19.
両の手のひらの上に乗った重みを確かめるように、棒状のそれを僅かに上へ投げては受け止めた。見た目以上に、ずっしりと重い。握り締め直し、構えた。
木製の柄の先に斧を取り付けただけの簡素な戦斧だ。柄の部分は長いが、己の全身の身長にはまるで及ばない。とりあえずは軽く、何度か振り回してみた。普段あまり使わない筋肉が軋みを上げる。
――武器とは――
過去に受け取った言葉が頭の中に浮かんだ。勿論一句漏らさずに聞き取ったものではなく、記憶に残った解釈ではあるが。
――使いこなせなければ、かえって害になり得る。先ずは慣れろ。体の延長、果ては体の一部のように認識するんだ。
微かな懐かしさがこみ上げる。あの男から学んだことは多い。
「へぇ、様になってるじゃん」
現実に、掠れているとも言えるような声がした途端、ゲズゥ・スディルは戦斧を振り回す手を休めた。奴はまたしても余程警戒していなければ気付けないほど、巧みに気配を消していた。
「まさかソレ使う気か? 頭に対抗して」
「……原理を確かめている」
「あー、そっちか。真面目っつーか勤勉でカッコいいな。どんな武器も身に付くのって才能だぜ。戦闘種族だからか?」
声の主――ボサボサの黒髪に左頬の複雑な模様が印象的な男が、口元に薄い笑みを乗せて拍手した。布を巻かれた大きな板のような荷物を背負っている。
ゲズゥは男から顔を背け、戦斧へと注意を戻した。
夜明け前の山上は、薄明るくて少し肌寒い。
本来なら山賊の朝は遅いのだろう――他に誰かが起きている気配は無い。
この食堂スペースから見える空は灰色だったが、これから晴れそうな気がする。決闘を行う闘技場に天井は無いのだから都合がいい。
「これ、返すぜ」
模様の男は背の大荷物を降ろした。見渡す限りの山々に現れた幾つかの影を見据えている。
ゲズゥも風に乗った嫌な臭いと、聴き慣れた鳥の鳴き声に混じった不自然な鳴き声にすぐに気付いたが、対応に急がなかった。
「どうせ陽に当たれば霧散すんだから、わざわざ構ってやんなくてもいいかな」
のんびりとした提言があった。
「準備運動代わり」
男から大荷物を受け取ったゲズゥは、逆に戦斧を渡した。見たところ、模様の男は丸腰だ。男は戦斧を受け取ると、思案するようにその柄をトントンと肩に当てた。
「やっぱ真面目だな。じゃーオレも付き合うとするか」
二人はそれぞれの武器を構えた。ゲズゥは模様の男と自然に背中を合わせた。
見渡す限りの山と空に、冗談みたいな外観の化け物が複数邪魔をしている。豚と蛇と魚をごちゃ混ぜにして羽根を生やしたようなものだ。
先に、模様の男が動いた。素手で戦っていた時よりもややスピードの劣る動きで、襲い来る魔物を払う。
ゲズゥも一拍後に続いた。布を巻かれたままで大剣を振るうも、それ自体は大した妨げにならなかった。ほとんどが単独に真っ直ぐ向かってくるだけの雑魚だ。ゲズゥはあくまで準備運動と称すにふさわしい軽やかな動きで、呼吸に合わせて剣を薙ぎ払った。
そうして数分としない内に、二人で敵を残らず討ち取った。軽く走った時と同じように息が上がり、全身の筋肉に心地よく血が巡る。
「模様の男」
霧散するまでに再生しないように蠢く化け物を一匹踏みつけながら、背後に呼びかけた。すると目の端に奴が大袈裟に肩を落としたのが映った。
