出す前、筒井がよく店でいたころ、確かに彼は客に対してへりくだった態度を取ることはなかった。
「あくまで、こういう考えもある、っていうだけのものなんですけど……すこしでも、あかねさんの助けになったらと思いまして……」
はにかむ華の健気さに、あかねの胸はいっぱいだった。この温かい感激を、湧き出づる感謝を、表現し伝えられるほど、彼女は口上手ではない。ただただ、一言、ありがとうと呟くのが精いっぱいだった。
「あの、その、ですから、あくまで若輩者のいち意見であって、決してあかねさんをないがしろにしている訳じゃ……」
突然、華が不自然に狼狽しだすものだから、何事かと首を傾げた。その拍子に、目じりから、温かいものがこぼれてつたった。
(私、泣いてる……?)
目元をこすると、確かに濡れている。慌てて手鏡に自分を顔を映して見ると、目は赤く充血し、鼻は膨らみ、口は歪み、それはもう、華が訪ねてくる直前の自分の部屋のような有様だった。
「ぷっ」
それがあまりに無様で、情けなく、滑稽で、ついつい笑っちゃった。
「あーもう! 馬鹿だなぁ、私。馬鹿のくせに、難しいこと考えようとして、ひとりで勝手に落ち込んで、勝手に泣いて、それから勝手に笑って!」
立ち上がり、うんと伸びをして、自分の頬っぺたをひっぱたく。先輩、友人、後輩にと活をもらって、こんどは自分自身に喝を入れる番だ。
「中井あかね、復活です! ありがとね、心配してくれて」
君子も裸足で逃げ出しかねない豹変ぶりに、華は目を白黒させて驚いている。が、あかねが満面の笑みを浮かべると、対抗するように、指で口角を吊り上げて破顔するものだから、おかしくって、笑っちゃった。
「あおいさんにも、またお礼言っとかなくっちゃ」
桃をまた一切れ、投げ込んだ。さっき食べたものよりも、ずいぶん甘い気がした。
「……ましろさんなら、どういう風に言ってくれたんだろ」
さらにもうひとつ、ふたつ。口いっぱいに頬張りながら、あかねは呟いた。
「実は、ここに来る前に、ちょっと電話でアドバイスもらえないか聞いてみたんです」
「なんて言ってたの?」
ふだん何を考えているのか、いまいちつかみどころのないましろが、どういう意見を持っているかは大変興味深い。
恋愛面ではとんちきなことを言い出す彼女だが、仕事と麻雀に関しては真摯であるし、ああいう人に限って、ふだんは表に出さないものの、その内側では、確たる考えを持っていることが、往々にあるものだ。
「人の為になることをしなさい、と言っていました」
「ずいぶん抽象的だね。その心は?」
「仕事に限らず何事も、まずは与えることから始めるべき、ということらしいです。一見、利益に関係ないようなことでも、巡り巡って何か良い結果をもたらすから、とも。そして、このギブアンドテイクの関係が縁で、縁をたくさん作ることが、徳を積むことだ、と」
今回のあかねの悩みのタネとは、すこしズレているところがいかにもましろらしいが、為になる。心のノートに書き記しておく。
「『縁』とか『徳』とか、なんかちょっと仏教っぽいね」
あかねは長らく無宗派であるので、詳しくは知らないが、それらの言葉が仏教由来ということくらいは知っている。
「そうですね。実際、ましろちゃんは僧侶ですし」
「へ?」
突拍子もない単語が聞こえたような気がして、思わず聞き返す。
「あれ、聞いてないですか? ましろちゃんの家は代々真言宗の僧侶で、住職さんもしてらっしゃいます。ましろちゃん自身も、ゆくゆくはお寺を継ぐそうです」
滔々と話す華に、冗談を言っている様子はない。にわかには信じがたいが、ましろの浮世離れした雰囲気は仏門に身を投じているゆえ、と言われると納得できなくもない。
「お坊さんなのに、賭け事って大丈夫なの?」
「さぁ……?」
「それにましろさん、お酒も結構飲むよね」
「まぁ……」
「破戒僧、ってやつ?」
「さぁ……?」
華も、一時期城崎一家の下で世話になっていたとはいえ、僧侶の戒律や実際の活動に明るい訳でもないから、気の抜けた返事をするほかない。
「ていうか、ましろさんの家族と麻雀してた、って言ってなかったっけ」
「そう、ですね。それに、お父様も、ましろちゃんに負けず劣らずの大酒飲みの方でした」
「うーん……」
せっかく、すっきりと晴れ渡ったはずの胸の中に、いいようのない、もやもやが残ったのであった。
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