20.

 まだ三人だった頃の旅の道中、時たま休憩がてらに、ミスリア・ノイラートは友人であるカイルサィート・デューセの話を聞いた。

 その多くは教団の他の同期の近況など他愛も無い話だったが、聖人・聖女者同士、専門的な会話を交わすこともあった。大抵そんな時はミスリアの護衛であるゲズゥ・スディルはいつも不参加か、席を外している。

「――と、このように、教団に教わった聖気の扱い方を応用すればこんな事もできると思う。理論上はね」

 二人はそこら辺に転がっていた丸太に腰掛けている。カイルが白い紙を一枚、ミスリアに手渡した。いつもカイルは紙に図式を書くなどして、こと細かく説明してくれた。

 木々の間から差し込む陽の光が照らす紙には、彼が組み上げた三つの応用方法が描かれていた。

「確かにできると思います」

 ミスリアは図式を凝視しながら、心底感心していた。学んだ術を元に新しい力の使い方を生み出すなんて、誰にでもできることではない。

「教団の人間も、これくらい考え付いたことはあるはずだけどね」

「そうなんですか? ではどうして、修行で教えてくれないんでしょうか」

 意外に思って、ミスリアは問い質した。

「あまり実用的じゃないからだよ。例えば無機物に聖気を纏わせるには、身体に直接触れている物でなければならないって教えられたでしょ? 理論上は離れた物でも可能だけれど、それを実現できる人間は数少ない」

 カイルが三つ目の応用方法を例に挙げて、即答する。

(でもこの前、村の跡地で……)

 以前、魔物に捕らわれたゲズゥを助ける為に、ミスリアは遠くから剣に聖気を纏わせたことがあった。いつもより精神への負担は重く、成功するまでに密かに二、三度はやり直した。でも、確かに実現できた。

「君は高い集中力とイメージ力と、生まれ持った素質を兼ね備えてるから、どれも実現できるよ。あまり勧められないけどね。高度な術は反動も大きい……意識を保てなくなるほど憔悴したら、覚めない眠りにつくかもしれない」

 神妙な面持ちでカイルがそう続けたので、ミスリアも頷きを返した。

「難しい術は使わずに済むのが一番です。きっと、この応用方法も理論だけに終わります、よね?」

「さあ……。君らの旅はまだこれからだから、どこか思わぬ所で役に立つかもね。余程の事態になればだけど」

 カイルはいつもの爽やかな笑顔で、そう言った。


_______


 目が覚めた瞬間、全身のあらゆる痛みが洪水のように脳を満たした。

 動かなければならないのに、また意識を手放しそうになる。ゲズゥは反射的に目を瞑った。浸っている場合では無いが、「聖気」の余韻がまだ残っている。

 おかげで、斧を生やしたままの腹はともかく、破裂した内臓がいくらか修復されていた。

「にじゅうにー」

 エンの数える声がまだ続いている。敗北が決定するまで、残り四秒。

 問題は、半端に起きようとしたら頭領に気付かれることだ。

 今目を開いた一瞬で見た限り、奴の視線はこちらに向いていなかった。一気に起き上がれば、不意打ちできる。

 何か使える武器が手近にあれば、と考えを巡らせる。

「にじゅうさーん」

 流石に斧を抜くのは気が引けた。乱暴に引き抜けば傷口が開くし、かといって長く放置しても悪化するだろう。

 速やかに勝負を決めて、一刻も早くちゃんとした手当をしなければならない。

 ふと、思い出した。

 ――もしお邪魔でなければ、これを身に着けて行ってください。

 そういえば今朝、ミスリアに渡された物があった。

 闘いの途中で無くなっていなければまだあるはずだ。ゲズゥは首辺りをまさぐった。それは、期待通りにまだ首回りにあった。

「にじゅうよんー」

 もう猶予は無い。

 目を見開き、飛び上がり、握り締めた拳を振り上げる――と、滑らかな行動の連鎖を紡いだ。

 客席を向いていた頭領が気配に気付き、目を丸くして振り向いた。

 その左目に、ゲズゥは拳の中の物を刺した。ずぷ、と濡れた音がした。

「ぐああああああああああああ!」

 苦痛に叫ぶ頭領を、ゲズゥは飛び掛った勢いで転倒させ、その上にのしかかった。

 奴の目元から手を放し、両手で頭を挟むと、それを持ち上げては地に叩き付けた。

 抵抗がなくなるまで――何度も、何度も、何度も。

 やがて会場が静まり返る。

 ひゅう、と誰かが口笛を吹いた。

 顔を上げたら、ポケットに片手を突っ込んだ、物凄く楽しそうな顔のエンがいた。

 そうしてカウントが始まった。

 ――今までの人生を顧みても、これほど長く感じた二十六秒は他に無い。

 自分が組み敷いている巨漢がいつ目覚めても問題ないように、ゲズゥはずっと身構えていた。

 だが、砂利に血だまりが広がるだけで、奴はついに起き上がらなかった。

「……にじゅうろく! 勝者決定――」

 その後にエンが何かを言ったとしても、それは誰の耳にも届かなかっただろう。

 闘技場全体が熱気を帯び、ブーイングと歓声が嵐のように降ってきた。どっちの声がより多いのかは、正直わからない。

 ゲズゥはとりあえず馬乗りの姿勢を解いて地面に座した。視線を落とせば、腹からの出血が増えていた。動いたのだから当然だ。シャツの袖を破いて、斧が深く刺さっている患部回りを押さえるように巻いた。