「その呼び方はねーよ。イトゥ=エンキが覚えにくいってんなら、特別にエンって呼んでもいいぜ」
呆れた声が返ってきた。
少しの間考えてから、ならばとゲズゥは再び口火を切った。
「エン――」
「やだよ」
「…………」
「引き受けらんねーな。悪いがオレは自分のことで精一杯なんだ、岸壁の教会まで一緒に行けてもそっから先は嬢ちゃんの面倒は見れねーよ。あの子を守るのはお前の役目だろ」
まだ何一つ言っていないのに、模様の男――エンは、こちらの考えを総て見通していた。
しかし岸壁の教会とやらまで辿り着けさえすれば、後は教会の援助でミスリアは旅を続けられるはずだ、とふと思った。
「守るのが役目、か」
「ん? 違ったんか?」
「――――いや」
違わない、とまでは言わなかった。
確かにミスリアには母の魂を解放してもらった恩があるが、それ以外に自分があの少女の盾になろうとする根底には自己の願いがあるのではないか、と最近疑問に思う。
故郷もアレも満足に守れなかった自分が、運良く得た第二の人生で誰かを守ろうとしているなど滑稽だ。
ゲズゥはそれ以上は何も言い出さずに剣の布を解き始めた。奴も言及しない。
「それより、頭のコレな」
エンは手の中の戦斧を指差した。
何か有力な情報を得られる予感がして、ゲズゥは顔を上げた。紫色の瞳と目が合った。
「コレは昔使ってた奴。最近のとはちょっと違うぜ。今は腰に提げてる短い斧と、背負ってる長い斧があって……長い戦斧の方は、どっちかっつーと鈍器に近い。昔は鋭利なのを使ってて短い方は投げる専門だから今もそうだけど。長いのはあんまり斬れない方が相手をもっとよくいたぶれるからってさ」
そう言ったエンの顔にはハッキリとした嫌悪の感情が浮かんでいた。
「だから攻撃喰らったら骨が砕けて、内出血が無ければ、苦しみは長引く。しかも斧の部分は、昔のコレよりずっと重い」
逆に言えば打ち所が悪ければ間違いなく死に向かうということだ。内出血は厄介すぎる。砕かれた骨が急所に刺さっても厄介。
「……頭領の戦闘種族としての特性は、腕力に長けているように見えた」
「そんなんあるのか? まあ力は間違いないけど、頭はああ見えて脚力も人並み以上だぜ。でも大技ん時は右脇ががら空きだ。本人も熟知してる弱点だから簡単には突けないけどな」
手本のつもりか、エンは戦斧を大きく振った。
長い間あの頭領を注意深く見ていたからだろう。昨夜数分だけ戦ったゲズゥにもわかるぐらいに、型の再現率が高い。が、再現しているのは型だけで、速度や威力は比べ物にならない。
――身の丈に合った武器を選べ。誰かを真似ては無意味だ。
また、懐かしい声がした。
本来エンがひいきにしている武器が斧ではないから、なんとなしに振るっても頭領に敵わないのは当然だ。
よく見れば、最初丸腰だと思ったが、実はベルトか装飾品のように巻いている鎖が本来の奴の愛用する武器なのかもしれない。
「ちなみにお前の特性は?」
エンはまた斧を一度大きく振って、起き上がろうとしている魔物を斬った。
「俺の先祖の系統は優れた筋力と、主に瞬発力が特徴だ」
自分でも驚くほど、躊躇無く答えた。今まで誰と話していても決して舌に乗せなかった情報だ。この男に対して、妙な仲間意識でも芽生えているのだろうか?
