第9話 給料が出ない!⑥
〇
食堂の人混みに消えていった南条を見送って、あかねは盛大なため息をひとつ、ふたつ、みっつ。ため息は幸せを逃すというが、出るものは仕方ない。
大好きな麻雀を打ちながら、その上給料までもらえるなんて、なんて幸せな職場なのだろうか! というのは、甘い甘い幻想であった。それこそ、いまあかねが飲んでいるコーヒーのような。
本来の味がしなくなったコーヒーをちびり。すっかり冷めきったそれは、もはやコーヒーと呼べるかすらも怪しい。
伸びた前髪の先をいじりながら、唇を尖らせる。いまの私は、みじめだ。
「お待たせ。ほら、ケーキ付きやで。ウチはこっちのフルーツタルト」
「ケーキ!」
とたんにあかねの瞳がぱっと輝いた。ケーキなんて、当然ここ数カ月食べられるべくもなかった。ショートケーキの苺のつややかさに目を奪われて、よだれの垂れるのにも気づかない。
「こらこら。ばっちいばっちい。……ほんで、実際どうなん?」
「ショートケーキが一番好き!」
「いやあんたのケーキの好みやなくって。雀荘の方」
冷やし中華そっちのけで、素手でショートケーキにつかみかかろうとしていたあかねの手がぴたりと止まる。そろりそろりと上目遣いで南条を見上げ、
「麻雀は好きだし、先輩のメンバーの人にも、店長さんにもよくしてもらってるし、お客さんもいい人ばっかり……でも」
「でも?」
「お給料が出ないのは、正直しんどい」
「それは、好きなモンも食べられへんから?」
あかねは静かに首を振る。乾いた唇を舐め、苺の先端にじっと目の焦点を集め、
「なんのために働いてるんだろう、って思う。そりゃ別にお金が欲しくってメンバーになっただけでもないけど、自分の仕事が評価されていない気になるっていうか……」
フォークでケーキのクリームをもてあそぶ。いじけているつもりはないが、連日気の重いのは事実。給料の出ないことを他の誰かに愚痴をこぼそうにも、同じメンバーの者は、アドバイスを寄越してくれることはあっても、温かい言葉を掛けてくれることはなく、存外に冷ややかであるし、他の友人に話しても、先ほどの南条のように「負けるやつが悪い」論を振りかざす。が、実際それが正しいのであるのだから、あかねは言い返すこともできない。
「お金が欲しい、とか、慰めてほしい、って訳でもないんだけど、やるかたないっていうか、さ」
フォークの先についたクリームを舐めとって、舌鼓を打つ。おいしい。おいしくって、涙が出そうになる。
「ほな、辞めたら?」
南条の言葉に、あかねは閉口した。これもまた、何度も言われた台詞である。辞めればいいじゃん、と誰もが口をそろえて気軽に言う。けれど、そう単純なモノでもない。雀荘のメンバーという仕事が楽しいのは確かだし、続けたいとも思う。
ただこのままで生活が立ち行かなるのも、また事実。
「……あたしって、この仕事向いてないのかなぁ」
ショートケーキを平らげてしまって、げっぷと一緒に弱気をこぼす。皿についたクリームを食い意地汚くこそぎ取ろうかとも思ったが、さすがにはしたなくてやめた。
「ウチもな、いま居酒屋でバイトしてるねんけどな」
フルーツタルトのキウイを口に運ぶ途中で南条は切り出して、しかし、言いにくそうに言葉を切った。ちょっと逡巡し、もう一度口を開く。
「ウチ、おっちょこちょいやから、よう注文間違えるし、食器も割るし、ほんで愛想もええ訳ちゃうし」
訥々と語り出したのは、南条の身の上話。気後れしているのか、それとも、気恥ずかしいのか、あかねとは目と合わせないように、目はスイーツに落としたまま。
「店長もすぐドツきよる人やしな。まぁ、ドツかれるんはそない気にならへんかったけど、それでも、働いてから三か月くらいで、辞めようかなぁ、思たわ。でもなんか、それで辞めたら、自分が居酒屋のバイトひとつできへんやつみたいで悔しかったし、店長にドツかれて逃げ出したみたいで嫌やん?」
南条もまたフルーツタルトを平らげて、フォークについたカスタードをねぶり取る。そうして、咳払いひとつ、あかねに向き直る。
「それでそうこうしてる内に、もう二年近く働いとるわ。それでもたまに、ミスすることあるけどな。いまだに店長も手出してきよるし。今度、こっちからしばいたろかな」
あかねが、あんまりにも神妙な顔つきで南条の話に聞き入っているものだから、いよいよ南条も照れくさくなって、頬のかきかき、
「あー、ウチの話するんはやめやめ! ま、ウチが何を言いたかったかっていうと、向き不向きはそんな半年そこで分かるモンちゃうし、案外自分で分かるモンでもない。そら給料出ぇへんのはしんどいやろうけど、もうちょっと続けてみたら、ってこと! メンバーの仕事がどんなモンか分かれへんさかい、ウチが言うんもどうかとは思うけどな」
早口でまくし立てて、ふぅと一呼吸。半分ほど飲みかけていたフラペチーノも一気に飲み干してしまって、頬杖かけてそっぽを向く。逸らした視線の先では、真夏の太陽が燦々と光を放っていて、たまらず、南条は目を眇めた。
「……中井ちゃん?」
いつまで経っても何も喋らないあかねが気になって、姿勢はそのまま視線だけを戻すと、
「南条!」
いまにも抱きつかんばかりの勢いであかねが身を乗り出してきて、のけぞった。あかねの腕が空を切る。
「な、なんやねん!」
「ありがとう!」
あかねは、感動していた。というのも、ふだんはけちんぼな南条が昼食とケーキをごちそうしてくれたばかりか、親身に話をしてくれたこと、その上、自身の失敗談まで引き合いにだして、元気づけようとしてくれたこと。興奮のあまりに握手まで求めだすが、冷たくあしらわれて、我に返る。
「ありがと、南条。私、もうちょっと頑張ってみる。また、おなか減ったら南条に相談するね」
「本音出とるやん。しんどなったら、やろ」
あ、そうだったとはにかみ笑うあかね。彼女の袖に、食べ終わったケーキのクリームが付いているのを見つけて、南条は小さく鼻を鳴らした。
はたして、メンバーあかねが、おなかいっぱい食べられる日は来るのだろうか。
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