 そこへ、ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべるエンがやってきた。その顔は一瞬で険しくなった。

「傷、なかなかヤバそうだな。医療に詳しい奴呼んでやろうか? 来客の中にも何人か居るだろうし」

 エンは自分の背後のスタンドの方を親指で指した。

「いや、いい」

 慣れない足取りで手すりを飛び越える小さな人影を目の端で捉え、ゲズゥは頭を振った。「それには及ばない」

「そうか? 何か当てがあるんか」

 そんなようなものだ、とゲズゥは心の中で答えた。人影が何とか無事に着地し、こちらへ向かって走って来るのが見えた。

 ――そうだ、ミスリアの身分が聖女であることをこの男に明かすべきか、まだ隠して置くべきか……。

 ゲズゥは無意識に頭を押さえた。どうにも考えがまとまらない。出血が多すぎたのだ、まるで脳味噌が溶けているみたいな感覚だ。実際に頭を殴られたわけだが、多分、倒れた時にもう一度打っている。

「おい、ホントに大丈夫か?」

「……お前は自分たちの頭領の心配はしないのか」

「別にこんくらいじゃあ死なねーだろ。知ってたか? 頭はもう十年以上負け知らずだったんだよ。お前やっぱスゲーな」

 けろっと答え、また、エンはどうしようもなく嬉しそうな表情に戻りかけている。子供っぽい無邪気な笑顔の裏に、個人的な恨みのようなものが見え隠れした。

「ネックレスか。開始時に身に着けていたものなら何でも武器にしていい、ってルールにぴったりな決着だったな」

 エンは頭を少し傾け、頭領の目に刺さっている小物に視線をやった。十字に似た形の銀細工のペンダントと、それについている細いチェーンを。

 その時、何か返事をしようと口を開いたゲズゥの顔に、温かいものが衝突してきた。次いで視界の右半分が緑色になり、残った視界の中で、エンが目を丸くしたのが見えた。

 何が起きたのかわからずに、呆気に取られた。

「よ、かった……!」

 息も切れ切れに、少女の声と熱い吐息が頭に降りかかった。

 驚きで忘れかけていた痛みが戻ると、ゲズゥは自分がミスリアに抱き着かれたのだと理解した。

「ひっく……死んだ、かと……思っ……」

 加えて、しゃくり上げるような声が聴こえる気がする。

「…………確かに、俺も死んだとは思ったが」

 どこか気の抜けた言葉が、口をついて転げ出た。

 そこでミスリアは手を放し、半歩下がった。ゲズゥは新たな驚きを覚えることになった。

 少女のくしゃくしゃに歪んだ顔に幾筋もの涙の跡があった。多分、鼻水の跡も。

 しかし不思議とそれは醜く感じられず、むしろ美しい――? というより、嬉しい? ような、奇妙な感想が沸いた。

 そういえば以前、攫われた聖人を助けに行った時も、ミスリアは無事に再会できたあの男に泣いて抱き着いていたが、まさかそれが自分にも向けられる日が来るとは思わなかった。

 そうだ、誰かが心配して涙してくれることが、嬉しい。

 何年も前に置き忘れていた感情の欠片を、ふいに取り戻した気がした。

「……助かった。礼を言う」

 この少女には既に幾度となく救われているため、どこか今更な気もしたが、ゲズゥは感謝の言葉を述べた。

 ミスリアは頷いてゲズゥの肩にそっと片手を置いた。温かい、と思った次の瞬間、体中を駆け巡る感覚に気付いた。

 誰にもわからないように聖気を流し込まれている。晴天であるのも好都合で、太陽光に紛れてミスリアの発する金色の光は目立たなかった。

 ついでに、ゲズゥは腹に刺さったままの異物を慎重に抜いた。

 エンが訝しげに腕を組み、しかし黙して一連の展開を見守っている。

 ゲズゥはゆっくりとした足取りで歩み寄ってくる女を見上げた。

「ねえ、私も絶対、死んだと思ったんだけど。どんな手を使ったのよ?」

 顔は笑いの形になっているが、アズリはじっとりと絡みつく、追求する目をしていた。サファイア色の瞳がミスリアに移った時、少女は僅かにひるんだ。

「気にするな」

 それはアズリに言っているように聴こえて、その実、ミスリアに向けた言葉だった。

 彼女はおそらく聖気を使ったことを気にしているのだろうが、それはゲズゥにとっては些事だった。

 これは公平性を重んじる純粋な闘技ではなかったし、誰がどの賭けで損していようが、こちらの知ったことではない。無事に生き残って山脈を抜けることが第一の目的で、それに至るまでの過程はどうでもよかった。