危機感は無かった。ただの勘だが、この男は自称していた通りに信用に値する人間に思えた。
「ゼロから全力、静から動に移るのが速いってとこか。加えて、細マッチョ体格にしてはバカ重い剣を振り回せる力……天性の才能ってスゲーな」
「…………」
否定しなかった。この身体能力が祖先から受け継いだ数少ない重要な財産であるのは確かだ。
これだけを土台に、強くならなければ生きていけなかった。どうせならもっと別の何かを残してくれれば良かったのに、と考えても仕方が無いことだった。
ゲズゥは今度は自分から質問した。
「お前が常に感情を押し殺しているのは、『紋様の一族』のもう一つの特性が原因か」
紫色の双眸が一瞬、大きく見開かれる。
「それも知ってたのか。その通りだよ。まあその内見せてやるから、楽しみにしとけ」
淀みない答えが返ってきた。
「じきに夜が明ける。行こうぜ」
エンの提案に、ゲズゥは素直に頷いた。
これから死闘が待ち受けているというのに、心の内にさざなみ一つ立たなかった。ただ、自分だけでなくミスリアの命までかかっている点だけが気がかりであった。
_______
「後悔、してない?」
柔らかい微笑をたたえた絶世の美女が、いきなりわけのわからない質問を投げかけてきた。
ゲズゥは振り返る姿勢のまま、無言で続きを待った。
ここは闘技場の中心へ続く通路。あと二歩進めば屋外に出る。今まさに夜明けを迎えようとしている外では、鳥たちがしきりに鳴きあっていた。
アズリは今日は髪を頭の後ろに複雑に結い上げている。泡沫を思わせる淡い色のビーズや羽などが編み込まれ、色合いは首飾りや耳飾と揃えられている。当然、地面に引きずるほど長いガウンを彩る宝石とも合う。
腹の足しになどなりやしないのに、女はよくも外見にここまで手を込められるものだ。――いや、この女の場合はそれを武器に男に取り入るのだから、ある意味腹の足しになっているとも言えるか。
初めて出会った頃のアズリは今より遥かに化粧っ気がなく、飾らない服装に肩に届かない長さのストレートヘアといった、地味な外見をしていた。それでもその存在感や造形の美しさは、初めて見る者を絶句させるほどだった。
後に知ったことだが、それは当時の男の好みに合わせていたのだと言う。
我の強い彼女が性格や生活習慣まで調整することは無くても、なるべく外見を男の好みに合わせるのがポリシーだと言うのだから、今の派手な格好も頭領に合わせているのだろう。
「あの時私を望まなければ、アナタがあそこを追い出されることも無かったわ」
ようやくアズリが話を続けた。組んだ両腕の中で、輝かしい腕輪が幾つも重ねらた細い手首の内側を見つめている。そこに施された青い花の刺青は、かつて共に属していた集団の象徴だ。
「さあな」
ゲズゥはそう答えた直後に、ある日を回想した。
――アナタとは一緒に行けないの。悪く思わないでね。
――結局こうなるのか。
――わかっていたことでしょう? アナタの為にこのポジションを捨てることはできないわ。まぁ、殺されなかっただけよかったじゃない? 寛大な処置に感謝して、一人で頑張って生きることね――
無邪気な、まったく悪びれない笑顔。
自分が何かくだらない衝動に憑かれていたに過ぎないと、真に発覚したのはその時かもしれなかった。しかしもともと他人に執着しない性格ゆえに、醒めた後はあっさり忘れるのも簡単だった。
現在のアズリが口元に手を当てて、困った顔で首を傾げた。滅多に見ない表情だ。
「私は楽しかったからいいけれど。せっかく仲間に迎えた十五歳の少年を独り苛酷な世に戻したの、これでも後悔したのよ?」
と、口では言っているが、本心がどうか知れない。ゲズゥはこの際相手にしないことに決めた。
「気にするな。見ての通り、生き延びている」
振り返っていた肩を戻して一歩前へ踏み出した。
ふいに温かい柔らかさに包まれた。
どうやら後ろから抱きつかれたらしい。
「じゃあね」
数秒後には甘い残り香だけを残して、温もりは離れていた。
「ああ」
これが今生の別れになるかもしれないが、特に悲しいとも寂しいとも思わなかった。
ゲズゥは父親の形見である湾曲した大剣を左脇に抱えなおして歩き出した。革の鞘を部分的に嵌めている。その内に父が使っていたような、全体を覆う鞘を用意した方がいいだろう。
通路を抜けた途端、目を背けた。そうしなければならないほどに外は明るんでいる。予想通りに空は晴れていた。
円状の観覧席は、人でひしめき合っている。山の上によくもこれだけ大きな建物を建てられたものだ、とも思うが、それよりもこれだけの人が一体どこから現れたのが謎だった。おそらくは山賊団の団員以外の知り合いも数時間の間に呼ばれたのだろう。
――どいつもこいつも暇なのか?
