第39話 番外編 ゴールデンタイムで一番暇な日


 〇


「暇ですねぇ」

「そうですね」


 午後七時、いつもの時刻にエレベーターの扉を開いて、あかねは、自分が異次元にでも足を踏み入れてしまったのではないかと思った。目をぐしぐしと何度も擦って、目の前の光景を何度も見直してみるが、なにも変わらない。これは現実に違いなかった。


 この時間帯に、フリーも、セットすらも立っていない状況というのが、ゴールデンタイムに存在することが、信じられなかった。

 いつもは溌剌のあかねの挨拶もどこか気の抜けたものとなってしまったのも、仕方のないことだろう。


 そしてそれから一時間が経過した、現在午後八時。やはり、だれもエレベーターの扉を開く者はいない。


 あかねはましろとふたり並んで、カウンターの中で退屈を持て余していた。

 同じく勤務中の東出は、その風体に似合わず読書家のところがあるようで、聞いたこともない作者の文庫本を熱心に読みふけっている。


 ましろの口からあくびがまろびでる。さしもの彼女も、いかんともしがたいらしい。


「暇、ですねぇ」

「そう、ですね」

「恋バナでもしますか?」

「恋バナですか」


 ぼんやりと話半分の返事を寄越したましろが、もひとつ漏れ出たあくびを途中で噛み殺して、目を白黒させながら、


「いま、なんて仰いました?」

「ですから恋バナ」

「恋バナ、なんて、そんな……」


 みるみる内に耳まで真っ赤にするましろがかわいらしい。


「ましろさんの好きな人については聞きたくもないので、誰か別の人の話をしましょう」


 ましろが懸想をする男性は、あかねの実の兄であり、彼女は兄に対してあまり良い感情を抱いていない。


「もう。あかねさんのお兄様は、とても素敵な方ですのに……」


 ちなみに、あかねはあの惨鼻極まった居酒屋の後日、実はあの時の話は酔った上での冗談ではなかったのかと改めて問いただしてみたが、ましろは照れ照れしながら間違いないと答えて、それ以上は呆れてものも言えなかった。

 いったいあの馬鹿のどこに惚れたものやら。が、これを言い出すと平行線なので、今回の提案である。


「例えば……西戸さんとかどうなんですか。あの人、今年で三十になるんじゃなかったでしたっけ」

「どうなんでしょう。西戸さん、無口な方ですし、あまりお話ししたことがありませんので……」


 それもそうか。そもそも、あかねも西戸についてはほとんど何も知らない。彼が筒井以外と話をしているところもほとんど見たことがない。


「じゃ、じゃあ華ちゃんとか。大学生になったんだから、浮いた話のひとつくらい」

「華さんでしたら、高校生の頃から交際されている男性がいらっしゃるらしいですよ」

「マジか」


 思わずぽろりと本音がこぼれ落ちた。華を侮っていた訳ではないが、その割には生娘のような乳臭さが腑に落ちないだけである。


「その彼氏さんも、華さんと同じ大学に入学しているとお聞きしましたから、あかねさんの後輩ということになりますね」

「マジか」


 再び本音がまろびでた。そもそも学部が違うからといって、一度も校内で(お昼時でさえ)華の姿を目撃したことがないのが、どうも妙だと思っていたが、これは華があかねと出くわすのを意識的に避けているに違いない。

 ランチくらい、その彼氏某と一緒に食べるはずだから、見つかってしまった時にあかねにからかわれるのを見越して、学外に食べに出ているに違いない。


 そう考えると、(すべてあかねの思い込みに過ぎないのだが)なんだか無性に腹立たしく思えてきた。そして何としてでも、その男の面を拝みたい。

 もしも華が校内で彼氏と連れ添って歩いているのを偶然発見しただけなら、あかねも何気ない対応に終始しただろうが、華の方から意図して隠し立てするというのなら、あかねとしてもただで済ませるつもりはない。隠匿されたものをこそ、暴きたくなるのは果たして人間の性か。


「あっ、そういえば、男性と交際していることは、ゴールデンタイムの皆さんには言わないでほしい、って口止めされてましたのに」


 なんて、ましろも白々しく口に手を当てるものだから、見かけによらずなかなかの茶目っ気である。それにしたって、彼女もまたワルである。この話の相手が東出ならば、次回の出勤の際に一度冷やかされるだけで終わったに違いないのに。


「ところで、あかねさんは、どんなタイプの男性がタイプなんですか?」


 いよいよましろも興が乗ってきた。あかねとしてもどんとこいである。


「そうですね……わりと年上が好きです。あとは、やっぱり身長もほしいですね」

「だったら、まさしく俺なんか優良じゃないの?」


 いつの間にやら読書を終えていた東出が、わざとらしく恰好を付けて、ふたりの会話に割って入る。


「東出さんは、顔は割と好みで身長あるのもポイント高いですけど、それ以外がまったく私の心に響かないんでダメです」


 一刀の下に斬って捨てた。このやり取りも既に二度目なので、東出はなんとか平静を装いつつ、咳払い。


「そういう東出さんは、どんな女の人が好みなんです?」

「俺? そうだなぁ、年下で、小柄で、若干子供っぽいくらいの女の子が好きかな。あ、おっぱいはちょっとあった方がいい。まさしく、中井ちゃんみたいな女の子――」

「セクハラで訴えますよ、東出さん」


 ぴしゃりと、こんどは叩き潰すように。隣では、ましろが心底おかしそうにくすくす笑っている。


「あとは……あおいさん、かなぁ」


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