第13話 初野あおいという人③


 〇


 窓から見える光景は、あかねにとってまったく未開の地で、停車した車の扉をおっかなびっくり開く。とたんに、焦がした肉とタレの匂いが鼻腔をくすぐった。くぅ、と小さく腹の虫がなって、慌ててあかねはお腹を押さえて照れ笑い。


「いらっしゃい」


 店内に入るとこれまたとてつもないにおい。もはや暴力ともいえるほどの強烈な香りに、身震いすらしてしまいそうになる。


「丸川さん、来たよー」

「おう、あおいちゃんかい。そっちの子は?」

「な、中井あかねと言います。あおいさんの後輩です」


 丸川、と呼ばれた男は、背の高い浅黒い肌の男で、年のころは筒井と同じくらいだろうか。笑った時に欠けた前歯が見えて、強面ながら愛嬌がある。


「へぇ、どっちの?」

「筒井さんの方。席どこ? 奥?」

「てっきりアフターだと思ってカウンターで取っちまったよ。個室にするかい?」

「ううん。カウンターでいいよ」


 あかねちゃんは? とあおいが視線を向けてくれるが、あかねは焼いた肉が食えればなんでもいいので、小刻みに首を縦に振るばかり。

 丸川の案内で少し奥まったカウンター席に通される。椅子に座った目の前には七輪がひとりひとつずつ。見上げれば、換気用の排煙口。


「あかねちゃん、嫌いなものとかある?」

「ないですないです!」

「よかった。ここね、タンがすごくおいしいのよ」


 あおいの合図で丸川が差し出してくれた皿の上には、大振りのタンが四枚。それが、ひとり一皿ずつ出てくる。なにもかも、あかねの想像していた「焼肉」と違った。

 あかねの知る「焼肉」は、テーブル席に円形の炭火コンロがひとつ用意され、肉を注文すると、大皿にロースやハラミの肉のバラエティが提供される、というものだ。

 ちょっと不安になって、小声で耳打ちするように、


「あおいさんあおいさん、もしかしてここって、結構高いんじゃあ……」

「うーん……」


 もったいぶるようにあおいは、顎先に指を当てて、


「どう思う?」


 小悪魔っぽく微笑んだ。

 これは絶対に高いやつだ!


 ありがたく思うのと申し訳なく思うのと同時に、あかねは一生あおいについていこうと思った。


「丸川さんウーロン茶ひとつと、……あかねちゃんは? お酒飲める?」

「え、あ、はい。いただきます」

「生? チューハイ?」

「ビ、ビールを……」


 つい勢いで返事をしてしまったが、高級なお肉をごちそうになってその上お酒までごちそうになっては、やはり申し訳なさが先立つ。さっきまで自己主張の激しかった腹の虫も、なんだか少し引っ込み思案だ。


「はいよ、生とウーロン茶お待ち。あかねちゃん、だっけ? ジャンジャン食いなよ」

「いや、でも、その、私」

「気にしない気にしない。今日は私が無理矢理連れてきたようなものなんだから、遠慮しなくていいの。ほら、網もあったまってきたわよ」


 するりとあおいの箸が伸びてきて、ぺとりと七輪の上にタンが落ちる。


(い、いいにおい……)


 しかし腹具合というのはいつでも正直で、脂の滴る様子、その脂に引火した炎が肉をあぶる匂いに、すぐさまよだれが止まらなくなる。


「い、いただきます」


 それからあかねは、無心になって、肉を口へ運んでいく。

 タン、タン、ビール、ビール、ナムル、タン、ビール、追加で出てきたロース、ビール、ロース、ロース、キムチ、そしてとどめとばかりにカルビ、カルビ、ビール、ビール、カルビ。

 あかねが正気に戻ったのは、五杯目のビールを空にして、ひと段落つき、ふと、肉の焼ける匂いのほかに、かぎなれたにおいを感じた時だった。


「あれ、あおいさん」


 隣を振り向けば、あおいが紫煙をくゆらせながら、微笑んでいる。


「煙草、吸ってたんですか?」


 煙をひと吸い、そして吐き出す仕草が、唇がなまめかしい。


「うん、まぁね」

「でも、お店じゃ」

「ゴールデンタイムじゃ吸ってないキャラでいってるからね。たぶん、いまのゴールデンタイムで知ってる人は、筒井さんと東出くんくらいじゃないかしら。ほら、やっぱり煙草を吸う女って、ウケが悪いじゃない。だから内緒ね」


 煙草の火をにじり消し、ウーロン茶を一口。


「引いた?」

「そんなことないです。でも、あおいさんって、不思議な人だなぁ、って」


 あおいは、訝しそうに顔を歪めて、


「どういうこと?」

「えっと、あおいさんって、店でのシフト週三じゃないですか。ほかの日は何をしてるのかな、って。ほら、今日も、結構夜遅くに来てたりしたじゃないですか。それに、週三シフトじゃ食べていけるような給料じゃないですし」


 なるほど、ともっともらしく頷いて、あおいはも一度グラスに口をつけ、頬杖を突いて、蠱惑的な流し目であかねを見つめながら、


「あかねちゃんは、どう思う?」


 あかねは言葉に詰まった。彼女のその妖艶さもあるが、聞いてはいけない、踏み入ってはいけない領域に、立ち入ってしまったような気がして。


「あの、その、私は……」


 しどろもどろになってのけ反るあかね。

 あおいの瞳は、挑発的に、目を逸らさない。

 と、不意に、


「ぷっ」


 そのあおいの唇が、歪に吊り上がった。


「あはははは! もう、そんなに真に受けないでよ」


 今までの嫣然な笑みとは打って変わって、手を叩いて大はしゃぎする子供のように大口を開けて笑うあおい。


「あおいちゃん、ちょっと脅かしすぎじゃないかい。ただのキャバ嬢を、そんなにもったいぶらなくってもいいだろ」


 あかねはあっけにとられて、思考が追い付かない。頭の上に疑問符を並べて、辛うじて口にできた言葉は、


「キャバ嬢?」

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