第35話 何事も、まずは話し合うところから


 〇


 香る、肉の脂の焦げる匂い。たまらずあかねは涎を垂らしそうになって、唾をすすった。


 食事に誘ってみたものの、まだ未成年である華に居酒屋は厳しかろうと思い、あかねが選んだのは、丸川の焼肉屋であった。

 以前あおいにごちそうになった時は、後半の記憶がさっぱりないため、お会計がいくらだったのかは判然としないが、少なくとも財布の中に一万円札が五枚あれば不足するという事態にはならないだろう。

 今月の懐事情的には辛いものもあるが、かわいい後輩のためであると自分に言い聞かせて、通帳残高をぜんぶ握りしめてやってきた。


 何度か連絡を交わす内に、華の下宿先がこちらに近いということで現地集合になった。彼女のことであるから、きっと待ち合わせ時刻の十分前に現れるだろうと思って、あかねは十五分前からスタンバイしている。が、なんとも肉の匂いが魅力的に過ぎて、中に入って先に注文しておこうかしらなどと鎌首をもたげてくる。


「中井さん、お待たせしました」

「ううん。私がちょっと早く来ちゃっただけだから。入ろっか」


 のれんをくぐって、店内に入ると、脂とタレのにおいが鼻腔と胃袋を猛烈に刺激する。この日のために少しでも節約しようと、最低限の食事だけで過ごしてきたため、もはや立ちくらみまで起こりそうだ。


 丸川には事前に連絡していたため、すっかり用意の行き届いたカウンター席に通される。


「あの、中井さん……ここって、もしかして……」


 華が、かつての自分と同じ目をしているのが面白い。


「ねぇ、四方津さん」

「は、はい」


 すっかり恐縮してしまっている華は、ゴールデンタイムにいる時とは違って、しおらしい。


「店の外では、私も華ちゃんって呼んでもいいかな?」

「ええ、はい。どうぞ」

「ありがと。私のことも、あかねでいいからね」


 まずは互いの呼称を変えること。それが親睦を深めるための第一歩であると、あかねは信じている。華の方もまたまんざらではないようで、こくりと頷いて、小さくあかねさんとこぼした。


「丸川さん、タンとビールください。華ちゃんはウーロン茶でいい?」


 すかさず出てきたビールとウーロン茶を受けて、まずは乾杯。


 喉を鳴らしてビールをかきこむ。華がちびりちびりと舐めるようにウーロン茶で口内の渇きを潤す間に、あかねは半分ほど胃の中に収めてしまってから、ジョッキをテーブルに置く。

 一息吐いたところで、まずはなにから話そうか。華とは存外に共通点が多い。同じ大学であること、下宿生であること、同じ職場であること、そしてなにより、麻雀が打てること。話のネタには困らない。


「華ちゃんは、いつから麻雀打ってるの?」


 とまれ、まずは麻雀の話題から始めるのが無難に違いない。


「……以前にもお話ししたと思いますけど、ましろさんのご家族にお世話になっていた頃ですから、……十年前、くらいになるでしょうか」

「じゃあ、麻雀歴でいえば、華ちゃんの方がずっと先輩だね。私なんか、大学に入ってから覚え始めたからさぁ」

「そうなんですか? でも、あかねさんの麻雀、私はすごくいいと思います。教科書通りというか、お手本通りというか、……、いえ、決して馬鹿にしているとか、そういうことじゃなくって」


 しどろもどろに答える華の印象は、ゴールデンタイム内でのそれとは正反対といってもいい。もしかすると、いまの彼女の態度が素なのだろうか。そう思うと愛らしい。


「下手なのは自覚してるから大丈夫。まぁ、それでも働き始めよりかは、すこしはマシになった……かな?」


 先月の収支は沈んでいたが、先々月は黒字であったし、多少は実力がついたという自覚もある。当然、ましろやあおいには及ぶべくもないが。


「こんなこと聞いていいか分からないんですけど……その、やっぱりお給料が出なくなることってあるんですか?」

「あるよー」


 遠慮がちな華の問いに、しかしあかねは、至って軽々しく答えてみせる。


「入って三か月くらいは、いっぱい負けて、お昼ご飯食べるのも辛いくらいで。ちょっと麻雀のことが嫌いになりかけてたんだけど、でも、結局それって自分が弱いからだなぁ、って。それから、先輩のメンバーの人にいろいろ教わったり、ごはんおごってもらったりして、また頑張ろう、って」


 要領の得ないあかねの話を、華はもっともらしく頷きながら聞いている。いまだ本走未経験であるがゆえに、先輩メンバーがカウンターの日報に赤字を書き込むのを見て、内心不安がっていたのである。

 一年前の記憶を思い返していて、はたとあかねは気付いた。自分の口上が、我ながら妙に深刻めいていないことに。当時は、勝てぬ我が身を恨んだし、ゴールデンタイムで働き始めたことをちょっぴり後悔することもあったというのに、いまの自分の気持ちに、暗い陰はない。どころか、きっとからりと笑って話すこともできるだろう。


 ちらと華の方を見やる。彼女はというと、ウーロン茶のグラスを握りしめ、伏し目がちにあかねの話に耳を傾けている。

 その様子を見て、あかねは、この奇妙な感覚にようやく合点がいった。


 自分は、ゴールデンタイムにて一年間働き続けてきた、メンバーなのである。一年分の経験を、善きにつけ悪しきにつけ、してきているのである。苦い思い出も少なくはなかったが、それさえも、またいまのあかねを形作る妙味に違いない。


 そしていま、あかねの目の前には、華という少女がいる。彼女は、一年前にあかねが通った道に踏み出そうとしている、後輩メンバーなのだ!

 事ここに至って、はじめてあかねは自分が先輩という実感を得た。なんだかお腹の底からふわふわして、愉快な気分になる。ビールを飲んじゃっているせいかしら?


「大丈夫だよ、華ちゃん」


 あかねが呼びかけると、華は弾けるように顔を上げた。続く言葉を待つ。


「こんな私でも、なんとか一年やってこれたんだから、華ちゃんならきっと大丈夫。ていうか、きっと半年で私なんか追い抜いていっちゃうよ」

「そ、そんなこと! これからも、ご指導ご鞭撻、お願いします!」


 華が畏み畏みお辞儀をするので、あかねはついつい噴き出してしまった。つい先日まで、彼女の肩肘張った姿にいちいち怯えたりなんかもしたものだが、いまになってみればちゃんちゃらおかしい。


「ところでさ、華ちゃんはどうしてゴールデンタイムで働こうと思ったの? ましろさんに勧められた?」

「ましろちゃ……ましろさんが大学生の頃に雀荘で働いていたのを、知っていましたから、それで、私の方からお願いしたんです。どうして、って言われると……やっぱり、麻雀が好き、だからだと思います」


 あかねは、内心小躍りしそうなくらいの心持ちであった。


 麻雀が好き、とはっきりと言葉にする女性は少ない。例えばあかねを麻雀の道に誘った南条も、おそらく麻雀好きに違いないのだが、そうと発言することはないし、衆人環視の中でそう言ったことを口にすれば、距離を取られることは請け負いである。

 感動にも似た甘い響きを胸の裡にいっぱいにしながら、あかねは努めて無表情を装って(実際は口元がひくひくしているが)、感謝の気持ちを伝えんばかりに、焼きあがったばかりのタンを華の小皿の中に放り込んでいく。


「食べて食べて!」

「い、いただきます!」


 あの時のあおいもこんな気持ちだったんだろうか、などと想像しながら、あかねは残ったビールを流し込んだ。


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