第43話 お店の利益とお客の利益③
〇
正体を失いかねないほどに落胆するあかねも目の前に現れたのは、
「あおい、さん。お久しぶりです」
「久しぶり。……本当に、どうしちゃったの?」
わずかに顔と視線を傾けるだけの所作で、あかねはあおいの姿を認めると、これまたほんの小さな会釈で以て挨拶をする。数カ月ぶりの再会に、喜び抱き着くくらいのことはあるだろうと構えていたあおいは、面食らった。
「その……私がちょっと言い過ぎたといいますか……」
「言い過ぎた? あ、もしかしてあなたがましろさんの後輩ちゃんかしら」
あかねが他人の批難や指摘を受けて、これほどまでに落ち込むというのも、奇妙な話である。かつてあおいも、あかねが大ポカをやらかし、キツく叱ったこともあるが、そんな時でも、拗ねることはあれ、泣き出したり、意気消沈の体に陥ることはなかった。
「えと、四方津華と申します」
「ましろさんに聞いてた通りかわいい子じゃない。私は初野あおいです。それじゃもうちょっと詳しい話を聞かせてもらってもいい?」
カウンターの中で、メンバーが三人も集まっているというのは、傍から見てあまり良いものには映らないだろうから、東出に断りを入れて、ひとまず待機ソファへ移動。
「それで、なにがあったの」
あおいの口調は決して華やあかねを叱責しようというものではない。努めて柔らかく、深刻めいていない語り口に、自然と華が応える。
「実は、かくかくしかじかで」
うろたえながらも一生懸命に起こった出来事を説明する華に、あおいもまた神妙に頷き返している。そして、
「――という訳なんです」
「なるほどね。お店の利益とお客さんのことをどう天秤に取るか、ってことね」
果たして、あおいはいかなる結論を出すのか。あかねも上目遣いで、息を潜めて答えを待つ。ごくりと、華の喉を、生唾が落ちる。
「考えたこともなかったわ、そんなこと」
あっけらかんと、言い放った。もしやすっとぼけているのではあるまいかと、あかねはあおいを睨むが、呆れるように首を振るばかり。
「そんな怖い顔で見ないでよ、あかねちゃん。別にふざけて言っている訳じゃないんだから」
あおいにあしらわれて、あかねは再び顔をうつむかせた。
「いまでこそ東出くんもああやって素早く局回しができてるけど、昔はそうでもなかったのよ? ふつうのお客さんみたいにおしゃべりに夢中になって局が止まったりすることもあったし。それでね、ある日あんまりにも酷いから、筒井さんに大目玉食らっちゃってさ。そんなんじゃ、いつまで経ってもゲーム代が上がらんだろうが、ってさ」
「お店としては利益優先、っていうことですか?」
あかねの、絞り出すように発した問いに、あおいは即座に応えない。煙草をひとくち、もったいをつけてから、
「そういう訳で筒井さんも怒ったんじゃないの。実はその時、東出くんが入ってると、進行が遅いって苦情もいくつかあってね。筒井さんも、方便でそう言ったんだと思うわ」
そんな風な答え方をされると、なおさら頭がこんがらがってくるというものだ。ただでさえ前後不覚の精神状態だというのに、これ以上煩瑣難解な回答をされたところで、なんの救いにもなりゃしない。
「難しく考えすぎよ、あかねちゃん。でも、強いてどちらかの立場につくとしたら、やっぱり私はお客さん第一だと思うわ。お客さんに楽しい時間を過ごしてもらって、そのお礼としてお金をもらうのが、接客業の本懐なんだから」
「それじゃあ、一半荘あたりの時間を短縮するような局回しは、いらないんですかね……」
「もう、だから考え方が極端なんだってば。あかねちゃん、そういうところあるわよね。むしろ私は、より良いサービスを提供するのに、多少はさっさと進めないといけないと思ってるけどな」
あおいは東出の本走卓を見やった。つられて、ふたりの視線もそちらへ向く。場面は、南一局が親の和了により平局したところで、東出が伏せようとしている上家の手牌を覗き込んで、おどけるように、