そう考えかけて、闘技場の中心にこちらに手招きするエンの姿を認めた。
「よっ。こっちこっち」
エンは麻ズボンと白いシャツの上に、上等そうな青みがかった黒のベストを着ていた。飄々と笑いつつ普段より僅かに気が引き締まったような姿勢を見せ、黒髪を頭の後ろでくくっている。腰回りに太い鎖がかかっているのは先刻と同じである。
「揃ったことだし、始めようぜ」
彼がそう言った途端、雄叫びのようなものが闘技場に響き渡った。
その音の波に打たれた観衆は直ちに静まり返り、至近距離でそれを聴いたゲズゥは無意識に半歩さがった。更に至近距離で聴いたであろうエンは、目を細めるだけで笑みを崩さない。
エンの背後に仁王立ちで構えていた大男が、閉じた口の端を吊り上げた。
「楽しみに待っていたぞ、ゲズゥ・スディル」
がはは、と大笑いしながら頭領は前へ出た。
改めて見上げると随分と独特な顔立ちだ。大きな鼻と耳と口に、主張の強い眉骨。世間がこういう顔をどう評するかはよくわからないが、肉食獣を連想させる、野性的で強そうな雰囲気を醸し出しているのは確かだった。
「そんじゃあルール説明しますよー」
都合よく訪れた静寂に乗じて、エンが両手を広げて喋り出した。
「時間は無制限、使用可能な武器は開始時に身に付けてたモノのみ。勿論、身に付けているモノなら靴でも服でもアクセサリーでも何でも使ってよし。ここまではいつもと同じな」
一拍置いて、彼はまた大きく息を吸って話を続けた。段々と口調が砕けてきている。
「ただし、勝敗の決まり方。いつもだと敗北の条件は勝者または観衆に任せてるわけで、気絶でも口での『参った』でも相手を殺してもいいけど、今日は事情が絡んでっからオレが審判だ。よって、気絶して二十六秒以内に起き上がらなかった方を負けとする!」
「二十六? どうせなら三十でいいだろ?」
観覧席の誰かが不思議そうに問う。
「何でそんな半端な数字かってーとオレの歳の数だからだ。そんだけ」
エンがあっけらかんと返事をすると、会場中に笑いが広がった。
「両者から何か質問は?」
「ねぇよ。さっさとやり合わせろ、イトゥ=エンキ」
「無い」
満足そうに顎を引いてから、エンは後ろへ数歩下がった。壁まで下がったところで、左右へそれぞれ人差し指を指した。
「先ずは、十ヤード以上離れてもらう」
ゲズゥは言われた通りにした。頭領もズシズシと砂利を踏みしめながら離れていく。
「さてココに木の実がある。皆おなじみの緑色の酸っぱい奴」
エンは指の間に、拳よりも小さい緑の球体を持っていた。
「オレがこれを上へ投げる。木の実が地面に落ちたら、開始だ」
わかりやすい合図だ。音が小さいのが難点だが、会場には当然のように静寂が落ちたので問題ない。
ゲズゥは大剣を包む革の鞘の留め金を外し、鞘のパーツを遠くへ投げた。
どんな武器も身に付くとはよく言ったもので、それは裏を返せば一つの武器を集中的に極めていないとも言う。旅の途中で手に入ったこの大剣は使い慣れただけで極めてなどいない。
ゲズゥは素手での肉弾戦が最も得意だったが、今日の相手に、素手では分が悪すぎた。
勝算があるとすれば、あの巨漢から戦斧を離すしかない。
「用意はいいかー」
エンは肘を曲げた腕を下ろしては上へ上げた。
鮮やかな緑色の木の実が宙に放たれる。
ゲズゥは己の敵手へと視線を降り戻した。
頭領の放つ殺気に当てられないように、心を鎮める。これが森の中で遭遇した野獣なら、選択肢はたった二つ――完全に静止してやり過ごすか、一目散に逃げるか。決して戦おうなどとは考えない。
――ボトッ。
待っていた音が、右横からハッキリと聴こえた。
開始の合図が過ぎても数瞬の間、何の動きもなかった。ゲズゥは剣の柄を掴むだけで、自分からは仕掛けなかった。
