03.

 全身白装束の少女が物思いに耽ってうろうろ歩き回る様を、ゲズゥは地面に座って眺めていた。彼は首都の外へと続く一本道の脇の茂みに、膝を立ててくつろいでいる。手枷が外され、上着とズボンもそのままもらった。他には何も無い。シャツを着てないので胸板はあらわなままで、裸足、そして見事に手ぶらだ。これから長旅をする以上、身軽なのはいいが、少なくとも丸腰は早いうちに改善しないといけないだろう。靴も望ましい。

 殴られた箇所や傷は、聖女の力で跡形もなく消えている。頭の裏にできていたはずのこぶに触れるが、何も変なところはない。むしろ牢獄生活で首の根元まで長く伸びすぎていた髪の方が気になる。

 晴れ渡った空を見上げれば、太陽が傾いていた。もうすぐ日が暮れる時刻に達する。

 解放されてから二人でずっと歩き続け、人目のつかないような小道を選んで、なんとか首都の周辺近くまで来たのである。

 聖女に関しては、見た目のか弱さから体力も無いのではないかと気がかりだったが、並みの少女よりちょっと下程度でまだよかった。走ったり激しい運動はできなそうだが、歩き慣れているようだ。何度か休憩しつつ、まだ音を上げてない。

 それでも、このペースで五日は間に合うかどうかあやしい。ゲズゥだったら昼夜ほとんど休まずに走れば二日もいらない。最悪、担いででも国境を越えることになるだろう。馬さえあれば楽だが、残念ながらシャスヴォル国首都では一般市民の乗馬が許されておらず、軍馬か荷台を引く馬しかない。馬車もない。

 当面の問題は、今夜の宿をどうするか、である。

 その重大さに気づき、歩きながら聖女が考え込んでいたが、結局いい案が思いつかずもうこんなところまで来た。

 もとよりゲズゥにとっては予想の範囲内だ。むしろそれに気づかなかった聖女の方が考えが甘いということか。

 二人は今まで、それぞれ世界のまったく別の部分で生活していたのだ。聖女を迎え入れるような場所に当然ゲズゥは入れず、またゲズゥが簡単に入れる場所からは聖女が弾き出される。

 聖女ミスリアは道中、教会や医療施設や養護施設で泊めてもらっていたらしい。賃金のかわりに、慰問をしたというわけだ。

 今度はそうは行かない。穢れにまみれた罪人を連れている以上は。

 かといって普通のホテルも駄目だ。この国での「天下の大罪人」と「呪いの眼」の知名度は高い。簡単に泊めてくれる宿が見つかるはずも無かった。

「いっそ、野宿……?」

 足を止めて、ポツリと聖女が呟いた。

 それまで彼女が何をひとりごちても放置してきたゲズゥが、ようやく口を挟んだ。

「もう首都の外れだ」

 くるりと聖女が振り返った。レースで縁取られた白いヴェールが、ふわりと宙に舞う。

「わかっています。首都というものは、教会の配置によってできる結界が守っていますから。そこから出れば、私たちは魔物に襲われる」

 それは教団がアルシュント大陸にある十八カ国すべてに平等に与えたものだ。それぞれの国の首都はそうやって魔物から守られ、夜でも民が出歩けるようになっている。

 教団との関係次第で他の都市にも設置してもらえるが、いかんせんシャスヴォルは首都以外に結界が無い。

 夜を出歩くならば魔物を退けるか退治するかぐらいの技量が必要になる。

 武器さえあれば、気にならないのだが。

 国家元首こと総統が居る首都では迂闊に買い物ができなかった。奴の監視下だと、何かしかけられそうだ。五日のうちに国から出られなかったら討伐隊を送るとは言っていたが、それまでに他の形で妨害されないとは限らない。

