第44話 あかね、独想


 〇


 目が覚めて、まずはじめに感じたのは、胸元と首回りの不快感だった。タイマーを仕掛けておいたエアコンは、とうの昔に冷気を打ち止め、あかねは、暑さのために覚醒したのだった。


 顔は天井に向けたまま、手探りでベッドの上にあるはずのリモコンを探すが見当たらない。大儀そうに寝返りを打ってみるも、見付からない。どうやらベッドの下に落ちてしまっているようだった。

 なんとか手を伸ばして取れないものかともがいている内に、そのままベッドから転げおち、ふぎゃ、と小さな悲鳴を上げて、あかねは部屋のど真ん中に、仰向けになって寝ころんだ。


 あかねは、昨夜ゴールデンタイムを欠勤した。


 一昨日の勤務を、あおいの計らいによって早上がりにしてもらい、ほうほうの体で家にたどり着き、彼女のアドバイス通りにメイク落としだけはなんとか済まして、ベッドにもぐりこんだ。

 翌日、いつもの時刻に起床したところ、あまりのけだるさと手ひどい頭痛に苛まれ、不安になって体温計をあてがってみると、三十八度を超えていた。学校へ行くのを断念し、筒井にも、早めに連絡を入れておいた。


 大学のテストがもう間もなくで、根を詰めていたのが、相当堪えていたらしい。睡眠時間を削り、ゴールデンタイムの出勤でない日もペンを握っていたのだから、さもありなん。こんなことなら、事前に筒井に言ってテスト前の一、二週間はシフトを減らしてもらえばよかったなどと後悔。


 しかし、


 例の件が関係ないといえば嘘になる。体調不良というのは口実でこそないものの、その原因の一端が、それに起因していないともいえない。

 少なくとも、いままだあかねの胸の裡には、形のないしこりのようなものが、確かに残っている。


 突然の欠勤を、筒井は気にするなといっていたが、やはり申し訳ないという気持ちはやまない。筒井自身にもそうであるし、同じ時間に働く予定だったほかのメンバーにも負担をかけてしまったに違いないのだから。


 いろんなものをないまぜにしたため息を、肺腑の底の空気をすべて外へ追いやるように吐き切ると、すこしだけ、体が楽になったような気がした。

 幸いにも今日は正規の休みなので、今日中に体調を万全にすればまた明日からは問題なく働けるだろう。そう思って、再びベッドで横になろうと身じろぎするが、


(お腹減ったな。それに、熱も測っとこうかな)


 いくら病人といえど、一日中床に臥せっているのも不健全に思えて、そろりそろりとあかねは動き出した。体温計を小脇に挟み、カーテンを開く。とたんに、夏の燦々たる太陽光が降り注ぎ、たまらずのけぞった。


 そこで、ようようあかねはいまの時刻を確認する。現在午前十一時。部屋の中が暑いのも納得である。あかねが昨夜ベッドに入る間に時計を確認したときは、まだ十時にも至っていないくらいだったから、半日以上も眠っていたことになる。


(熱はもうないけど、まだ頭がぼーっとする。寝すぎたせいかな)


 なにはともあれまずはシャワーを浴びて汗を洗い流そう。エアコンのリモコンは自分の体の下敷きになっていた。スイッチを入れて、立ち上がる。

 長らく掃除というものを怠っていたために、衣類や小物類が散乱して足の踏み場のない部屋の中を、抜き足差し足で通り渡って、まずはひと風呂。


 風呂は命の洗濯、とは誰の言った言葉だったか。自分の体から汚いものが流れ落ちていく感覚は、癖になる。髪先から滴り落ちていく雫を見つめながら、どうか胸のわだかまりも一緒にそそいでくれないものかしらと、とりとめもないことを考えていた。

 浴室から出る頃には、すっかり冷気が充満していて、シャワーのお湯で温まった体には心地が良い。


 昼食は買い置きのカップラーメンと、冷凍のごはんで事足りるだろう。ゴールデンタイムのシフトを週五本にしてからというもの、食事の時間や頻度が不定期なことが多いためか、胃が小さくなっていることを実感していた。

 特に、テストが間近になってから、食べると眠くなるという理由でコーヒーで代替していた。体調不良の理由は不摂生にもあるのかもしれない。

 お湯を注いで三分待って完成。その間にご飯も温めて、昼食の出来上がりである。


(ひとりでご飯食べるのって、すごい久しぶりな気がする)


 ずるずるとラーメンをすすりつつ、ぼんやりと思う。昼は大学で南条と一緒で、夜はゴールデンタイムの誰かと食べること最近は多かった。


 あかねの手が止まる。その目は、前を向いて、どこでもないどこかを虚ろに映している。


 ひとり暮らしで体調を崩すと、たまらなく不安になる。もしもこれがただの体調不良ではなく、なにかしらの、重篤な病だったとして、ともすれば、だれにも気づかれぬまま寂しさのまま死ぬる、なんてこともありますまいかしら?


 現代の世で、実際にそんなことは起こり得るはずはなく、端末を軽く指先で操作すれば、友達はもちろん、家族、警察や病院にも簡単に連絡を取ることはできる。


 不安を拭い去るように、いそいそと携帯を取り出して、南条にメッセージを送る。

 すぐに返信があるかしらと思ってしばし画面を見つめてみるが、待てと暮らせど変化なく、面白くなくなってベッドに上に放り投げた。


 ほかの友達数人にもメッセージを飛ばしてみるが、梨のつぶてに終わる。なんだか、自分が外界から隔離され、自分の部屋という世界にひとりぼっちになってしまったような錯覚。

 心細くなって、テレビの電源を入れて、いろいろとチャンネルを巡り、結局お昼のワイドショーなんかに落ち着いて、よく知らない芸能人の離婚騒動や不倫疑惑について姦しく騒ぎ立てるコメンテーターたちを、ぽかんと眺めている。ふだん聞いて話している日本語が、まるで遠い異国の地の言語のようだ。


 いよいよつまらなくなって、テレビも消してしまった。


 食べ終わった食器やゴミを机の上に残したまま、あかねはそのまま横になった。床に散らかった衣服がちょうどよい塩梅にマットレスみたくなって、満腹感もあいまってこのまま寝入ってしまえそうだ。


 真っ白な天井を見つめながら、あかねの頭に去来するのは、ゴールデンタイムのこと。


 冷静になって思い返してみて、あかねは、なぜ自分がああまで取り乱してしまったのか、不思議でならなかった。確かに、天狗になった鼻をへし折られて、ショックに違いなかった。が、あおいや華に説かれ慰められしても、それでも立ち直れなかったのはなにゆえか。


 そして、なにより不思議なのは、

 いまなおそのショックを引きずり続けている。

 正体定かならぬ不和感のようなものが、胸の裡を占拠している。


 いくら考えても、いくら悩んでも、答えの見つからぬ――あるいは、問いさえも?――堂々巡りの泥沼にはまり込んで、身悶えしちゃう。


 今日もこのまま眠ってしまおう。そう諦めて、やおら目を閉じ始めた時、ふいに携帯が鳴って、あかねは跳ね起きた。


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