頭領の真っ黒の両目を見ればわかる。表面では野獣に見えても、知能を内包した人間だ。
「かしらぁああ! 行けー! そんな奴ぶっ潰せー!」
「フルボッコ! フルボッコ!」
「おい若造、おれはお前に賭けてんだよ、一泡吹かせてやれ!」
観客は思い思いに声援をあげている。その間、ゲズゥは視線を逸らさなかった。
奴は大きな口を広げ、黄ばんだ歯が剥き出しになるほどに笑い――次の瞬間にはこちらに向かって突進していた。エンの言った通り、予想を超えるスピードで。
対するゲズゥは右から緩やかな弧を描くように走り出した。回り込めれば儲けものだが、そう簡単には行かない。
巨体を楽々と駆使して頭領は体の向きを調整し、長い戦斧を右から左へ薙いだ。
ゲズゥは横に跳んでその一撃をかわした。
今度は正面からの強力な一突き。これを、ゲズゥは剣で横へ払った。
奴の右脇が空く――。
蹴りを入れようと一瞬脳裏を過ぎったが、それは叶わなかった。頭領は斧を構えたまま素早く両肘を引き、脇をしめたのである。かと思えば足を踏み出し、また斧を横に薙いだ。
受けずにゲズゥは後退した。あの攻撃を何度も受けていてはこっちの腕がもたない。必要でなければ避けるべきだ。
誰かの、逃げてばっかりじゃつまんないぞー、みたいな声が聴こえたかもしれないが、どうでもいい。
やはり奴は己の弱点を熟知している。隙を狙って打ち込むことは困難。
もう一つだけ試したいことがあるので、ゲズゥは逃げるのをやめた。
こちらの速さにさほど押されずに、頭領は最小限の動きを使って一撃ずつ受け止めた。余裕を持っているからか、無駄が無い。ゆえに速さではゲズゥに多少劣っていても対応し切れている。
ゲズゥは攻撃を止め、一歩引いた。これは誘いだ。
「そういえばてめぇ、ヴィーナに手ェ出したらしいじゃねーか」
笑顔のままだが声色から怒りが滲み出ていた。
誘われているとわかっているのかいないのか、頭領はこちらが待ち望んだ正面の一突きを再び繰り出した。
奴の右腕が真っ直ぐ伸び切るより早く、ゲズゥは宙を跳んでいた。
剣を振り上げた。左肩めがけて振り下ろす。
が、またしてもそれは叶わなかった。上体を捻り、頭領は斧を斜め左上へ振り上げて大剣を打った。その威力に巻き込まれ、ゲズゥも飛ばされる。
両足で着地はできたものの、勢いが余っている。ゲズゥは剣を地に立てて体勢を保った。ギリリ、と鉄が砂利を掻く音が響く。
誘いを誘いで返された。
観客が嬉しそうに騒いでいる。
「人様の女に、いい度胸だなぁ」
歓声のためか、この会話はゲズゥにしか聴こえていないらしい。会話と言っても自分は答えないので一方通行ではあるが。
――誰に聞いた?
ついでに思考を巡らせてみる。知っているのは当事者のアズリと、偶然居合わせて状況を察したエン。ミスリアはそこまで考えが及ばなかっただろう。後の二人が頭領に話すことは考えにくいので、おそらく、教えたのはアズリ本人。
昔から、事態をかき乱してややこしくするのが好きな女だった。思い出して、ゲズゥは納得した。
そんなことより。
この男に隙が全く無いと確認できた以上、早くも次の手を考えねばなるまい。いっそ怒りで我を忘れてくれればいいのに、敵はそんなに容易ではなかった。
――走り回ったりして持久戦に持ち込み、疲れさせて隙を作る?
戦闘種族なら普通より持久力はあるだろうけど、こちらの血の濃さが本当に上ならば試す価値のある作戦――とはいえ血筋など、そんな不明瞭なものに頼るのは得策ではない。最悪、自分が疲れるだけだ。
――第三者を利用する?
これも頼れない手段。唯一手を貸してくれそうなエンは、審判として会場の端に陣取っていて動かない。そもそもこうも大勢の目に晒されていては誰の手を借りることも難しい。
――左目を使うか?