「寝なければいい」

「え? どういう意味ですか?」

「屋外で寝てれば食われるが、起きてれば逃げられる」

「それは……ものすごく大変なことでは……」

 聖女は困惑気味に口ごもった。

 一晩中、魔物から逃げ回れというのは、確かに酷かもしれない。

 だが、難しいだけで不可能ではない。朝になれば魔物は一旦霧散する。夜になれば再度形づくられる。そのサイクルに乗じて、むしろ昼のうちに寝るのも戦略だった。ゲズゥは今までに何度も何度もやっている。

「首都の結界の中に残って、夜をやり過ごすのは……」

 宿が無いので、ギリギリ結界の中で野宿しようということだ。けど人目につかない場所は限られている。聖女もそれは理解しているだろう。言い出しておいてあまり乗り気じゃない。

「時間がもったいない」

「そう、ですね……」

 はっきりと「私には無理です!」と抗議してこない点を、立派か強がりかと評すべきか。聖女がゲズゥのような体力の持ち主であるはずがないのに、まだそれを主張していない。普通の人間ならば普通に寝たいはず。そうでなくとも魔物を怖がるはず。

 ふぅ、とため息をついてから、聖女が真っ直ぐゲズゥを見据えた。

「私には、土地勘も無ければこの国の夜を経験したこともありません。来た時は違う道でしたし、案内役がいましたもの。あなたがこうするべきだと自信を持って勧めるなら、私はあなたの判断に従います」

 聖女は自分には決断するための材料が足りないからと、それをゲズゥに委ねるという。

 もっと頑固そうな最初の印象が、改められる。

 実は、ゲズゥだって何年かシャスヴォルに住んでいないわけだが、大体の土地勘は残っている。

 首都は国の中心からちょっと北へずれた位置にある。

 この道をさらに北西へ進み続ければ街から出て、丘が広がる。その後に農地が延々と続き、農地を抜ければ大きな林がある。林の中の河が国境だ。

 ゲズゥは一度頷いて立ち上がり、そして念を押した。

「必要になったら担ぐぞ」

「お願いします」

 十代半ばにしか見えない少女は微笑んだだけだった。

 思春期前後だろうにその歳でご苦労なことだな、と妙な感想を抱いた。


_______


 最後の会話から数十分、沈黙の中で歩き続けている。

 ミスリアは段々、くるぶしまである長さのスカートが鬱陶しくなってきた。かといって脱ぐわけにもいかない。一目見て「聖女」のそれとわかる制服は身元を示すに役立つ反面、動きにくいのであった。首都を出て道がなくなったから余計に、草を踏み分けるのが面倒だ。

 着替えや非常食など旅に必要な本格的な支度は、これからする予定だ。ゲズゥ・スディルの処刑を止めるのが先決だったために後回しになった。ミスリアは懐にしまい込んでる貴重品しか所持してない。

 十歩先を歩く青年を仰ぎ見た。

 身長差や体力差があるからどうしても歩幅が違う。ゲズゥには、足並みを揃えるつもりも無いらしい。ブーツが足にこすれて痛いのに、ミスリアはまだ言い出せずにいる。

(まぁ、なんとかやっていけるかな……思ってたより協力的だし)

 それがどこまで表面だけのものかが問題だが。

『死を免れるためなら、人間はどんな甘言でも吐くぞ』

 シャスヴォル国の国家元首の言葉を思い出す。

 甘言を吐くようなひねくれた性格には見えない――なんて、出会って一日も無いのに結論付けるには早いか。

 先が思いやられるけど、それでもどこかわくわくしている自分がいる。

 誰かと長い旅をするのも北へ行くのも初めてだ。不安よりも純粋な好奇心が勝る。

 その時、前を歩いていたゲズゥがふいに足を止めたので、隣に並んだ。

「何か?」

 問いかけても彼は前を見据えたまま、答えない。何かに気づいたのだろうか。

 ミスリアも注意を払ってみる。

 夜のそよ風の匂い。

 どこからともなく響く夏の虫の鳴き声。

 日が暮れて間もないので、辺りは宵闇に包まれつつある。

 辺りは丘と岩と低木ばかりで、民家の気配が無い。

 流石に一晩中歩き続けるには暗い。ミスリアは夜目に自信が無いが、夜通し行動し続けることを提案したからには、ゲズゥは見えているのかもしれない。晴れているのがせめてもの救いで、星の光に期待できる。新月なので月の姿はない。

 再びゲズゥの顔を見ると、彼は眉をひそめていた。

 何かと思って前を向いたら、そこでパッと明かりが灯った。松明の炎だ。複数の人間が前方にいる。そして素早く近づいて来る。岩や低木のそばに潜んでいたのだろうか?