 その時、言い合いながら会場に降りてきていた数人の人間が、しびれを切らしたようにこちらに向けて走り出していた。ミスリアが不安そうにそれを見つめている。

 アズリは唐突にエンの方へ向き直った。困ったわね、と呟いて頬に片手を添えた。

「この事態を招いたのは、アナタでしょ? どうする気」

 どんな時も、アズリは急がずに話す。

「この事態ですか」

 対するエンは曖昧に笑った。「さあ、どうしましょうね」

 客席の至るところで乱闘が勃発していた。そのほとんどは賭け事で揉めているのだろう。

 だがこちらに走ってくる人間の目は、もっとぎらぎらと欲や謀に光っていた。

 奴らの目的はおそらく――この隙を利用し、敗して倒れた山賊団頭領の首を持ち帰ることだ。

「私たちの取引相手たちをはじめとした外部の人間に文を飛ばして呼び寄せたのは、イトゥ=エンキ、アナタね。こうやって、かき乱す為……あわよくば、ユリャンに巣くうこの山賊団を壊滅させるか、どこかに乗っ取られるか、したいの? それとも、この人を追い込んで、何かをおねだりするのかしら」

 この人、と発音した時にだけ、地面に仰向けに横たわる巨漢に視線を落とした。アズリは悪戯っぽく笑って、指で髪を梳いた。

 ――なるほど、あんなに客が多い理由はそれだったのか。

 ゲズゥは心の内で納得した。

「気付いていたなら止めれば良かったでしょうに」

 エンが肩をすくめた。

「そうね。正直言うとゲズゥが勝つとは思わなかったから……」

 前触れなく、矢が飛んできた。

 元々何(または誰)が狙いだったのか定かではないが、軌道を辿り切れば矢はアズリの太腿当たりに止まるはずだ。ミスリアが小さく息を呑むのが聴こえた。

「姐さん!」

 横から誰かが飛んできて、円形の盾を振りかざした。矢は軌道を逸れ、地面に刺さる。その勢いで砂利が飛ぶ。

「あら、ありがとう」

「いえ。アニキも危ないっす、ココはおれらが!」

 わらわらと現れた団員が、襲撃者の前に立ちはだかる。

「おー、悪いな」

 エンが片手をポケットに突っこんだまま、軽やかな足取りで下がった。

「貴女が挙げた理由も全部あながち外れちゃいませんが、本当はもう一つあります」

「ふぅん? 何かしら」

 こともなげにエンとアズリの会話が再開した。

 エンが言うもう一つの理由に心当たりは無いが、この事態がゲズゥらに取って都合の良い結果を導くであろうと、何故か予感していた。が、動機を占める大部分は個人的な感情や理由だろうと、それもなんとなく察しがついていた。

「こんなカンジで、頭が居ないと絶対収拾つかないような状況を作ってさ。オレは、チャンスに乗じてうっかり自分が頭を殺しちまわないように、わざとこの事態を招いたのかもしれない」

 そう言って、「紋様の一族」の生き残りの男は、鮮やかに笑った。

 恐怖の類を感じないゲズゥでも思わず静止してしまうような、悪意の溢れる凄艶な笑みだった。

 反射的に警戒してしまうが、悪意が向けられている相手が自分ではないと熟知しているので、すぐに解いた。

「……そう。アナタたちの関係が一言で言い表せないのは、よくわかったわ」

 アズリが僅かに肩を引くのを、ゲズゥは見逃さなかった。アズリでさえ反応する程ならば、ミスリアの方はどうだろうか。ゲズゥは少しだけ首を傾け、ミスリアの表情を窺い――眉をひそめた。

 彼女はどこか焦点の合わなそうな目で、襲い掛かろうとする連中の方をぼんやり見つめている。ついさっきまで普通に怯えや不安などの感情を表していたのに、今は心ここに非ず、といった風だ。