普段なら絶対に使わない手を思い、すぐに断念した。
リスクばかり高くて、事態が好転する可能性が低い。
こちらが距離を取り、考えあぐねている間にも頭領は自信満々に近づいてくる。
考えても答が出ないならば、仕方ない。
すうっ、と静かに息を吐いた。
ゲズゥは全身の筋肉に意識を集中し、強張らせるのとリラックスさせるのとの中間程度に、緊張感を満たした。大剣の刃が上を向くように両手で構え、踏み込む。
そうして己の直感と闘争本能と反射神経に、総て身を委ねた。
_______
およそ人間とは思えないスピードで、ゲズゥがあの人に斬りかかっている。
応酬が速すぎて肉眼で捉えるのがもう無理だった。観衆のほとんどは何が起こっているのかわからないながらもひたすら拳を振り上げて叫んでいる。
(そうこなくちゃね)
今日のヴィーナキラトラは見渡しが良くて高いスタンド席よりも、より緊張感の伝わる最前列の席を選んでいた。
目下には、腕を組んで戦闘を見守っている、長身の男の背中があった。
「ねえ、イトゥ=エンキ」
ヴィーナは手すりに両肘を乗せ、重ね合わせた手の上に顎を乗せた。客が会場に飛び出さないよう、そして選手が吹き飛ばされても簡単には観客に当たらないように立てられた壁と手すりだ。
「何でしょう姐さん」
彼は振り向かずに返事した。
「アンタは、どっちが勝つと思う?」
「難問ですね」
「私には、ゲズゥが慎重になりすぎてるように見えるわ。少なくともさっきまでは」
「あー、だってアイツ鎧とか着けてないし。慎重にもなりますよって。下手したら一撃入喰らっただけで終わりますから」
「それはそうね」
イトゥ=エンキの言葉で腑に落ちた。昔からゲズゥは、動きが鈍る、という理由で絶対に防具の類を着けたがらなかった。
「今は頭の方が押されてます。時々受け切れなくて掠ってるけど、胴体をチェインメイルで覆ってるんでまだ斬られてはいませんね」
鉄同士がぶつかり合う音が頻繁に聴こえる。イトゥ=エンキにはあの応酬が視認できているということになる。
「やっぱ頭の方が何枚か上手に見えるなー。もうゲズゥは岩と戦ってる気分になってんじゃないかな。オレにはその気持ちがよーくわかるぜ。年季が違うんだよ。そりゃー底力だけなら大差ないだろうけど」
イトゥ=エンキが独り言のように漏らした。
「こういう、戦況を操りにくい一対一の決闘でなければアイツももっと抗えたかなー」
「でもこういう公の場で、公平そうな勝負でなければあの人は条件を呑まなかったわ。アンタの目論見はどっちかといえば成功した方だと思うわよ?」
ヴィーナがそう指摘すると、イトゥ=エンキは首を少し仰け反らせた。
「そう思います?」
紫水晶色の瞳がどんな感情を隠しているのか、正直読めない。
(食えない男……カマかけても簡単には乗らないのね)
やがてヴィーナはにっこり笑って話題を変えた。
「勝ったらきっとあの人はゲズゥを遠くへ売り飛ばすか、殺すわ。近くに置こうとは思わないはずよ」
「でしょうね」
再び会場を見つめるイトゥ=エンキは、抑揚のない声で答えた。頑として己の考えをあらわにしない男だ。手強い。
しばし思案してから、右隣に座る少女に向かって、ヴィーナは問いかけた。
「そういうわけだからちゃんとお別れした? ミスリアちゃん」
今日のミスリアは薄緑色の単調なワンピースに身を包み、栗色のウェーブがかった髪を下ろしている。化粧も一切していない。この格好に特別に可愛らしいポイントがあるとすれば、肩の袖口の部分にフリルが付いているぐらいだ。
今朝ヴィーナがどんなにおめかしを勧めても一向に乗ってくれなかったのが、少しつまらない。
ミスリアはこちらを見上げはしたが、何も言わない。むしろ戦闘が開始してから今までにも、彼女は一言も発していない。
昨夜のような笑顔の仮面を被るのかと思っていたが、その予想は外れた。
(きっと、心配で胸が押し潰れそうになっているのね)
と、勝手にヴィーナは想像している。何せミスリアは、ずっと唇を真一文字に引き結んで真剣な目で観戦していたのだから、そうに違いない。
(かわいいわ)
茶色の大きな瞳が、ただ無言でじっとこちらを見上げてくるのが段々可笑しくなってきた。
「そういう反応ってゲズゥっぽいわね。一緒に居すぎてうつったんじゃない?」
無言で見つめ返してくる辺りがそっくりである。
「……はい?」
ようやく桃色の小さな唇が開いたかと思えば、疑問符だった。
「なんでもないわ。ねえ、不安でしょう。何もできない自分が悔しい?」
ふと気が付けば、そんな言葉を囁いていた。
「それ、は…………」
消え入りそうな声が返ってきた。
「私は、受け入れることにしているわ。この世の中には自分にどうにか変えられる状況と、そうでない状況がある。自分が本当に無力な時は、受け入れるのよ。でもそんな状態はいつまでも続かないし、自分に変えられなくても他に変えられる人間が居るかもしれない。見極めればいいの」
――己の動くべき時と、取るべき行動を。
「……強いんですね。そういう考え方ができるなんて」
ミスリアは感心したように、少しだけ笑った。
「ありがとう。ミスリアちゃんが何を抱えているのか知らないけど、頑張ってね。私、頑張る女の子は凄く好きなのよ――」
これは本心からだった。ヴィーナが己の信念を誰かに語るなど滅多に無いことだが、今はそんな気分だった。
――ギィイイイン!