 急に明るくなったので、驚いて何度か瞬いた。目の焦点が合わない。

「嬢ちゃんよぉ、こんなトコォ夜中うろついちゃ駄目だって、母ちゃんに教わんなかったんかい」

 酒の臭いのする男が言った。

「キレイな格好してるな。懐には何かイイモノ持ってたりしねーか、嬢ちゃん」

 いやらしい声のトーンで、別の男が言う。

「別にいいぜ、手ぶらでも。高値で売れそうだよなぁ、聖女とかって」

 うけけ、と三人目の男が喉を鳴らしながら言った。

「やべーよ、オレ我慢できねーからヤっちゃっていい? ダメ?」

「手ェ出したら価値下がるんじゃね?」

 またしても別の声が二つ。

 ようやく明かりに目が慣れてきたと思ったら、大小さまざまな体型をした五人の男が、半円を描くようにミスリアを囲んでいる。

 人生経験が浅いミスリアとて、すぐに状況を飲み込めた。夜盗だ。当然、全員が何かしら血に錆びれたと思しき武器を携えている。

 思わず隣を向いたら、驚愕に身を固めた。

 さっきまで居たはずのゲズゥが忽然と消えている。

「あれ、カレシに見捨てられた? カワイソー、オレらがいるから泣かないでねん」

 いやらしい声の男が生き生きと言う。奴らは、夜道を歩くカップルを襲うつもりで近づいてきたらしい。最初から二人合わせてやり込めると見積もって。

「別にヤローの方はいらねーよ。何も持って無さそうだったし、せいぜい奴隷としてどっかに売ろうにも安値だったろーよ」

 ミスリアが認識した三人目の男は、背筋の曲がった大男だった。

 気味悪い夜盗どもが今まさに襲ってくる恐怖より、ミスリアにとってゲズゥが居なくなったことの方が遥かに重要事項だ。

 予想できていたとしても、実際に起こると衝撃だった。

 見捨てられた。逃げられた。この場面で。まだ、国境が全然遠いのに。

 それどころか、苦労してシャスヴォル国に来た意味すら皆無に等しい。

 ウソツキ、薄情だ、非道だ、なんて怒っても仕方が無かった。人を見る目がなかったというだけの、自業自得だった。

 今にもくずおれそうな膝に力を入れて、なんとか持ちこたえた。

 この場をしのぐことが最優先だ。

 生きたまま売られるというのなら、どこかに逃げる隙があるか……。

 目が潤む。まだ旅立ってもいないのに早速災難に遭うって。なんて醜くて恐ろしい世界だろうか。

「しっかしビックリだぜ。マジ逃げ足はえーし」

「ホントいつの間に」

 夜盗たちの視界からも、ゲズゥは唐突に消えたらしかった。

 まぁいいかそれよかさっさとお嬢ちゃんを捕まえようぜ、と酒臭い最初の男が言う。こいつがリーダーらしかった。

 背筋の曲がった大男の無骨で汚い手が、ミスリアの右手首を掴んだ。

 手首にかかった圧力に反応して全身に恐怖が流れた。灯りに浮かぶ薄笑いに寒気がした。