 様子がおかしい――。

 ゲズゥが呼びかけようか迷っている内に、エンが呟いた。

「さて、と。どうやって起こすかな。おねだりしたいことは、無くもないんだな」

 頭領の傍にしゃがんで、頬を叩いたりしている。

「でもお前、容赦なくやったからなー。簡単には起きないかもなー」

 エンがちらりと、こちらに視線を送った。それを機に、ゲズゥは口火を切った。

「方法ならある」

 そう言って、ゲズゥは肩に触れたままの小さい手を握った。反応が無いので、次いで名を呼んだ。

「ミスリア」

 呼んでからも数秒ほど反応が無かったが、やがて少女は振り返った。

「……はい?」

 茶色の瞳が揺れた。

 ゲズゥは目配せで、頭領を起こすように促した。察しの良いミスリアのことだ、これまでの会話を耳に入れていたならば、それだけで意図を読み取れるはずだ。

 反応速度が普段より遅いのが気になるが、ミスリアが頷いたので、握った手を放してやった。

「イトゥ=エンキさん、私は『聖女』です。その方を、気付かせることはできると思います」

「嬢ちゃんが聖女だって? あー……道理で……。ちょっと待ってくれ」

 エンは首をやや後ろへ傾け、思考を巡らせるためか、目を閉じた。

 小麦色の肌に、アザみたいに色素の濃い箇所が、薄っすら浮かび上がっている。それらの形状は、いつも露わになっている左頬の模様に酷似していた。

「じゃあ、頼むぜ」

 しばらくしてからエンは目を開け、体を傾けてミスリアに細かい指示を耳打ちした。わかりました、とミスリアが返事をし、頭領の真上に手をかざした。

 外傷が治る様子が無い。あくまで、意識を取り戻させる程度の治癒を施しているのだろう。

「おはようございます、頭。じゃなくて……オヤジ、かな」

 頭領の目が開いたのと同時に、エンがその腹に片足を乗せた。折り曲げられた自らの膝の上に肘を乗せ、微笑んでいる。

「取引しようぜ」

 いつの間にかエンの皮膚が所狭しと黒い模様に覆われていた。

 感情の起伏に合わせて全身にも模様が浮かび上がるのは、紋様の一族のもう一つの特性だ。

 それは美しいのか恐ろしいのか、多分どちらでもあってどちらとも言えない、姿であった。


_______


 頭領が起きた後の怒涛の展開を、ゲズゥはあまり覚えていない。

 奴が起き上がり、雄叫びを上げ、それで時間が止まったかのように会場が静まった所まではちゃんと注意していた。

 直後、先に硬直が解けた連中はそれでも諦めずに頭領を攻撃しようとしたが、あまりに一方的に襲撃者どもがやられるもので、観察する気も失せたのだった。

「アンタも飲む?」

 ふわりと、女の声と、甘酸っぱい香りがした。ゲズゥは洞窟の天井に向けていた視線を、下へ落とした。壁の炎だけが明かりなので少し目を凝らす必要があった。

 アズリがグラスを差し出している。香りの発生源はグラスの中のクリーム色の液体らしい。確か、特種な樹液を発酵させて作った酒だ。

 グラスの細い足に巻き付いた白い指が、闇の中では妙に艶めかしく見えた。

「まあ、でも、両手が塞がっているものね」

 ゲズゥが答えないからか、アズリはひとりでに納得して手を引いた。唇にグラスを引き寄せ、微笑んでいる。

 手が塞がっているというのは、先刻気を失ったミスリアを抱えていることを指しているのだろう。

 腕の中の少女を見下ろした。一見眠っているようで、実際は力尽きてぐったりとしている。

 ゲズゥは左手を肩、右手を彼女の膝裏に回してそれぞれ支えていた。ミスリアの栗色の髪が幾筋か顔にかかっていて、口元を覆い隠している。

 頭領との交渉が落ち着いた直後に、ミスリアは倒れた。

 おそらくは聖気を使ったことに関係ありそうだが、あの決闘から数時間経っても、一向に意識が戻る兆しはない。

 果たしてこれが深刻な問題に展開するかどうか、気がかりである。

 ふいに顎をつままれた。

「どこ見てるの。目の前にこんなイイ女が居るのに、無視するなんてひどいわ」

 ずいと顔を近付けたアズリが、すぼめた唇で文句を垂らした。日頃の冗談よりも真実味のある言葉に、ゲズゥは違和感を覚えた。

 熱い吐息から香る、甘酸っぱさに混じった独特な匂い。それを嗅いだ途端、察した。底なしに酒に強いアズリが酔いを表す程、グラスの中身は濃い酒といえよう。

 アズリの右手がゲズゥの頬にそっと触れた。

 柔らかい指の温かさが、背に触れている硬い壁の冷たさと対照的だ。

「アナタは初めて会った時から、不思議で、面白い子だったわ。一緒に生きることは無いでしょうけど、それでも一時でも私たちの道が交差して、楽しかった」

 うっとりと、懐かしむ目だった。これも、真実味を帯びた物言いに思える。

 ゲズゥは特に返す言葉を持っていなかった。あの思い出はあまり楽しいと形容できるものではなかったし、もう一度戻って選び直せと言われたら、今度は関り合いにならない方を選ぶかもしれない。どちらでも大して変わらない気もする。

 そしてこの絶世の美女が自分をどう思っていたか、前々から感じ取っていた。

「……私は自分の生き方が気に入ってるわ。変えるつもりは無いし、その必要も無いと思ってる」

 そう言ってアズリの美貌が更に接近してきた。

 背後が壁なので後退ることはできない。左右にアズリの取り巻きが佇立してるので横へ逃れることもできない。ミスリアを抱きかかえたまま飛び上がるのも楽にできない。

 が、次に起きることを逃れたり拒まなかったりした一番の理由は、意識のどこかでそれを求めていたからだろうか。

 首を屈めて瞼を下ろした。

 押し寄せてくる、女の微香。

 頬を撫でる手よりも柔らかい感触が、唇をかすめた。次いで湿った舌が上唇をなぞってきた。応じて舌を絡め取ると、酸味がした。少し遅れて甘い後味が口の中に残る。

 四年前――つまらない世界を漂って生きていただけの自分に、アズリの存在はやけに鮮明に焼き付いたのだった。

 ――この女も、漂って生きているから?