「あちゃー、藤川さんにこれ通ってたんすね。だったら、一枚くらい押しときゃよかったっすわ」
「そんなこと言って、東出は二軒リーチ入ったら親でもすぐオリるくせに」
「んなことないっすよー」
なんてやり取りをしながら、牌を落とした。
楽しげな応酬には違いないが、局の進行が多少滞ったことは否めない。が、それを同卓者が不快に思っている様子もない。
「ほら実際、東出くんも局と局の間にあんな風におしゃべりしてるでしょ? でも、毎回毎回やってる訳じゃないから、他のお客さんも特に嫌がることもないし。要はバランス。もしかすると、東出くんならこう言うかもしれないわね。『俺は、少しでもおしゃべりがしたいから、とっとと局を進めてるんだ』ってね」
「…………」
あかねの目は、膝の上で握り固められた両拳に落ちてから微動だにしない。時折、わずかに指先が動く。隣で縮こまって座る華には、かける言葉が見当たらない。
あおいは、適切な言葉を探すように、二三度、上唇を震わせてから、
「あかねちゃんのやりたいようにすればいいのよ。少しでも利益を上げたいっていうんなら、それでいい。お客さんとコミュニケーションを取りたいといんだったら、それでもいい。当然、節度はわきまえた上でね」
この話はこれでおしまい、とでも言わんばかりに、やにわに立ち上がる。が、あかねも立ち上がるどころか、うつむいたまま、やはり動こうとしない。しばらく待ってみても、あかねの静かな息遣いが、周囲の物音に紛れて聞こえるばかり。
あおいはいよいよ観念したように細長いため息を漏らした。
「ね、あかねちゃんはさ。このゴールデンタイムが好き?」
叱るようでも、あやすようでも、慰めるようでもない、ちょうど友人に食事の好みでも尋ねるような、素朴な軽やかなあおいの声音。
「好き、です」
返すあかねの声は、いまにも泣き出してしまいそうなかすれ声。
「じゃあお客さんは?」
「時々、怖い人もいますけど、好き、です」
ずず、と鼻をすすりながら答える。
「それじゃ逆に、自分はお客さんに好かれてる、って思う?」
思いがけない質問に、あかねは返答に窮した。
力強く肯定できるほどあかねは自意識過剰ではないし、かといって、とんでもないと否定できないほどには、多くのお客さんによくしてもらっている自覚もある。
「私はね、我ながら好かれてるなぁ、って思ってるの。ゴールデンタイムでも、あっちの方のお店でも」
しみじみと感慨深く述べられたその言い草に、ようやくあかねは面を上げた。涙こそ流していないものの、くしゃくしゃに潰れた泣きっ面である。指で軽く小突くだけで、いまにも何もかも溢れ出してしまいそうなほどに張り詰めている。
「やっと真正面から見てくれた。改めて久しぶりね、あかねちゃん」
「おひさし、ぶりです」
「あかねちゃんはね、難しく考えすぎなのよ。結局は、そういうことなんだから」
あおいの言う、そういうことが何を指しているのか、あかねには分からない。彼女の目をじっと見つめて、続きを促そうとするが、静かに笑ってかぶりを振る。
「今日はもう帰って、そのまま寝なさいな。お風呂も明日でいいから。あ、お化粧はちゃんと落とさないとひどいことになるから、それだけはちゃんとしなさいよ?」
両脇に手を突っ込まれ、赤ん坊を抱きあげるみたいに強制的に立ち上がらされ、あれよという間に帰り支度も準備され、気付けばエレベーターの中にまで放り込まれていた。別れ際に手を振るあおいに、なんとかお礼を言って、あかねは立川テナントビルを後にした。
生温い風が、七月の蒸し暑さとともに頬を撫でつけていって、たまらなく不快だった。
翌日、あかねははじめてゴールデンタイムを休んだ。
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