 怖くて声すら出ない。逃げる隙なんてあるわけない、と本能が訴える。心は絶望に満ちた。

 と、その時。

 何か影のようなものが大男に横から衝突し、男を吹っ飛ばした。

 ミスリアは解放された手をすかさず引いて、さすった。気持ち悪さは消えない。

 一拍ほど、何が起きたのか誰も飲み込めずに居る。

「おい、何だいまの」

 いやらしい声の小柄な夜盗が松明を片手に、飛ばされた男の様子を見に行くと、影が再び旋風のように通り過ぎて夜盗を反転させた。ゴツッ、と嫌な音がする。

 宙に飛んだ松明を目で追ったら、見覚えのある手がそれを受け取った。

 影の正体はゲズゥだ。前が開いたままの上着がヒラヒラしている。変わらず無表情だ。

「コイツ、逃げたんじゃなかったのか。あんまコケにしてくれんなよ!」

 残る夜盗の一人、歯が何本か欠けている男が右手で曲刀を抜いて襲い掛かる。

 ゲズゥは右手の松明で刀を受け止めたが、鉄と木では鉄の方が勝る。松明は半分に切られ、炎の部分は再び宙を舞う。

 しかし切り終わる以前にゲズゥは松明を手放した。間合いをつめ、空いた左腕で夜盗の右肘を掴んで封じ、間髪入れずにみぞおち目掛けて蹴りを入れた。キレイに決まったらしく、相手はうめき声を漏らして倒れた。

 当のゲズゥは落ち着いた目をしてる。

 彼の流れるような動きに、残った夜盗二人は呆気にとられていた。

「……襲ってくれて好都合だな。礼を言う」

 ゲズゥはぼそっと静かに呟いた。

 皮肉のようで、本気で言ってるようにも聴こえる。

 気が抜けて、ミスリアはそのまま膝から崩れて草の上に尻餅ついた。

 ミスリアを背にかばうようにゲズゥが正面に立っている。ズボンのポケットに片手を突っ込んで、まったく緊張感を纏ってない。むしろ息も上がっていない。一体どういう運動神経をしてるというのだろう。

 逆上して飛び出そうとする同胞を、リーダーが制した。

「待てよ」

「あん? なんすかっ」

 止められた濃い肌色の夜盗は松明を片手に、直剣を片手に持ったまま、リーダーを振り返った。

「よく見ろ、バカ。ソイツ、左目がヘン。『呪いの眼』じゃねーかぁ?」

 リーダーが指を指している。

 ゲズゥは倒した夜盗から曲刀を剥ぎ、右手だけでそれを試すように振り回している。刀は、彼の腕より短い。

 顔をよりよく見るために、濃い肌色の男は松明を目前で振った。

 リーダーが言っていたことを確認し、怯んだ。

「でもそんなん滅びた種族じゃなかったんすか」

「だーかーらぁ、たった一人の生き残りが『天下の大罪人』なんだろっちゅー話」

「げぇっ」

 ミスリアの予想以上にゲズゥは有名人らしくて驚いた。

 でもそんなことより、『呪いの眼』の一族が滅んでいたというのは、初耳だった。もともと情報の少ない種族だ。シャスヴォル国内でなければ知れ渡っていない事実か、公にされていないだけかもしれなかった。