 自分と違って、やたらと楽しそうにではあるが。

 熱情に憑かれていなかった時はこの包み込まれるような心地良さを求め、強く惹かれた。

 総て錯覚だったと後になって理解したが、甘美な錯覚であると、今でも認めざるをえない。

 こうしている間もアズリの取り巻きは何一つ干渉して来なかった。しばらく、無心に唇を重ねた。

 ようやく少し隙間を開けると、まだ大分顔を近付けたまま、アズリはくすりと笑った。

「昔からアナタはどこか空虚な印象があった。その場その場で生きていた感じかしら。生に執着があったとしても、生きる上での選択肢に対しては、無かったのでしょう」

 的を射た指摘だ。

「効率がよければ、どんな生き方でもいいと思っている節があった。でも再会したアナタは少し違う。雰囲気そのものは変わらないけれど、潜在的な場所で、執着が芽生えた。それか、長く諦めていた何かにまた手を伸ばそうとしているのかしら」

 笑顔で囁いたアズリを、ゲズゥは片眉を吊り上げて見つめ返す。

 よく人を観察している女だ、と思った。

 ゲズゥ自身ですらほんやりとしか認識できなかった感情を、次々と言い当てている。

 ぽたっ、とどこかで水滴が天井の鍾乳石から滴っては、地面で弾けた。

 アズリの形のいい鼻が頬をかすめた。

「旅の道中、何を見て、聞いて、体験したのかしら? 誰かの生き方に感化でもされた?」

 右耳のすぐ近くに放たれたその一言をきっかけに、今までに関わった面々が脳を流れ過ぎた。

 迷いながらも何か目に見えないモノに立ち向かおうとする小さな聖女。目的を達成する為に、進むべき道を模索し続ける聖人。夢を抱いて命尽きた赤毛の少女と、その遺志を汲もうとする、魔物狩り師を志す少年。高みを目指して飽くことなく進むオルトや、奴に心酔して付き従う元・女騎士。或いは、己の目指す場所を見失って迷走した司祭でさえ、ゲズゥに影響を与えたというのだろうか。

「心当たりがあるのね」

 ゲズゥは無言で瞬いた。アズリの指の背が、頬を撫でる。

 ――わからない。

 誰も彼もが理解しがたく、自分とは異質な世界に生きているのだと割り切っていた。

 割り切っていた、が。他人の在り様を眺めつつ「何故?」と疑問に思う頻度は、近頃上がっているように思えた。ことミスリアに関しては特にそうだ。

「波紋が広がってるわ」

 主語が省かれたので、どういう意味か想像した。――「風無き日の水面が如く揺らぎを知らなかった心に、波紋が広がってる」――?

 サファイア色の双眸に慈しみの色が過ぎったように見えたが、次の瞬間には消えていた。

「それがアナタの今後の人生をもっと豊かにするのか、それとも辛くするだけなのか、私にはそこまで予想がつかないけれど、ね。好きなだけもがけばいいわ」

 しゃらん、と腰回りのアクセサリーを鳴らしてアズリが身を翻した。

 すっかりゲズゥへの興味が失せたかのように、すたすたと歩き去ってゆく。十ヤード先で止まり、こちらに手招きしてきた。呼ばれるがままに、ミスリアを両手に抱えたまま、ゲズゥは歩み寄った。