一際大きな音が響いて、二人の会話は中断された。視線を前へ戻すと、ちょうど、一合打ち合った直後の二人は距離を離していた。すぐにまた、打ち合いは再開した。
武器がかち合う間隔は次第と長くなり、二人の動きがまた目に見えるスピードに落ちていた。
ふいに、ゲズゥが剣を逆手に持ち替え――
(何か仕掛ける気ね)
――再び、目に留まらないスピードで彼は動いた。
_______
ゲズゥは大剣を横薙ぎに振るった。勿論止められたが、急な展開とその勢いに捕らえられて、頭領の斧を持つ手がぶれた。チャンスだ。
続けざまに、回し蹴りを入れる。奴の横腹の、岩のような腹筋に当たった。
皮肉にも考えるのを辞めた途端に閃いたのだ。緩慢なペースに慣れさせて油断を誘う、という方法を。
存外うまく行った。しかし、おそらくは大したダメージにならないだろう。むしろこっちの脛が痛い。
ゲズゥは一回転して更に斬りつけた。
首筋を狙ったのだが、頭領は腕を上げて阻んだ。斬られた前腕からぶわっと血飛沫が飛び、おおっ、と観客がどよめく。
急に奴の顔が近付いてきた。
飛び退こうとしたが、がっしり肩を掴まれて逃げられない。なんて力だ――
額にとんでもない衝撃があり、反動で後ろへスナップした首が鋭く痛んだ。
視界が揺らぎ、耳が何かおかしな音を訴えている。思わず立ち止まって頭を抱えたい衝動を抑え、ゲズゥは剣の柄で奴の胸を突いた。呻き声が聴こえたが、これも大したダメージにならなかったはずだ。
何とか離れねば、そう思って跳んだ瞬間、棒状の物が頭部にぶつかってきた。戦斧の柄だ。
とにかく跳んで後退した。何とか息を整える。
今までの過程の何処かでやられたのか、生温かいモノが鼻腔から滴っていた。髪もぬるっと湿っている。尋常ならぬ力で殴られたのだから当然だろう。
拭っている余裕は無い。今にも遠のきそうな意識を奮い立て、ゲズゥはまた攻撃に出た。
あろうことか、頭領もその時、前に出た。
――まずい。
瞬くような焦燥が過ぎった。間合いが外れるからではない。
奴の手に、短い方の斧が握られていた。いつの間にか長い戦斧を捨てたのだ。確か、こっちは鋭利だ。
ゲズゥは振り上げかけていた腕を引き、ちょうど大剣の
頭領が仰け反ったためいくらか勢いはそがれるも、顎に向けて奴の頬の肉がぱかっと開いた。
大したこと無いように引きつった笑みを浮かべ、頭領は斧を振るった。咄嗟にゲズゥは下がった。
それにしてもこの男は、一体どうすれば怯むのだろうか。
痛みを意識から切り離す能力に関してはゲズゥも優れているが、目の前の男のそれは異常とすら呼べる。
既にゲズゥは肩で息をしていた。だが立ち止まっていられない。
反射神経に頼って、次々と繰り出される斧の攻撃をかわし続けた。
奴が特に大振りした時を見極め、ゲズゥは剣を放して宙を跳んだ。敵の背後に着地すれば狙い打ちされる可能性が高いが、今なら――。
案の定、巨漢はすぐには体の向きを変えられない。その隙に、ゲズゥは頭領の岩のような肉体を掴んで投げ飛ばした。
抵抗されたのと重量がありすぎたのが原因で、奴はそれほど遠くへ飛ばなかった。三ヤード先でうつ伏せになっている。
それでも十分、体勢を立て直す時間ができた――と思ったのだが、体に力が入らない。視界が霞んでいる。ゲズゥは膝に手を付いた。
目の焦点が合った僅か数秒の内に彼はそれを見た。うつ伏せていたはずの男が顔を上げ、何か動いているのを。
見ただけでどうすることもできなかった。