「ウカツに手ぇ出したらコイツらみたいになるぜ」

 リーダーは既に倒されてる仲間たちを指した。

「じゃ、引けってんですか」

 不満そうに濃い肌色の男は言う。

「んなこたぁ言ってねーさ」

 酒臭い男が斧を構えて横に走り出した。

 察したようにもう一人もまっすぐ走り出す。

 リーダー夜盗が一丁の斧をこちらへ投げたように見えた。

 ミスリアは動けずに、迫ってくるそれを目で追っている。

 女の子の顔狙うなんてひどいな……と、その場に不似合いな雑念が沸いた。

 すると物凄い力で腕を掴まれ、横にさらわれた。

 斧は空を切り、しばらく回転しながら飛び続け、低木に刺さった。ドカッ、と低い音がする。

「ほぅら助けた。何でか知らんが天下の大罪人の弱点は嬢ちゃんだってことだ」

 輪を描きながら、リーダーの方はまだ走っている。

 正面を猛進してきた方の夜盗が先に二人にたどり着き、直刀を振り下ろす。

 曲刀でゲズゥが応じる。片手はまだ、ミスリアの腕を掴んだままだ。

 状況的には不利だろうに、器用な真似をする。何とかしてあげたいと思ったけど、下手な手助けを試みるより邪魔にならないように努力するのが最善に思えた。

 酒臭い方の夜盗がまた斧を投げようと構えるのが見えた。何か警告の言葉を伝えねばと口を開けた瞬間、

 ――オオオオオオオオオォォン!

 獣の慟哭が響いた。それは猛獣が空虚と悲しみに吼えたようであり、なのにどこか人間的な渇望を彷彿とさせるものがあった。呼応するように、数秒後にまた別の鳴き声。複数いるというのか。

 近い。

 ものすごく。

 立って動き回っていた二人の夜盗も、意識ありながらうずくまっていた二人の夜盗も、完全に注意をそっちに向けた。夜に活動する彼らなら、警戒している存在だ。

「この辺りはいつも数日に一匹しか出ないぐらい少ないはずなのに、何で昨日今日とまた魔物がわんさか出やがるんだ!」

 リーダーが天を仰いで舌打ちする。


_______


 すぐ近くに魔物が出現した以上、一箇所に留まるの危険だ。

 夜盗どもの出方を待つまでもなかった。

 咆哮からして最少でも四匹が近づいてきているとゲズゥは推測した。

 聖女は魔物の声が発生している方向を向いて呆けている。腰も抜かしたのか、今だに腕を掴まれたまま自力でしっかり立とうとしない。何を考えているのか表情から読めない。

 この場合、それはゲズゥにとってどうでもいいことだった。

 彼は躊躇なく少女を腰から引き寄せ、肩に担いで走り出し、その場をあとにした。

「きゃっ!?」

 遅れて我に返った聖女が小さく悲鳴を上げる。

 暴れようかつかまろうか決めかねているらしく、小さな手をばたばたさせてゲズゥの背中を上着の上から引っ掻いている。

 やっとうまくつかまって、聖女は大人しくなった。今の流れのどこかでヴェールが落ちたらしい。風に揉まれて柔らかい茶髪がゲズゥの顔や首に触れる。暖かい。

 背後ではなにやら叫び声が飛び交っているが、知ったことではなかった。

 いくら何でも一人で四匹以上の魔物を同時に相手にするのは困難だ。

 魔物があの夜盗ども五人を喰らおうとしている間にできるだけ遠くへ逃げるのが得策といえる。向こうには手負いも居て、全体の機動力が落ちている。ちょうどいい時間止めになるはずだ。

 ゲズゥの即座の判断が人道から外れていようと、誰にも彼を責められまい。

 聖女も、黙っていた。

 それでいい。喚かれたって気が散るだけだ。

「ひっ」

 唐突に、聖女が鋭く息を呑んだ。

 後ろを向いている彼女に見えたモノが、ゲズゥにはおぞましい気配として届いた。

 気配の主は二人の頭上を通り過ぎ、そして前方の岩に着地した。

 全身から青白い揺らめきが立ち上っているのが、夜の闇には異様な光景だった。

 人に似て脚が二本あり、膝関節も、胴体の長さも、首も顔も、二つの眼と一つの鼻と二つの耳も、人間と構造が似通って見える。ただし、長く尖った耳まで口が裂け、長さの揃わない牙が何本も生えている点が明らかに違う。

 腕の代わりにコウモリのような、膜の張った羽を持っている。ゲズゥは足が速いが、飛ぶ敵になら追いつかれても納得できた。

 尻から伸びる長い尾が何故か己の長い首に巻きついている。

 人間の拳より大きな丸い玉がついてるような尾の先が、にゅるりと前へ伸びてきた。

 尾の先に人面がいくつも現れ、それらはくるくると変動し続けている。何度顔が溶けてまた形作られても、いずれの顔も苦しげに表情を歪めている。叫ぼうとしているようだが声が出ていない。