「そろそろお邪魔するわよ」

 布で仕切られた入口に向けて、アズリが声をかける。

「おう、ヴィーナか。入っていいぞ」

 あの頭領の野太い声が、カーテンの向こうから響いた。

 優雅な仕草でカーテンをどけて、アズリは部屋に入った。ゲズゥが一歩遅れて続いた。

 会議室の役割を担う部屋なのだろう。長方形に削られた、大きな石造りのテーブルが空間をほとんど占めている。

 テーブルの中心に高価そうな蝋燭立てが置いてあった。樹木みたいに大元から枝分かれした形で、十本もの蝋燭が使われている。

 長方形テーブルの両端に――頭領は胡坐をかき、エンは片膝を立てて、それぞれ座している。

 どちらも微妙な笑顔をおもてに張り付けていた。エンは先程の状態が納まったのか、模様が左頬だけになっている。

 闘技場で勃発した乱闘が収まってからも諸々の後始末があったらしいが、ゲズゥ自身は傷の手当や着替えを済ませて、遅い朝食を摂っていた。

 山賊団の問題に関与する気は毛頭なかった。誰かが絡んできても、丸きり無視してやった。

 そうしてミスリアの様子を見つつ通路の隅に座り込んでいた時に、アズリの取り巻きに呼ばれたのである。あの二人の「取引」の結末を見に来い、と。

「気は変わらないのか。イトゥ=エンキ」

 何か落ち込むことがあるのか、頭領の声音は重苦しかった。

「無理。今更だと思うかもしんねーけど、オレはココにいられないんだよ。理由は、知ってんだろ」

 これまで頭領には丁寧な口調を使っていたエンが今は砕けた言葉で、答える。

 どうやらエンの離脱が会話の論点らしい。

「まだ儂を疑ってんのか、おめぇは」

 短く剃られた髪に分厚い掌をこすっている。動作に苛立ちがにじみ出ている。

「白々しい。十五年、否定も肯定もしなかったくせに」

 そう答え、エンの顔から表情が消え去った。

 二人はまるで周りに誰もいないかのように話し込んでいる。実際はアズリやゲズゥたち以外にも四人居た。全員、テーブルを囲って座る気になれないのか、壁を背にして立っている。