ごっ、みたいな鈍い音と共に腹部に激痛が走った。
誰かの甲高い悲鳴が耳をついた。
ますます視界が揺らいだが、何が起きたのかは、見なくてもわかった。
――あの男、あんな姿勢から投擲したのか。
こうなっては感嘆するほかない。これほどの人間に出逢うことなど、人生でそうそう無いのではないか。
熱が内に広がるような感覚がして、ああ、これは打ち所が悪い、致命傷だな、と直感的に察知した。
察知したら、一気に視界が黒く染まった。
黒い海の中を急速に沈んでいるような感覚だった。
頭上の水面の方からはエンの数える声がするが、みるみる内に遠ざかっていく。試しに泳ごうとしてみたが、そもそも手足を持たない空間なので無意味だった。
底の方からは……呻き声? 泣き声? のようなものがした。
ゲズゥは海底の方を見やったが――四方八方が真っ暗で何も見えないため、そして身体が具現化されていないため、実際に下を向いていたのかは定かではない――相変わらず暗闇しか見えない。そこで、声の正体に気付いた。どうしてそれに気付いたかはこの際どうでもいい、ただ、根拠無く確信が持てた。
海の底に居るのは、自分が今までの人生で害してきた人間達の怨念だ。或いは魂そのもの。
なんとなく、あの中には生きた人間のものと死んだ人間のものが混同しているのだと思った。
このまま沈み切れば、間違いなく絡め取られる。そうしてきっと、自分は魔物に転じるだろう。
前にミスリアに聞かされた話が本当ならそうなるわけだが、裏付けなど無くても、何故だかこれも確信できた。
今日までに死にそうな目に遭ったのは数え切れない程にあったが、こんな感覚は初めてだった。
恐怖は感じないが、処刑される寸前のあの時に比べて、いくらか気になることがあった。例えば、自分の死を悲しんでくれる人間が居るかどうか。
――アレは、気付きはするだろうが、泣いてはくれないだろう。アズリは……期待しても無駄。エン辺りは悼んでくれるだろうか、それにオルトも。ミスリアは?
ミスリアは――そうだ、あの人の好い娘のことだ、現在この場でゲズゥが魔物に転じたなら、きっと浄化してくれる。魔物になって味わう苦しみもそれなら長引かずに済む。
更に運が良ければ、先に亡くなった同胞の元に還れるかもしれない。「神々へと続く道」、だったか? そんなものがあるなら、その真偽を確かめる機会ともいえよう。
母の「長生きしなさい」という言葉を守れないのは残念に思う。従兄との約束とて、結局果たせていない。でももう、実現不能だから諦めるしかない。
まどろみながら、ゲズゥの意識はどんどん沈んでいく。底から伸びる、恨めしそうな声が大分近くなっている。
魔物として存在するのはどんな気分だろうか、知能が無くて誰とも通じ合えないというのは――いよいよそんな事を考え始めていた。
刹那、水面の方で何かが光った。
見間違いかと思って注意したら、今度は力強く、光が海に潜り込んできた。
自分は深く沈んだはずなのに、光は触れられそうなぐらいに、まるで追い付こうとしているように、迫る。
淡い金色の、温かい帯。母の無償の愛のような、大らかに包み込むような温もりがあった。
――知っている。
普通の光などにこんな性質は伴わない。何故、どうやって、どうすれば、と疑問が一斉に沸いたが、捨て置いた。
それ以上考える必要は無かった。
ゲズゥは光の帯に縋るように、意識を集中させた。
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