 ニィ、と魔物が白目をむいて笑う。翼を広げている。

 長い足の爪を向き出しにして飛び掛ってくる。その動きは、猛禽類のようだった。

 ゲズゥは曲刀を構えた。

 近づいてくる魔物のとんでもない腐臭が鼻につく。下水道に放置された死体並にひどい。無視するに相当な気力を要する。

 だが背後から襲われるならともかくして、真正面から飛んでくる標的を斬るのはさほど難しく無かった。

 左肩に少女を担いだまま、右手だけで刀を薙いだ。

 魔物の腹部をざっくり裂くと、傷口から紫黒色のどろどろした物体が飛び出た。人間でいえば血に該当する液体だろう。

 ギィェエエエ、と金切り声をあげながら魔物は空中で回転した。痛覚はあるらしい。そのまま落下するかと思いきや、強く羽ばたいて軌道を変え、再び向かってくる。大して深く斬れていないということか。

 最初の突撃は横に跳んで難なくかわした。

 またしても魔物は方向転換して戻ってくる。

 今度の攻撃はすんでのところで回避したが、足爪の部分がゲズゥの頬をかすめた。

 見た目より魔物の質量が多く、かすめただけで仰け反った。倒れずにすんだと思ったのも束の間。

 魔物は首から尾をほどき、回転で更に勢いをつけて二人を鞭打った。

 刀を振り上げたが、手首ごと打たれた。そのまま体当たりされ、体勢が崩れる。ゲズゥの背中は地面に強く当たった。

 激痛に耐えつつかろうじて上半身を起こすと、聖女が数歩離れた位置で草の上を転がってるのが目に入った。

 魔物は迷わず聖女を選んでホバリングしている。大きく裂けた口から、よだれと思しき液体を垂らしながら。

 聖女はうつ伏せ状態から上体を起こした。

 異形のモノを目の前にして少女が怯えるのかと思ったが、違った。

 聖女ミスリアは怖がる素振りを見せず、瞳にはむしろ……憐憫の情が表れていた。ゲズゥにはその理由がわからないが、考えるだけ無駄だということはわかる。距離による見間違いである可能性もある。

 魔物は着地した。敵が聖女に集中し、こっちに背を向けている今がチャンスだ。前方へ向ける注意を保ちながら、ゲズゥは傍に落ちたはずの刀を目で探す。

「なんて、哀れな……」

 聖女が悲しそうに呟くのが聴こえて、疑問に感じた。

 一体何に同情している?

 今にも自分の頭に被りつきそうな化け物に?

 考えるだけ、無駄。

 音を立てないように地を這って曲刀を手に取り、ゆっくり立ち上がる。

「……ゲズゥ・スディルさん。お願いです、どうかこのモノを救ってください」

 懇願だった。

 あまりにも聞き取りにくい囁きだったためか。

 呼ばれてるのが自分だと遅れて気付いた。次に、何を願われたのかわからず耳を疑った。

「この者を、楽にしてあげてください」

 魔物が大きく口を開き、よだれが聖女の髪に垂れた。本当に被りつきそうだが、動きが鈍い。獲物を追い詰めた余裕、それとも悦びからか。もともと知能が低い存在だ。生きた動物と違って、狩りを果たしたあとに己が無防備になることを警戒するほど、気を回せていない。