 頭領の後ろに控える体格の良い二人はものものしい雰囲気を漂わせ、一方でエンの後ろの二人はハラハラしながら視線をさまよわせている。

「確信を得るに十分な材料が無くたって、アンタを憎むには足りた」

「儂はおめぇを引き取って育てた。後ろめたいモンがあったらやらねぇだろ? わざわざそんなコト」

 ゲズゥはあることを連想した。

 世の中には、子持ちと知らずに雌狼を退治し、後に罪滅ぼしのつもりでその子供を育てる物好きな人間も居るらしい。この巨漢がそんな人種とは思えなかった。

「後ろめたさを感じるような人だったん? つっても、育ててくれたのは一応感謝してるぜ。おかげで、この歳まで生きられた。でもそれと家族を奪われた恨みは別モンだ」

 その時ゲズゥは、エンの言葉に妙な引っ掛かりを感じた。

 確かに険しい世の中を子供が一人で生き抜くのは困難だが――ゲズゥの実経験が十分に証明している――それだけで、「この歳まで生きられた」と表現しないような気がする。

 しかしそんなことよりも、エンが頭領を家族の仇と認識していることが明らかになった。

 涼しい顔のアズリ以外の人間が、新事実に驚愕している。

「お頭が、アニキの家族を奪ったって、どういうことだ……!? 殺したってコトなんか?」

「知らねぇよ! オレだって初耳だっつーの! アニキのことは、ガキの頃に拾ったとしか……」

 エンの後ろの二人が小声とは言えない音量でひそひそ話をした。

 頭領の後ろの二人は微動だにしないが、平静を装うのが巧いだけで、以前から知っていたとは限らない。

「誰を恨んだとしても死人は返らないぞ」

 外野の動揺を全く気に留めない様子で、頭領が冷ややかに断言した。

「わーってるよ。だからオレもアンタを殺そうなんて考えちゃいない。ま、ちっさい頃は何度か寝首かこうとして返り討ちにされたけどな」

 言い方は軽いが、紫色の瞳には憎悪が浮かんでいた。

「そうだったなぁ、懐かしい」

「ぜーんぶ、無駄なあがきだったな。どっちみち、オレは頭を殺して……山賊団を、こんな大勢の人間の人生をめちゃくちゃにする度胸も無いんだ」

 これでも仲間だし、と背後の二人に向けて呟く。二人の男は嬉しそうに頷いた。

「ほう」

「だから、出てくだけにしとく。オレにつけてる監視を外せ。そんで二度と関わるな」

「……何で、今になって出てく。ソイツらの為か?」

 頭領が大きくため息をついて、目配せでゲズゥを指した。

「きっかけを待ってた」

 エンは頭領の視線から顔を逸らした。

「もう何を言ったって無駄だし、取引は取引だ。オレは山脈を出てくぜ、ゲズゥとミスリア嬢ちゃんと一緒に。どうしてもダメだってんなら……」

「ダメだってんなら、何だぁ?」

 頭領は白の混じった薄茶色の髭を撫でた。

 ただでさえ涼しい部屋の気温が、更に下がったような感覚があった。テーブルを挟む両者が睨み合いになり、会議室が不穏な空気に包まれた。

 ――関与したくない、けれどもエンを見捨てるのは得策ではない。事態がこじれたらこっちを解放する約束も白紙に戻されかねない。

 ゲズゥはミスリアを抱える手に僅かに力を込めながら、考えた。

 そもそもこの頭領がエンに執着する理由が不明瞭だ。いや、理由があると仮定するのが間違いかもしれない。

 数分かけてもこれといった案が浮かばなかった。ゲズゥは試しにアズリの方を一瞥した。

 すると期待通り、空気が凍りかけている部屋で、彼女だけが動いた。

「血気盛んだわねぇ」

 トン、とアズリは石のテーブルの上に腰をかけた。次いで足を組むと、衣が翻り、白い太腿が現れた。

 あれだけ裾が長いというのにどうやって脚を見せたのか、器用な座り方だ。

 部屋中の視線がアズリの太腿に吸い付いた。蝋燭立てのすぐ隣であるだけに、その白さは一層際立っていた。

 彼女の笑顔は、勝ち誇っているようにも見えた。

「まあ、いいじゃないの。ひな鳥が巣立つのを見送る親鳥の要領で、送り出せば?」

「ヴィーナ。口を出すんじゃねぇ」

 強気な口調の頭領の方へ、アズリは身を乗り出した。

「見苦しいわよ」

 軽蔑の込められた目だった。

「なっ……」

「刺された目を治してもらったでしょ。約束守れないオトコはカッコ悪いわ」

 何があっても怯まなそうな大男が、自分より一回りも二回りも小さい女に、冷たい目を向けられただけで萎縮している。

 エンが頭領に出した条件は――自分の望みを一つ叶えてくれるなら、負傷した目を治すように聖女に掛け合ってやる、だった。

 他の日であれば頭領はそんなものを笑い飛ばしたかもしれない。隻眼になったところで生活はできる。だが、あの時ばかりは事態が切迫していた。

 奴は条件を呑んだ。少なくとも、そのように振る舞った――。

「奪って生きるのは正しいことよ。でも、嫌われたくない相手から奪っても、自分が悲しいだけだわ。親子というキレイな思い出のまま、終わりたくないの?」

「おめぇが気にかけてんのは部外者の方だろぉ。何でそこまで肩を持つ?」

 苛立った質問に対して、アズリは笑みを返した。

「アナタがイトゥ=エンキを傍に置きたいように、私だってあの子たちが可愛いのよ。アイの形が違うだけ」

「愛、だと――」

「欲張らないで。十五年も居て、しかも反抗期も無かったんでしょう? 充分だわ。それ以上望んでどうするの。子供ってのは、追い詰めたら逆上するものだから。自由にさせるべきよ」

 あのゆっくりとした話し方で、アズリは威圧的な言葉を浴びせる。

「そりゃあまあ……おめぇの言うコトもわかるが……」

「姐さん、子供産んだことあるんですか」

 耐えかねたように、苦笑交じりにエンが口を挟んだ。

「どっちだと思う?」

 ふふ、とアズリは笑う。

 いつの間にか、話の流れをアズリが掴んでいた。

「一番可愛いのは自分だけど、お気に入りの玩具にだって、たまには手を貸すわ。ましてや昔なじみだもの、そのよしみで助けてあげたいの」

 アズリはゲズゥに向けてウィンクした。次いで、滑り込むように頭領の膝の上に乗った。

 ねぇ、と甘い声で囁く。

「――……しょーがねぇなあ」

 頭領は、呆れと疲れの混じった深いため息をついた。

 その答えを聞いたエンが破顔した。全身の肌に、黒い模様が浮かび広がっている。


_______


 眼前に何か障害が待ち受けているような予感がして、立ち止まった。

 踏みしめている草の感触が、サンダルの裏から伝わる。

 ゲズゥは足元を注視した。灯火の無い夜の闇では、ほとんど何も見えない。その上、今夜は新月らしい。星明かりもあまり頼りにできない夜だ。

「どした? 敵か?」

 すぐ後ろから追いついてきたエンが、小声で問うた。

「気配は無い。ただの勘だ」

 しばらく目を凝らしてみたら、数歩先の闇が濃さを増しているように見えてきた。

「ちょっと待て」

 エンは今まで通ってきた道を思い返すように、額に指先を当てて唸った。周囲の正確な地図が頭の中に記録されているらしい。

「そうか、此処は――」

「何を立ち止まってるんですか?」

 若い男の声がしたと思ったら、その男がゲズゥの横を通り過ぎた。

「あ、こら、貴族の坊ちゃん。だからそっちは」

「ぎゃあっ」

 エンの制止の声もむなしく、どこぞの貴族の五男坊とやらは、身体を宙に浮かせた。

 じゃらっ、と音がした。奴の腰にエンが鎖を巻き付けて、転落を防いだのである。

「斜面が急に切れ落ちるから気を付けろ、って言おうとしたんだ」

「すみません……ご迷惑おかけします」

「なあ、お前けっこー重いのな。オレ非力なんで、引き上げんの無理かも」

「そ、そんなあ!」

 掠れた声での、悲痛な叫びだった。

「冗談だって。あんま大声出すなよ。魔物や猛獣が寄ってくるぜー」

 けらけら笑いつつエンが鎖を引いた。

「魔物はいいけど、野獣には出遭いたくないなー」

「どうしてです?」

 再び地に足を付けてから、五男坊が訊ねた。

 その問いに、わかってないなー、と頭を振りながらも、エンは詳しく答えた。

「動物は侵入者を襲う時とそうしない時を判断するから、駆け引きが重要になってくる。仲間や子供が隠れてるとまた色々面倒だし。魔物はどんな時も必ず襲ってくるから対応は『倒す』の一択で、楽だ」