 あの妙な人面尾がまた首に巻きついていて、先っぽが聖女の耳を撫でている。気味悪い光景だ。

 ゲズゥは一歩ずつ、曲刀を腰の下に構えたまま、慎重に踏み進んだ。

 聖女は静かに涙を流している。

 小さいピンク色の唇が音もなく動いて言の葉を紡いだ。

 「斬って」、と。

 その願い通り、ゲズゥは曲刀を両手で握って力の限り振り上げた。

 地から天へと銀色の弧を描きながら、刀は異形のモノを両断した。

 断末魔をあげるひまも無く、魔物は半分ずつになって倒れた。

 残骸はまだ脈を打ち、いつしか尾だけでなく表面中に人面が浮かび上がっている。

「おい、」

 聖女が残骸に手を伸ばしているので止めようと声かけた。ただでさえ座り込んでいる余裕は無いだろうに。まだ、他の魔物が追ってこないとは限らない。

 めくるめく人面に触れそうで触れていない距離で手を止め、聖女は何かを小さく呟いた。

 ゲズゥには聞き覚えの無い言葉だ。知らない言語だろう。

 忽ち(たちまち)帯のような金色の輝きが聖女の指先から展開され、広がった。残骸をまるごと包む。

 これは確か「聖気」、先刻ゲズゥの怪我を治した力である。

 まさか魔物を再生させるわけでもあるまい。どういう意図でやっている?

 懸念はあるが、とりあえず手を出さないでいた。曲刀を鞘に収めて腰にさげた。

 残骸からいまや弱々しく立ち上っていた青白い炎が金色の帯と混ざり合い、銀の光に変わった。

 不可思議な現象だ。

 見ると、苦しげだった人面どもが顔を緩めている。笑顔とまではいかなくても、安堵したような、楽になったような、そんな表情になっている。

 魔物の肉体が粒子化をし始め、浮いている。朝日を浴びて霧散するときに似ているが、その時の欠片はもっと暗い色だったはず。今のような銀色ではないし、ゆっくり浮くのではなく砂のようにサラッと風にさらわれるものだ。