「はあ……楽なんですか……」

 五男坊は力なく答えた。

 そうだぜー、と静かに笑いながらエンは斜面が切れ落ちる直前まで踏み出た。ポケットに片手を突っ込み、遥か下へ視線を注いだ。

「どうする? オレの記憶してる高さのままだったら、簡単に降りれるもんじゃないぜ。荷物もあるからなー、特にお前」

 エンがゲズゥの背中をチラチラ見ながら言った。

 旅に必要な物を入れたリュックしか持っていない二人と違って、ゲズゥは荷物が多かった。

 剣帯を調整し、大剣が水平になるよう左肩から提げ、右肩には必需品の入ったバッグをかけ、その上でミスリアを背負っている。それぞれ単体ではさほどの重さが無いが、こうやって合わさるとそれなりに足が遅くなる。しかもこの状態で山肌を降りるには、バランスが危うい。

「一直線に進む必要があるのか」

「や、ちょっと北西に回ればもっと斜面が緩やかなとこもあるはずだ。坊ちゃんの家に帰るにしてもそっちのが近いしな」

「送って下さるんですか?」

 明るい声で五男坊が訊く。

「まさか。あと半日もすれば道が分かれるぜ。残りの道のりは自分で行け、少なくとも山賊団はもうお前には手を出さねーだろ」

 そう答えながらもエンはもう踵を返していた。五男坊が慌ててついていく。

「……はい……。助けて下さってありがとうございました。本当にどう御恩をお返しすればいいものか……」

「オレ何もしてないぜ。お前が本当に礼を言うべきはミスリア嬢ちゃんだし」

「わかってます。でも聖女様は、まだ眠ってます。代わりに伝えて下さいませんか」

「いーけど。せめてゲズゥには言ってやれよ。オレの方が話しやすいからって逃げんなよー」

 子供を優しく叱る時の親を思わせる口調で、エンがたしなめた。

「すみません……」申し訳なさそうに答え、五男坊はゲズゥを振り返り、闇の中でもはっきりと怯えた目を向けてきた。「彼が鬼のように強いあの頭領を負かしたって聞いて……ちょっと苦手で……」

「最初あんなに縋ってたじゃねーか。ほら、拷問されてた夜さー」

「うぅ、その時のことは忘れてください!」 

 五男坊は立ち止まり、ゲズゥを向き直った。一拍置いて、ありがとうございました、と腰を折り曲げて頭を下げた。育ちの良さが垣間見える、丁寧な礼だった。

「伝えておく」

 ミスリアに、という意味合いを込めて、ゲズゥは言った。

 顔を上げた五男坊の目には未だに怯えがちらついていたが、それでも笑んでいた。

「ところで、坊ちゃんは帰ったらどうする気だ?」

 やり取りを見守っていたエンが訊き――途端に、五男坊を取り巻く空気が凍り付いた。

「討伐隊を引き連れようなんて考えてるんならやめとけ。無駄な人死にが出るだけだ。家宝を隠すとか移動させるのも、恨み買いそうだからやめときな」

 五男坊は図星をつかれたのか、黙り込んだ。

「だからそんなことより、酷い目に遭わされたっていうアンタのお姉さんを支えてやれ。ま、余計な世話かな、これは」

「余計なお世話ですよ。助けて頂いて感謝していますが、貴方があの山賊団の一員だった事実は残っています」

 怒気をはらんだ声色で吐き捨て、五男坊はさっさと先を歩いた。

 取り残されたエンが、困ったように頬をかいた。

「痛いとこつくなぁ」

「……あの男には、想像が付かない」

 ふとゲズゥが呟いた。

「んー? 生き方を選べない人間が居るってこと? ま、貴族だって、あんまり選べる余地が無いだろうけど。そういうのとは、違うよな」

 語尾に向けて、声音が暗くなった。

「ああ。後戻りができないのとは、違う」

「どう後悔したって、選んだ道の結果も、他の道を選ぶ勇気が無かった過去は消えない。後になって、向き合うのも受け入れるのも難しいんだよ」

 エンは深くため息をついた。

「ヨン姉の消息がわかったとしても、わからなかったとしても、それからオレはどうすればいいんだろーな」

「……その時になってから考えても遅くないはずだ」

 そう答えながら、ゲズゥは歩き出した。

「だな」

 相槌を打って、エンも歩き出した。

 しばらくして二人は小走りになり、足の長さもあってか、貴族の五男坊にすぐに追いつけた。

 三人は月の無い夜を慎重に進んだ。

 遠くから、獣の鳴き声が響く。

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