 やがて、残骸は残らず散らばり、重力に反して銀色の粒は文字通り天へ昇った。

 周囲から聖気がなくなっている。

 聖女は立ち上がろうとして、よろめいた。ゲズゥは半ば反射的に手を伸ばして支えた。

「ありがとう……ございます……」

 立ちくらみを起こしたらしい。それでなくとも、移動その他で体力は限界まで消耗されているだろう。

「ちゃんと、浄化しなければ魔物は……何度でも再構築、されますから……」

 それでも説明しようとしている。先ほどの行動の不可解さに自覚はあるようだ。

 浄化。異形のモノを真に消滅させる方法が、それだという。過去から今までにゲズゥはそんな場面に出くわしたことが無いのは、聖女や聖人の知り合いがいないからか。

 興味深い話だが、物事には優先順位というものがある。ゲズゥは聖女の前にしゃがんだ。

「負ぶされってことですか?」

 背後から驚いた声。

「今のお前が走れるとでも」

「……思いませんが……。あなたは、大丈夫なんですか?」

「必要ならやるだけだ」

 聖女を振り返れば、彼女は怪訝そうに顔をしかめている。

「でも背中を打ったのではありませんか? 顔の傷も、治します」

「後でいい」

 しばし考え込んでから、聖女はそっとゲズゥの肩に手を置いた。そのまま負ぶさる。

 背中に痛みが無い。ゲズゥは聖女の仕業だとすぐに察した。

「では移動しながら治します」

 そんなことが可能らしい。どういう条件下で発動できるのか不明だが、本当に便利な力である。

 しばらく走ったところで。

 またどこからか、魔物の鳴き声が聴こえた。

 夜盗のところにいたやつらか、はたまた別の個体か。忙しいことだ。

「……逃げても多分、撒けません。魔物は遠くからでも、『聖気』に惹かれますから。たとえ力を使わなくても、聖人・聖女であるだけで集中的に狙われます」

 聖女は静かに語った。

 本来魔物が少ない地帯に急に複数発生したのも、それなら合点がいく。

 そういう情報は早めに言え、と思ったが口には出さなかった。今更、詮無きことだ。

 魔物から逃げること自体が無理だとしても、今走って国境との距離を縮めるのはたいへん有益な選択である。

「彼らは、救われたいのです」

 またしても悲しそうな声で、少女は呟くのであった。


_______


 安穏とした旅にならないのはわかっていたけど、いきなり逃亡生活に入るとは流石に思ってなかった。

 何が悲しくて、会って一日も経ってない異性に背負われながら、深夜に野外を逃げ回らねばならないんだろう。

 人生経験が浅いミスリアの想像力は、ここまで及ばなかった。

 ゲズゥの行動や判断に抵抗を感じてはいる。でも、どれも生き延びるためだと頭で理解できる以上、感情でそれを拒むのは間違っている気がする。ミスリアは、社会的に自立した一人前の「聖女」になりたかった。世間の目にはまだ「少女」にしか写らない。だからこそ感情を押し殺し、やるべきことをやれるように鋭意努力中だ。

 自分にとってもまだ自分は「子供」でしかないのだから。

 それに比べ、次々と襲い掛かる怒涛の展開に眉一つ動かさずに冷静に対応するゲズゥは、素直に凄いと思う。

 彼からは戸惑いのようなものがほとんど感じられない。そうやっていつも生き延びるための最短の道を選んできたのだろうか。それとも何も感じない鋼鉄の心臓なのだろうか。

 死ぬはずだった日から、切替の早さがまた凄い。

 今回は脱獄を試みた形跡が一切無いらしいので、生きる気力が低下していたはずなのに、数時間でこの立ち直りよう。

 彼の心の動きに大変興味がある。けど、訊く勇気が足りないので推し量るしかない。

 もやもやと考え事をしているうちに、ゲズゥは淡々と走り続けている。周りの景色が目に留まらないくらい速い。もう彼の底なしの体力に関してはいちいち突っ込んで考えないことにした。調書を読むだけでは知りえなかったことに、今は感謝する。

 あの一体以来、魔物には遭遇していない。

 どこからか慟哭が聴こえる度に、ミスリアは胸が痛んだ。教団で修行を積んだ頃にアレらの性質を十分学んでいた。実践訓練などで浄化したことも多くあった。それでも魔物を浄化したあとは、何度やっても慣れないような、奥深い空虚が残る。

 そして今、眠くなってきている。

(いい歳して、おんぶされた状況で眠くなるなんて)

 夜が更けてきたし、連日の疲れもたたってるとはいえ、恥ずかしい話だ。

 ただ、ゲズゥの背中は妙に心地よかった。子供の頃を少し思い出すような。同時に、それとはまた別なこそばゆさを感じる。何故かはわからない。

 睡魔に投降する前に、せめて言おうと思っていたことがあった。ちょうど、ゲズゥが一息ついて立ち止まっている。

「さっき消えられた時は、置いていかれたのかと思いました」

 暖かい背中にコテンと頭をつけて、言った。

 夜盗が現れた時のことだ。見捨てられたと思った瞬間の絶望がまだ消えない。

 言ってどうなるわけでもないけど、これだけは呑み込めなかった。

 二人の関係はまだ、会ったばかりの他人なのは事実である。でも今後は運命共同体のようにならざるを得ない。身代わりになって死んで欲しいなんて欠片も思ってないけど、旅の供として一緒に困難を乗り越えていかなければならないだろう。

 その上でやたら仲良くする必要は無いにしろ、利害ではなく協力関係でありたい。少なくとも、どっちかがどっちかを見捨てるなんてもってのほかだ。結果論でいえば今回は違ったけど。

 ゲズゥが「引き受ける」と言ったからにはそういう解釈をしてくれるのだと思い込んだ。

 思い込みは思い込みでしかなく、結局は話し合うべき点だと改めて思った。

「…………別に俺はそんな半端なことはしない」

 少しだけ頭を振り返って、ゲズゥが応えた。

 どういう意味で言っているのかさっぱり聞き取れなかった。

 もっと話がしたいのに、意識が遠のいてきて返事ができない。

「寝てろ」

 低く響く声が耳にきもちいい。

 安心して目を閉じ、ミスリアはそのまま深い眠りに落ちた。

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